第530段 下野武景、別名「善知識の府生」の事


後鳥羽帝の御時のこと。
右少将藤原親平の息子性親が気性の荒い馬を持っていた。
葦毛のたいそう癇の強い馬で、フェラーリのエンブレムくらい跳ね上がるクセがある。これに耐えて乗りこなせる者などめったにいないという。そんな葦毛に近衛府の下級衛士・下野武景が挑んだ。騎馬技術には相当自信を持つ武景だ。
まず武景は馬のたてがみをいっぱい手につかみ、振り落とされないようにどうにかまたがった。が、馬は人を乗せるのを嫌がって、前足を大きく上げて武景を振り落とす。では馬のたてがみを切ってみればどうか。武景はこの荒れ馬のたてがみを切り、さらに香油をしみ込ませた綿で首のあたりを拭き、再度乗馬に挑んだ。人間にあれこれいじられた馬はいよいよ逆上し、香油と汗でギラギラすべる馬の体に手を回すのも一苦労。かろうじて乗れたところでつかむたてがみも無く、当然といえば当然だが、武景はこの荒れ馬をまったく乗りこなせなかった。武景いわく、
「そもそも人を乗せるのを嫌がるこんなフェラーリ野郎は、ひと目でそれとわかるよう、最初からたてがみを切っておけばいいのさ」
この一言が、後年跳ね馬のたてがみを切る習慣のきっかけとなった。それでこの武景は『善知識の府生=真の知識を説き聞かせる府生(近衛府の下っ端役人)』と呼ばれることとなった。




第531段 僧泰覚、南都僧6人六首をまとめて一首で返歌の事


同じく後鳥羽帝が、南都(奈良)の僧6人に飾り棚を作らせたことがあった。僧たちはそれぞれ趣向を凝らした美しい棚を制作して院に奉った。各々の飾り棚には、制作した僧の和歌が付けてあった。
帝は献上されたそれらをご覧になり、
「この歌の返しは、歌詠み上手の泰覚に任せるがよかろう」
と三井寺の僧泰覚を召した。帝は、参上した泰覚に、
「かくかくしかじかのことで、これら飾り棚を制作した南都の僧ら6人に返歌をいたせ。ただし、六首つくるのではなく一首で返すのだ」
と注文をつけた。泰覚は即座に、


奈良坂のさかしき道をいかにして腰折れどものこえてきつらん
(奈良坂の険しい坂道を、腰の曲がった(下手くそな歌を持った)老僧たちはどんな苦労をして越えてきたのだろう)


と詠んだ。
帝はこの当意即妙な返しに大変感心されたという。




第532段 治部卿源兼定の老家来が連歌で荒言した事


治部卿源兼定が滋野井第の泉殿にて納涼の宴を楽しんでいた時の事。
増円という法眼が宴会に参加していたのだが、その増円が酔った勢いか何かで、治部卿の老家来に絡みだしたのだ。
老家来は馬寮担当の武士なのだが、やせ衰えた老体にこれまたしなびた香色の直垂(ひたたれ)を着、歯の抜け落ちた口で難渋しながら宴会のおこぼれを食べているさまが本当に哀れ。
その老家来に、増円が連歌で絡んできた。


老むまは草くふべくもなかりけり
(老いて歯抜けの馬はエサを喰う事もできないんだとさ〜)


老家来を老馬にひっかけての歌なのだが、この詠みかけが面白いと、主人の治部卿も含め宴会メンバーが大いに盛り上がり、連歌の続きをやんややんやと詠みあっていたところ、当の老家来が一言、


おもづらはげて野はなちにせむ
(馬の頭につないだ不自由な馬具をはずしてやって、野原で自由にエサを喰わせたいものさ)


と独り言のような句を詠み加えた。盛り上がっていたところへ水をさすようなこの連歌に満座はすっかり白けてしまったという。
増円にからかわれて口惜しい気持ちはわかるが、こんな放言は家来として失格である。




第533段 増円法眼が「うとめ法眼」とあだ名された事


同じくこの増円が、京都伏見は醍醐寺で開催された観桜の宴に出かけたときのこと。
奉納の舞の最中に彼がこっそり抜け出して、釈迦堂の前の桜の木のそばで独り鞠を蹴っているのを、醍醐法師という僧が目ざとく見つけ、
「大事な舞をろくに見物せずに勝手なことをしなさんな」
とその場を追い払われてしまった。この増円、「うとめ増円」というあだ名のとおり、ずいぶんな嫌われ者とみえ、かなり乱暴に追い立てられ、逃げ回っていたらしい。




