■山路の露 〜のちの宇治十帖物語■


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先日来、薫君は体調を崩していました。病状はそれほど大したことはないのですが、大げさに心配する母宮(女三の宮)が何かと干渉してきます。薫君は、
「自邸にこもっていられる今のうちに、(浮舟のいる)小野と連絡を取りたい」
と思っていましたが、あれこれとうっとうしい母宮を無視することも出来ず、日にちだけが過ぎていきました。母宮の仰々しい祈祷が通じたのでしょうか、病気は特にひどくもならずに自然と回復しました。薫君はとにかく浮舟のことで頭がいっぱいでしたので、病後の養生を口実に自邸に引きこもったまま、夜歩きも出かけることもしません。
あるのどかな昼下がり、小君が薫君のもとへ参りました。薫は近くに召し寄せ、
「体調がすぐれない間はわずらわしい人目が多く、小野のあたりのことも思うようにできずにやきもきしていたよ。さ、これを持ってすぐに小野へ行きなさい。今度も手ぶらで私のところへ戻ってくるなら、私は本当に君に失望するからね」
と言って、御文をしっかりと手渡しました。
小君はそれを懐に大切にしまい、小野へと馬を急がせます。
昼過ぎに薫君の屋敷を出発したので、結局小野に到着したのは山陰が色濃く落ちる夕暮れ間近の時刻となってしまいました。




