622段 奈良法師の句に連歌した式部大輔敦光の事


式部大輔・藤原敦光のところに、奈良から僧が、飛鳥味噌(あすかみそ)なる食べ物をたずさえてやって来た。
この飛鳥味噌、南都の僧が法論(仏教義の討論)を行う際、眠気防止に食した味噌で、焼き味噌に麻の実や山椒の実を混ぜて煎り付けた物で、なかなかスパイシーな味の健康食品らしい。
その飛鳥味噌を持ってきた僧に敦光が、
「いつごろ京に参られたか」
と尋ねたところ、僧は、
「きのふいでてけふ持てまゐるあすかみそ
(昨日出発して今日あすか味噌を持って参りました)」
と洒落っ気を込めた句で答えた。
これを聞いた敦光、
「みかの原をやすぎてきつらむ
(昨日−今日−明日と来たかw。ではそなたは瓶原(=みかのはら。奈良と京の国境にある)を通って来られたのだな)」
と応酬したという。




623段 法性寺忠通殿、元三に皇嘉門院に果物を持参する事


これは法性寺忠通公が、ある年の元三(=元日。年月日の三つの始め、という意味)に、皇嘉門院聖子のもとに参上したときの出来事。
皇嘉門院は忠通の長女だ。その日、忠通は粟おこしなどのお菓子を手みやげに参上した。この粟おこし、別に粟で作られているわけではなく、乾飯を粟のように細かく砕いて蜜や生姜などで堅く固めた神饌がルーツ。その粟おこしを女院と共に召し上がろうとした忠通は、口元まで近づけたおこしをおもむろに握り砕いた。やんごとない御方は、たとえ殿方であってもお菓子に直接かじりついたりなどせず、食べやすいよう細かく割るものなのである。受け皿ナシなので、当然おこしの欠片が殿の美しい袍の衣の上にバラバラと落ちる。そのこぼれたおこしの欠片の払い方がを、たいそう優雅であったというのだ。
この話を読むと、まるでリンゴを握りつぶすように、粟おこしを手のひらでクラッシュさせるシーンを想像してしまう。関西の粟おこしは相当堅く、握ればかなり痛い。それを口元まで持っていってから、
「おお、小さく割らねばまろの口に入らないでおじゃるよ」
と思いつき、フンッと指に力を入れる忠通。当然飛び散るおこしの欠片。口元でなく、懐紙や硯箱のフタの上で何故女房に割らせない。アタマ大丈夫か。優雅に払い落とした粟おこしの一部は床に散らばったと思われるが、その後膝行歩きでおこしを踏めば、たとえ袴ごしでも膝に相当ダメージがあるはずだ。つまり、あの堅い粟おこしを手で砕いた後始末の光景というのは、どう転んでも笑える光景にしかならない、ということだ。
結局、砕いたおこしの床に散らばった欠片は懐紙などに集めて食べたのか、拾い喰いなぞできるかと食べなかったか、気になるところである。
邪推の仕方によってはかなり異様な話だ。




624段 酒好きの侍読菅原在良、鳥羽帝からも酒を賜った事 


学者だった菅原在良朝臣、鳥羽院が在位だった時の御侍読(=帝に漢籍を講義する職の者)を務めるほどの碩学だ。ただ非常に酒好き。帝の侍読に祗候している時も、在良みずからせびったのか、あるいはガマンできない素振りを見せたのか、ともかく少年帝から酒をたびたび賜っていたという。
在良の侍読在職は1115年。鳥羽帝はこのとき17歳。70代半ばのかくしゃくとした学問の大家が、元服済みとはいえ少年に酒をせびるのは、例え講義の終了後であってもどうかと思う。少年鳥羽帝も同席していたなら、共に飲んだ可能性も出てくる。この老学者には教え子の少年の健康を気づかう親心とか、人目を気にする心とか体面を重んじる心、教育者としてプライドなどはなかったのだろうか。
仮に、侍読の後は食事と酒が提供されるのが慣例であったとすれば、説話として特に記録に残されるはずもないので、やはり少年帝に授業の後酒をせびっていた老学者は「普通とは変わった人物」だったと思われる。




625段 保延3年9月、仁和寺宝金剛院の仙洞に行幸の事


保延3年9月23日、仁和寺法金剛院の仙洞御所へ今上帝(崇徳天皇)の行幸が行われた。23日には十番競馬のうち前半の勝負が、24日には後半の残り六番勝負と騎射などの諸行事があった。
25日には御遊(管弦の宴)が行われた。
笙や竜笛、篳篥、琵琶、筝に和琴と、糸竹の調べが次々と奏でられる。双調が春の小川の流れのようなのびやかさで、平調が錦秋の如き華やかさで演奏され、厳かなる旋律が層をなして響き広がるさまは、とても常の御遊とは思えないほどだ。やがて宴はたけなわ、盃はめぐり、古歌(神楽)や流行歌(今様)、漢詩(朗詠)が次々披露される。
上は大臣から下は下臈まで歌あり舞いあり。主上同席の中の、いわゆる品の良い無礼講といった態を想像すればよいか。一同面白い今様を謡いながらの乱舞はまさに娯楽の極みだ。
『白薄様』という歌が最も人気ある今様なのか、
「白薄様、濃染紙(こぜんじ)の紙、巻上(まきあげ)の筆、巴(ともえ)描いたる筆の軸…」
と唱和しながら皆が何度も舞う。
やがて、酔った関白忠通公が今様を舞いながら部屋を退下して行くと、それが酒宴のお開きの合図。一同それにならい徐々に座を立って行った。
管弦・作文(漢詩)のあとは和歌の宴。当時按察使大納言だった八条太政大臣藤原実行殿が開催の挨拶を任された。歌のお題は「菊、千秋を契る」。優れた歌を詠んだ者には勧賞や引出物の沙汰があり、3日間に及ぶ酒宴と歌舞の
御遊は盛況のまま幕を閉じた。
ところで、この話が何故『飲食』の段に入っているのかが判らない。むしろ『遊覧』に入れた方がまだ納得が行くというものだ。






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