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■山路の露 〜のちの宇治十帖物語■


<3>


主人の薫に急いで戻るようにと命じられていたのに、すっかり夜が更けてから屋敷に到着した小君一行。
門は固く閉ざされ、誰も起きている気配がありません。
姉上のことは明日参上してお話しよう、今夜はもう帰ろう…疲れていた小君は、家に帰って早く休みたいと思いましたが、薫に「昨夜はいくら待っても戻って来ずに、どこに言っていたのだ」と機嫌の悪い声で問い詰められるのもイヤでしたし、こんな夜中に家に帰って母上に「まあまあこんな遅くまでいったい何のご用事を言いつかっていたの」と根掘り葉掘り心配されても本当のことは言えないし、あれこれ聞かれても何て答えていいのかわからない…真っ暗な門の前で、小君はとても困ってしまいました。
「とにかく、薫さまにまずご報告申し上げて、ご判断を仰いでから母上に姉上のことを打ち明けよう。ぼくが勝手なことしちゃいけない。でも、みんな寝ているのに、門をたたいてわざわざ開けてもらうのも悪いなあ。どうしよう」
小君がしばらくあれこれ思いあぐねていると、それほど遠くでもないところで大勢の人たちのあわてふためいている声が聞こえてきました。怒声やら何やら、明らかにただ事ではない様子にびっくりして騒ぎの方向を眺めると、屋根の向こうに炎が見えます。
空気もきな臭くなり、煙が辺りに立ち込め始めました。どうやら薫の屋敷のある町のすぐ近くで出火しているようです。何と恐ろしいことでしょう。風向きによっては、薫の屋敷も炎に包まれてしまうかもしれません。けれど屋敷は静まりかえっていて、まだ誰も火事に気づいてない様子。これはぐずぐずしていられません、小君と守護の武士たちは門をドンドンと力いっぱい叩きました。その荒々しい音に屋敷の宿直の者たちはようやく目を覚まし、すぐ近くの燃えさかる炎に家中が大騒ぎになりました。
「ああ、よかった!どうして今夜に限ってこんな厳重に門を閉めていたんですか!」
小君たちが門番にそう叫ぶと、
「今日が殿(薫)の物忌みだったのをすっかり忘れておられて、あわてて閉めて回ったんだよ!なんだこの火事は!せっかく物忌みでこもった甲斐がないじゃないか!」
と門番の男が怒鳴ります。凶日を避けるために家にこもって精進していたのに火災がすぐ近くで起きているなんて。何としてでも類焼は免れなければなりません。侍所にいる男たちも迫りつつある火の手に混乱しています。
「こりゃあとんでもないことになりそうだぞ」
「皆を起こせ、早く集まるんだ!」
大騒ぎしていると、御殿に火事近し!の一報を聞きつけた知人の家来たちが馬で駆けつけ、火の粉と煙と大勢の野次馬と共に、辺りはもう大混乱になってしまいました。
火勢はますます激しく大きくなり、皆はいったいどうなることかと固唾を飲んで炎を見守っていましたが、ふいに風向きが変わり、風下だった薫の屋敷に向かって広がりつつあった火の手が止まりました。このまま火の勢いが収まってくれれば…皆の祈りが通じたのでしょうか、どうやら火事の炎は薫の御殿を避けてくれそうです。
「奇跡だ」「神仏の加護だ」と集まった人々はたいそう驚きながら帰っていきました。