小君が小野の庵に到着したころ、浮舟は外の暮れ行く景色を一人で眺めていました。
来訪を取り次いだ尼僧が庵主に用件を伝えますと庵主は驚き、急いで浮舟のもとに知らせに行きました。
「ねえ入道の姫君。あの小さなお客さまにはあなたご自身が応対なさい。何の気兼ねも要らない人なのでしょう?そんなに無視したり放ったらかしになさっては、あのお客さまの身にもなってごらんなさい、とても不愉快に思われますよ」
庵主は小君を気の毒に思い、浮舟を諭します。それを聞いているほかの尼僧たちも、
「庵主のおっしゃるのもごもっともですよ。あんな年若い少年に…私たちから見ても本当に冷淡だと思いますよ」
と口々に非難するのです。浮舟は「ああ聞き苦しいこと」と皆の気持ちがわずらわしく、庵主の「お客さまは、いつものようにあちらにいらっしゃいますよ」という言葉にうながされるままに、簀子(すのこ)の端に座りました。
庵主も一緒に出て、下で控えている小君に向かって、
「いつもいつも難儀な山道をこうして来て下さっているあなたも、あなたがご用事のあるお方が「会わない」と頑固に思い込んでいるのも、はた目に見ていて何ともお気の毒で。今日は、年寄りが出過ぎたお節介をさせてもらいますね。
あなたがご用事のある人は、どうしたわけか、誰かに知られたりすることを極度に嫌がっているように思われる方でね。見られるのを恐れているのですよ」
と説明しました。簀子の下で小君は、
「今日こちらに参りまして、『お返事なくば戻って来るな』と、殿さまに言われました」
と申します。上品で愛らしい物言いは、主人すじの薫君に日々接しているからなのでしょう。庵主は小君と言葉を交わしたあと、すぐそばにひざまずいている浮舟の衣装をきちんと整えてやりました。
浮舟はとても緊張していました。確かに、実の弟に足しげく通われ、もはや「人違いです」と知らぬ存ぜぬを通せる事態でなくなっているのはわかっています。それに、自分が生きていることを、母親が他人のうわさ話から聞いたとしたら、
「こんな大事なことなのに、あの子からは何にも連絡が来ないなんて」
ときっと悲しむに違いありません。それはイヤ、人づてで聞かないうちに、私からお母さまにそっと伝えたい…と切に思うからこそ、嫌々ながらもこうしてここに座って小君と対面しているのです。
「ではごゆっくり」
そう言って庵主や少将の尼が奥に入って行きました。
簀子の端に座る浮舟と、下の庭に控える小君。
実の姉と弟はやっと対面できました。
小君は、主人の薫の手紙を渡すより何より、まず姉の姿を確かめました。
久しぶりに見る姉は昔と変わらず小柄でとても美しく、ただ、豊かだった髪の長さだけが以前とまったく違っているのが悪い夢でも見ているようで、薫君の御文を差し出しながら、涙をぽろぽろとこぼして泣くのでした。浮舟も、もうすっかり忘れたと思っていた遠い記憶が懐かしく思い起こされ、まず母親のことを一番に訊ねようとしていたのに、胸がいっぱいになり言葉が詰まって出てきません。
しばらくの沈黙のあと、ようやく落ち着いた浮舟は、小君に話しかけました。
「私はこの世からいなくなってしまったものと皆さま思っていたでしょうが、こんな我が身にも仏さまのご加護かあったのか生き延びることができました。でもまだ記憶がはっきりと戻っていなくて…。
最近ようやく人心地がつき、それにつれてまず母親のことが気がかりでなりません。お母さまはどうしていらっしゃいますか?」
「姉上が行方不明になられてからというもの、母上は正気もなくすかと思うほど泣いています。気が狂ったように嘆いているのを見かねた薫の大将の君が、本当によくして下さって、
『自分のような者まで気にかけて下さる大将の君の御心ざしが身にしみるほどありがたく、それゆえ何とか正気を保っています』
と母上はいつもおっしゃっていますよ。けれどやはり姉上を思うあまり、母上はずいぶん呆けてしまって…元気でしっかりしていたあの母上はもういません。姉上が見つかったと教えていただいた時、すぐ母上にも知らせねばと思ったのですが、薫さまが、
『今しばらくは誰にもこのことを洩らさないように。他言無用だよ』
と何度も何度も念を押されたので・・・それで今まで黙っていた次第です」
小君は素直なもの言いで答えました。
「その薫さまのことです、私が聞きたいのは。私が生きていることを何故お聞き及びになられたのか。それが残念でなりません。一番知られたくない方だったのに。どうか『あれは別人でした』と申し上げてくれませんか」
それはできません、と小君が答えると、浮舟は、
「こんな情けないさまですが、何よりもまずお母さまに、私が生きていることを知らせたいのです。できることなら今いちどお会いしたい。このお文をお母さまに渡していただけませんか」
そう言って、几帳のそばから手紙を取り出し、目の前に置きました。小君はその手紙をふところに丁寧に仕舞い、
「殿さまへのお返事はどうしたらいいですか。大将の君へのお返事がなくては、京のお屋敷には戻れません。本当に一行でも良いです。姉上の自筆のお手紙をいただけたら帰れます」
と言いました。
「小君…何て情けない。以前のおまえはそんな子じゃなかったのに。血のつながった身内の願いより、主人のご機嫌の方が大事なの?ぶざまな姿をさらしてただ息をしているだけの哀れな姉のことを、「この世の人のようにはとても見えません」とごまかしてやろうとは思わないの?みじめな姉を隠してやろうと思ってくれないの?
手紙なんか書きません。おまえも、私がここにいることを決してお伝えしないでちょうだい」
そう言って、浮舟はもう筆を取ろうとはしませんでした。
家族姉弟の絆より、主人すじの薫の命令が大事と考えている弟に、非難の言葉を投げつけてしまった浮舟と、目をそらして返事もできない小君。もともと無口な性質(たち)で、はきはきと自分の意見を言わない浮舟ですが、幼い頃からこの姉弟は他の弟妹たちよりひときわ仲良く育ちましたので、小君にだけは他人に言えない胸の内を素直に話せるのでした。




「すっかり遅くなりましたが、今夜は京に戻るのですか?」
「通いなれた山道も、夜ともなればたいそう心細いものですよ。今夜は泊まったほうが安心ではありませんか?」
姉弟水入らずの対面がひととおり終わったと思われるころ、庵主や尼僧たちが現れて小君に声をかけました。
「いえ、殿さまへのお返事をいただけたので、すぐに戻ります。月が出ていますから、『道たどたどし』にはならないと思います」
と小君は答え、いそいそと帰り支度を始めました。
「かわいらしいわねえ。大人ぶって万葉集の歌で切り返すなんて」
老尼僧たちは、年若い少年がうれしそうに返事するしぐさがあまりに可愛らしくて、「えらいわねえ」「よかったわね」「またいつでもここに立ち寄ってね」と取り囲むように話しかけました。
名残惜しそうにしている老尼たちに見送られつつ、小君は、薫の大将が用心のために付けてくれた腕利きの武士数名に守られて、暗い夜道を京へと帰ってゆきました。