612段 食は人の本にして酒は三友の一なる事


食べることは人間生活の基本である。治政の中でも「食える」保障は、国家の安定にもっとも重要な事柄だ。そして「食」の中でもとりわけ酒造りの起源は古く、スサノオノミコトの時代から始まったと伝えられる。まこと酒を呑むほど楽しい行為があろうか。
酒は三種の友人(琴・酒・詩)の一人、心をほぐし、遊びの世界へと解放してくれるのだ。




613段 中関白道隆、供奉の最中に沈酔の事


中の関白藤原道隆が内大臣だった時、一条天皇の春日行幸に供奉したことがあった。その時道隆公は自分の車に酒と食事の用意をさせ、酒飲み仲間の按察使大納言・朝光卿や、当時まだ若かった右衛門督・道長公らを車に呼び、呑むわ食べるわでべろんべろんに酔いつぶれたのだ。それも行幸という国家行事の最中であるにも関わらず、である。
「巻きぞえ喰らってたまるか」と危険を察知した道長公は、車の中でつきあい程度に食事を済ませた後ただちに降り、引き続き何とか行幸のお供に加わり、醜態をさらさずにすんだ。
このエピソードでも知られるように、道隆公という人物はとにかく酒を好む。日頃の口グセも、
「死んで極楽に朝光がいないのなら、ワシは極楽に行かずともよいぞ」
というものだった。ある賀茂詣の時など、やはり車の中で呑み過ぎ、酔いつぶれて寝てしまい、冠がぬげてもとどりが丸出しという非常事態になったことがあった。もうすぐ賀茂社に到着という時になって、人のあわてた声にやっと目が覚め、自分の酔態に驚いた道隆公は即座に乱れた髪を直し、今の今まで酔いつぶれていたのがウソのような立派な態度で車から降りたという。
前後不覚になるまで浴びるように酒を呑んでもやることはきちんとやる。なぜああも見事に酔いがさめるのか、何とも不思議なことだ。




614段 寛弘3年3月一条天皇の行幸および酒宴の事


寛弘3年3月4日、一条天皇は、火災で焼失した内裏の里内裏として住んでいた東三条殿から一条院に遷御した。遷るに先立って、東三条殿で花の宴が行われた。屋敷を里内裏に提供した恩賞として道長一家への増爵のあと、詩文・管弦の御遊があった。今が盛りの桜を肴に酒宴も盛り上がった。
中納言俊賢卿が酒を注いだ盃を内大臣公季卿が取り、主上に差し上げる。主上が返礼の盃を左大臣道長公に下賜する。道長は天盃の作法どおり、酒をそのまま直接飲まずに別の土器(かわらけ)に移し入れてうやうやしく飲み、南階を降りて天盃の御礼の拝舞をする。その後池の水際の桜の枝を折り、袖をひるがえしながら、魔よけのための重々しい警蹕(けいひつ)の声と共に西階をのぼり、主上に桜の折り枝を奉ったのだ。
参加者らは桜の花をおのおの挿頭(かざし)にし、花見の宴はおおいに盛り上がったという。




615段 関白頼通ら公卿、太后・太皇太后へ参り盃酌の事 
         

万寿2年正月3日、関白頼通公ら公卿以下、要職の面々が枇杷殿(太后妍子)にて酒盛りをした。華美を好む枇杷殿の、粒ぞろいの女房たちに酒を勧められ、一同したたかに酔った。場所を変えて飲もうと、今度は太皇太后彰子のもとに参り、さらに酔った。酔郷ここにあり、心地良く酔った一同は極楽にいる気分だ。関白を始め、皆自然と歌い、踊り出す。やがて宴果てて、権大納言頼宗卿・能信卿らが明々と松明を掲げる中、関白がゆるゆると退出していった。宮の大夫源道方卿らが車の簾を掲げてそれを見送る。
酔った関白は優雅に歌舞しながら退出しただろうか。きっと絵にもなりそうな素晴らしく美しい場面だったことだろう。




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