火事の恐ろしさを目の当たりにした一夜がようやく明けようとしています。薫の屋敷は類焼を免れ、何とか騒ぎも収まりました。地上での混乱などまるで知らぬふうに、いつもと変わりのない明け方の空の美しい色彩の変化が、渡殿に立つ薫の頭上に広がっています。落ち着いたところで、薫は小君を呼びました。
「昨夜は小君に待ちぼうけをくらってしまったよ。いつの間に戻ってきたのかな」
「遅くなって申しわけありません。夜中の火事騒ぎの時に戻りましたので、参上しようかどうしようか迷っていました」
「それで、どうだったかい?――またいつもと同じの、不愉快な返事なのだろう?」
小君はとても困ってしまいました。「別人だったとごまかしておくれ」とつらそうな顔で必死で頼んでいた姉上のことを考えると、真実を報告するのがためらわれます。かといって、自分たち姉弟ごときがごまかしたところで、いずれ事情は分かってしまうことでしょう。結局小君は、大将の君のご命令に背かないようにするのが一番だと考えました。何より、大将の君の信頼を失いたくありませんでしたので、小君はためらいながらも小野の庵での出来事をそのまま報告しました。
浮舟の近況に関しては、横川僧都の話と小君の話は一致していました。ですが、思いもよらぬ浮舟の本心を小君から聞き、薫は、
「別人だったとごまかして欲しい、か…彼女がそんなことを考えていたとは」
と驚きました。
「尼の姿になってしまわれて…あのお綺麗だった姉上が、と悲しくなるくらい、すっかり面変わりなさっておいでです」
「おまえがそんなにしょげかえるほど、見苦しい様子になっておられたのかい?」
「以前の姉上とはまるで別人のようです…」
そう答える小君の目には涙があふれていました。こぼれそうになるのをうつむいて誤魔化すしぐさは、思わず微笑みたくなるようないじらしさです。
「ところで、母上にと託された手紙は、今持っているか?お返事がいただけなかったのだから、せめてその手紙は私に見せなさい」
小君は素直に手紙を取り出し、薫に渡しました。
落飾した者にふさわしく、青鈍の紙がつつましく巻かれています。地味で目立たない、とても簡素な手紙です。けれど、これが欲しくて欲しくてたまらなかった浮舟の手紙。たとえ、自分宛てでないにせよ、彼女の手蹟が、気持ちが書かれているのです。
いくら彼女の手紙が見たいからといって、他人宛てのものまで盗み見するなんて、我ながら情けないな…薫はけしからぬ行為に苦笑しつつ、手紙に目を通しました。


いとひつつ捨てし命の消えやらでふたたび同じ憂き世にぞふる
(こんな命、と思って捨てたのに死ねもせず、同じ憂き世をおめおめと生きています)


まよはせし心の闇を思ふにもまことの道は今ぞうれしき
(心の闇に迷っていた人生を思うにつけても、今、仏の道を歩めることがうれしいのです)


なつかしい手蹟。きっと一生懸命考えながら書いたのでしょう、墨付きも途切れがち、思い乱れながらの心の跡がはっきり見て取れます。悲しみ・うれしさ・色々な思いがこみ上げてくる薫の頬には、耐えに耐えていた涙がいちどにあふれてくるのでした。


ほのぼのと明け行く東の空の光を受け、静かにたたずむ薫君。落ち着いて思索的な風貌は神がかった美しさで、独特な気品に満ちたこの主人を「なんてすばらしい御方なんだろう」と、小君はあこがれのまなざしで見つめていました。
薫さまがこんなに想ってくださるのに、姉上はどうして嫌がっているんだろう、尼になんかならなくてもよかったのに、と残念に思いながら控えています。
「少し考えがあるから、この手紙を母上に渡すのは2、3日してからにしなさい。それまで私が預かろう」
薫はそう言って、手紙をふところに隠してしまいました。
もう待てない。今夜逢いに行こう。こんな人づてじゃなく、他人宛ての手紙じゃなく、浮舟本人と話したい。少しでいい、彼女の胸の内を知りたい…薫は、日が経てば経つほど、悲しさも恋しさもいや増す我が身に耐えられくなっていました。
「大事な手紙を横取りするなんて、とおまえは怒るだろうけど、誤解しないでおくれ。今夜、小野を訪ねようと思っているんだよ。軽々しい夜歩きと思われようともかまわない。おまえもその心づもりで、今日の夕方もう一度来るように」
薫は小君に凛とした声で命じました。
小君は複雑でした。薫君の信頼を守った代わりに、姉上の信頼を失うこととなったのです。「人違いでしたと言っておくれ」と泣きながら頼まれたのに、お味方できなかった申しわけなさ。しかも母上宛ての手紙は取り上げられて。その上昨日の今日で、今度はあんなに嫌がっている薫君が小君を同行させて小野の庵に出向くというのですから。
ぼく、とてもじゃないけど姉上に顔なんて合わせられないな…薫の言葉をうけたまわりつつ、小君は心の中でそうつぶやくのでした。