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■山路の露 〜のちの宇治十帖物語■


<4>


その日の夕暮れ、空が薄闇色になる頃に、薫は小野の里に向けて出発しました。
京の町なかでは、誰とわからないようたいそう質素な女車を用意し、郊外の山道になってから馬に乗り換える周到さ。あいにくの夕霧がたちこめ見通しは悪いですが、浮舟に逢いたいと一途に願う今の薫には、何の妨げにもなりません。
(…今さら逢ってみたところで何がどうなるわけでもないのに、我ながら愚かだよ)
なんとなく自嘲気味な薫です。確かに、浮舟への愛情があったところで、髪を切り出家してしまった彼女が自分の愛を再び受け入れるはずもなく、この忍び歩きも徒労に終わってしまうかもしれないからです。けれど逢わないことには何も始まりません。
話したくなければ無理に話さなくともよい、ただ、かつて逢瀬の縁を結んだ者同士、わずかな夢語りだけでもできたら…その一念で馬を走らせているのでした。木枯らし混じりの風に雲は散れぢれ、晩秋の澄んだ夜空の月はあまりに美しく、彼方にいる浮舟は今頃どんなもの思いでこの月を眺めていることでしょう。
山を深く分け入るにつれ道はしだいに草深くなり、月のさしのぼる枯れすがれた山里に、露を分けつつ馬を進める随身たち。まるで絵のような美しい光景です。やがて、薫たち一行の前方に小さな庵が見えてきました。たいそう簡素なつくりの庵です。同行した小君に中の様子を探らせますと、
「門は錠がさしてあって入れそうにありませんが、竹垣がめぐらせてある所に小道があります。そこから中にお入りください。今なら人影も見当たらないようです」
と報告してきます。
「私が来たことをまだ知られたくない。皆の者、住人に悟られぬよう静かに」
薫はそう言って独りで小道に向かいました。頼りなげな小柴垣も、浮舟の住居を囲っていると思うととても慕わしく見えます。妻戸が開いているのは庵の住人の誰かが起きているからでしょうか。薫は用心しつつ前栽のもとから軒近くへと移り、うっそうと広がる常緑樹の枝葉に隠れました。目の前の部屋はどうやら仏間のようです。仏前にたく香りが深く漂い、誰かがお勤めをしています。あれが浮舟でしょうか。経文を巻き返す音がパラリ、パラリと忍びやかに聞こえてきます。しんみりと静かに、けど心を込めての勤行の様子を垣間見る薫は、自然と涙がにじんできそうでした。薫は、お勤めの様子をじっと見守っていました。やがてお勤めが終わり、その人は、
「なんて明るい月夜なのかしら」
とつぶやきながら、すだれの端を少し上げ、月を見上げました。その横顔はまさに浮舟。昔の面影そのものです。浮舟はすだれをわずかだけ上げたつもりでしょうが、月の光は浮舟の姿を残らず浮かび上がらせ、尼の着る鈍色の香染の法服も、肩のあたりで切りそろえた尼削ぎも、全てが薫の目の前にくまなく照らされます。月を見上げるまなざしも以前と変わらず清楚で美しく、上品さなどは以前よりむしろ勝っているのではないでしょうか。薫は、常緑樹の下を飛び出して浮舟のもとに駆けつけたい思いをぐっとこらえ、なおも見つめ続けていると、


里わかぬ雲居の月の影のみや見し世の秋にかはらざるらん
(見し世(=宇治で暮らしていた頃)の秋と変わらないのは、どの里をも公平に照らしている、この月の光だけなのかしら)


とひとりつぶやく声が聞こえ、涙ぐんでいる様子さえ見えます。その姿があまりに頼りなくいじらしく、とうとう薫は我慢できなくなり、


ふるさとの月は涙にかきくれてその世ながらの影は見ざりき
(あなたの居なくなったふるさと(=宇治)の月は涙にかきくれ、かつての美しい光を見ることはありませんよ)