第534段 進士の志定茂、行縢のはき方を知らなかった事


進士の志(さかん)に定茂という侍学生がいた。侍学生とは、宮中警護の武士の役を兼ねた文章生のことだ。
この定茂、ある人が有馬温泉に出かけるお供をすることになった。そこで知人から行縢(むかばき)を借りた。行縢とは、乗馬の際に使用される毛皮でできた大きな膝あてのこと。知人は普通に両足ぶんの行縢、つまり一対を貸そうとしたが、定茂は、
「いやいや二つは多過ぎるでしょう」
と片方を返してしまった。
やがて出立時刻になった。夜明け前、定茂は片足ぶんの行縢に両足を一生懸命つっこみ馬に乗ろうとするのだが、どうして乗れようか。おまけにこんなまぬけな定茂よりさらに無知な下人がいて、一つの行縢に両足つっこみ真面目な顔してぴょんぴょん踊っている定茂を必死で持ち上げ馬に乗せようとするが、もちろん乗せられるはずもなく。阿呆な二人が難儀しているサマを、同行する連中が「何やってんだ」「笑わしてんじゃねえよ、さっさと支度しろ」とさんざんなじり、ようやく二人は行縢の使い方が解ったという。




第535段 馬の助入道の召使いも行縢を知らなかった事


同じ行縢ネタでこんなエピソードもある。馬の助という名の入道が鎌倉へ下向したときのこと。
この入道が長年召し使っている中太の冠者という下っ端侍に、余った行縢を一対、つまり両足ぶんを下げ渡した。行縢なんぞ身につけたこともないような無官の下っ端家来だった中太は、前段の定茂と同じ行動を、つまり両足を片方の行縢につっこんでしまったのだ。残ったもう片方の行縢を掲げて、
「すみません、こっちの方はどなたが履くんですかあ」
とマヌケな声で叫んでいたそうだ。
この話を当の馬の助入道から聞いたとき、可笑しさのあまり私は思わずこんな歌を入道の前で詠んでしまった。


はきさして人のためには残すとも片行縢にたれかなるべき
(片方の行縢を他人のために残したつもりだったのでしょうが、使う者なぞ誰もいないでしょうにねえ)




第536段 季節違いの袍や雨の車宿りで笑われた定茂の事


534段に出た定茂にもこんなヘンテコな話がある。
承元2年10月28日、後鳥羽院主催の作文会が文殿(校書殿)で行われた時のこと。
季節はもう冬だというのにこの定茂は夏の袍(ほう)を着用して参内したのだ。この様子を見た参加者たちが陰でくすくす笑っているのに、彼はまったく気づくこともなかった。この日はこれで終わったのだが、後日、彼がある上達部のもとを訪問したとき、世間話のついでにこんな話をした。
「先日、校書殿で催された作文会に夏の着物を着て行きましたところ、周りの人々が、
『今がどの季節なのか気づかないくらい、学問に熱中する殊勝さよ、いやあ感心感心』
そうおっしゃられて、たいそう励みとなっております」
定茂は笑われた意味がわからなかったのだ。それを聞いた上達部らは、
「はっはっは、学者馬鹿とはよく言ったものじゃな」
とカゲで馬鹿にしたそうだ。
またこんな話もある。
いつだったかこの定茂が牛車を新調したことがあった。
貴族の生活に必要不可欠な牛車とはいえ、その維持管理コストは馬鹿にできない。牛や牛飼い童にかかる経費・車の修繕費用などが財政難から工面できずに、他家から牛車を借りる貴族も多くいるのが実情。そんな中、超下級貴族のさらに端くれの定茂が牛車を仕立てたこと自体が大したものなのだが、当然ながら絶対に他人に貸そうとしなかった。それはそれは大事に使っていたのだ。
そんな定茂がある時、まだ少年だった源通方(みなもとみちかた)卿のもとを訪ねたことがあった。そのとき急なにわか雨が降り、何とこの定茂、大騒ぎで自分の牛車を(屋根のある)門の中に引き入れ、代わりにそれまで門に置いてあった通方の牛車を雨のザザ降る庭に追い出してしまったのだ。少年とはいえ内大臣家の息子の牛車を、それも当少年の屋敷内で雨中へ追い出すとは。
「なんと言うことを。この家の若君の車ですぞ!」
と所司が怒って飛んできた。ところがこの定茂、
「権門のお屋敷の若さまならば、おニューだろうがリフォームだろうが牛車を何度でも仕立てられるでしょうけど、私にはこれっきりなのです。
ちょっとでも傷むようなマネは絶っっ対したくないのです!」
と言い放ったのだ。結果は所司の迫力負け。定茂の必死さに、にわか雨が止むまで雨宿りさせてやったという。






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