と応え、木々の中から姿を現しました。浮舟はどれほど驚いたことでしょう。夢か幻かあやかしか、浮舟は頭の中が真っ白になり、その場を離れようとしました。けれど、薫に服の袖をとっさにつかまれ逃げることができません。熱い気持ちを抑えかねた様子で迫ってくる男が薫だとようやく判った浮舟は、今のやつれきった姿をすっかり見られた恥ずかしさでいっぱいです。
(では小君は私との約束を守ってはくれなかったの?
それで死にそびれた私をわざわざ見にこられたの?)
と、ただただ涙があふれるばかりの浮舟。顔を背けていても、小さな肩をふるわせて泣いている浮舟が、薫にとっては愛しくてなりません。
「あなたが死んだと聞かされた時は驚いた。でもね、しばらくしてから、それが入水によるものだったと誰かから聞いて…あまりの衝撃に打ちのめされる思いだったのをあなたはわかってくれるだろうか。普通に亡くなったのであれば、『ああ、愛しい人の魂はこの雨となったのか、あの雲になったのか』と空を見上げて懐かしむこともできるのに、普通じゃない死に方をしたと聞いて、とてもじゃないけどそんな余韻にひたることなんて出来なかった。しかも、『死んでない。助かったらしい』と聞いて、いったいどうなっているのか、何を信じていいのか、とにかく一度あなたと逢いたい、逢わなければと、ただひたすら願っていたよ。この気持ち、あなたに解ってもらえるだろうか。
露けさの草に濡れながら山道をたどってきたこの私を、神や仏が哀れんでくださったのか、まさか、まさか本当にあなたに逢えるなんて。惜しくもない私の命であっても、こうして逢えた今は、生き永らえていたのが少しばかりうれしいよ」
と感極まって、全てお話しできそうにないことを語り続けるのでした。心を動かされる哀れ深い話を聞かされても、浮舟は今さらどう応えていいやら、たださめざめと泣くばかりです。
「浮舟、あなたが私を見捨てて逝ってしまったようで本当につらかったよ。私は自分のつまらない身のほどを知っているが、それでも、あなたの本心は完全には別の人(匂宮)になびいていないだろうと少しばかり楽観していたんだ。愚かな未練…とでも言えばいいのか」
薫の、誠実さの中にも匂宮との出来事をほんのりと混ぜる物言いに、浮舟はただただ恥ずかしく、返事もできません。それでも、いつまでも黙り続けるのもどうかと思われ、


ながらへてあるにもあらぬうつつをばただそのままの夢になしてよ
(生き長らえたとはいえ、生きているのか死んでいるのかすらわからないのが今の私です。ですから、現実ではない、これは夢だと思ってください)


と、か細い声で応えました。その態度・薫への心柔らかな歌が奥ゆかしく深みがあり、宇治に居た頃よりも大人の女人として一段と美しく成長しているように見えます。そのしっとりとした振る舞い方が、生前の大君の面影と交差し、引きずられ、薫はくらくらとめまいがしそうなほど心が乱れるのでした。


思い出でて思ふだにこそかなしけれまたや憂かりし夢になすべき
(あなたが死んだときのことが頭をよぎるだけでも悲しいのに、残酷にも「これは夢と思え」と言うのか。そんなこと、とてもできない)


こみ上げる悲しみに耐えるように目がしらを押さえて涙をぬぐう薫の姿は、どんな薄情な人でもとても見過ごせないほど風情があり、浮舟もまた、以前と変わらず自分のことを想ってくれている薫の誠意と人柄に胸がいっぱいになりました。もしこれがごく普通の女だったら、「いちど出家したからには、修行に専念するように」との僧都のありがたい言葉にもかまわず、簡単になびいてしまうかもしれない…浮舟は心底そう思いました。薫さまの温情ある言葉にすがってはいけないのだと心を強く持ち、ふすまぎわに身をもたせて薫に向き直る浮舟と、その決心を何とかほぐそうとする薫。薫は、
「あなたはまだ若い。出家の意志は、人生のずっと後でもよいでしょう?一時の高ぶった感情で髪をおろすのは、かえって罪になると聞く。もう一度、以前と同じ姿に戻ってもらえないだろうか。そして、もう一度私のそばに戻って来て欲しいんだ」
女ならば誰でもが心動かされる切なく優しい言葉も、今の浮舟にとってはただ苦しさを我慢するだけの言葉でしかないのでした。
じっと向かい合う二人。寂しげに枝を吹き抜けてゆく松風の音と、牝を恋うて鳴く牡鹿の声だけが辺りに響き、月影に揺れる庭の草むらには、月光をそのまま珠にしたような一面の露が白銀色に輝いています。秋の虫たちの鳴き疲れた声も聞こえ、晩秋の枯れ色と月の光が清らかにとけ合った外の景色が二人の心にしみ入るのでした。
夢の中でも見ることの叶わなかった浮舟に、今ようやく対峙できたよ…しみじみと思う薫の涙も袖の香りも、降り注ぐ月の光の中で言いようのないほど優美です。その薫を見つめる浮舟は、薫の煩悩の種になるような言葉をほのめかしたり、薫のけしからぬ恋心をさらにつのらせるような振る舞いは絶対しないつもりで、ぽつりぽつりと何気ない話を穏やかに続けるのでした。
とても小さな庵ですので、二人の会話はすぐ近くで寝ていた尼たちにも筒抜けです。
「なんとまあ、入道の姫君の過去にこんな経緯があったなんて…出家させてしまったのが、今さらながらの後悔ですわ」
と興味しんしんで、訪問者の殿方をひと目見ようと、自分たちの部屋の格子ごしに覗きましたが、用心深い薫は素性が知られぬよう、御簾をしっかりと身体にまとわせるようにしているので、指貫の裾がわずかに見えるばかり。
「素敵ねえ、どなたかしら」「今どきの人にしてはずいぶんと遠慮がちですわね」と、老尼たちは薫のスキのなさが不満な様子。「でも追い風が何とも言えないくらい良い香りですよ」「修行を極めれば得られるという栴檀(せんだん)の香りのような…」などとほめそやし、眠いのも忘れて格子のそばに張り付いたまま、いつまでも香りをかぎ続けています。
とんだ邪魔者が入ってしまいました。もうすぐ夜明けです。