517段 基房の春日詣に召され、褐衣で供奉した秦兼国の事


奈良は春日神社へ参詣する摂政松殿基房(藤原基房)が、後白河院から秦兼国という随身を借りたときの話。
当時の兼国は警護の仕事を嫌っていて、この依頼を面倒くさいと思いつつ請け負った。やる気ナシの仕事ゆえ、頭はボサボサ、見ただけでイラっとくるへんてこな褐衣(かちぎぬ=地下人や下級武士用の濃藍色の上着)と言ういでたちで参上した。当然基房は、
「摂政の随身にふさわしい、きちんとした身なりにせよ」
との仰せ。それでもやる気のない兼国は適当に髪をなでつけて再度参上、供奉の仕事をやり終えた。
そんないい加減な仕事ぶりの兼国だったが、基房は、
「見栄えもする。馬の扱いも中々のものだ」
とたいそう気に入り、ちょうど家来に欠員があったので、基房の屋敷で雇うことにした。いわゆるヘッドハントである。
その兼国が好待遇で雇われると聞き、基房の屋敷の家来たちは一斉に反発した。特に古参の一人・警護監督の下野敦景は、自分の上役によそ者がやって来ることにたいそう腹を立て、
「あの者は貧民の出。殿の家来なぞとても勤まりませぬ」
と兼国が摂政の家来として如何にふさわしくないかを基房に申したてた。だが基房は、
「随身としての技量・人柄に何の欠点も見当たらぬ。見当たらぬからこそ、おまえたちは出身が卑しいのなんのと難クセをつけるのだろう」
と突っぱねた。
こうして基房は雇う気満々だったが、結局兼国が後白河院のもとから基房側へ転職したかどうかは定かではない。




518段 昇進したとき、長年の従者を踏みつけた秦兼任の事


秦兼任というとても貧しい男がいた。貧しかったが、従者を一人持っていた。後白河院が在位の頃、年長勤続者の功で「召次の長(=めしつぎのおさ。院での雑事を司る)」に昇進した。
家族らは彼の出世をとても喜んだ。貧しかった彼を見捨てることなく長い間仕えた従者も、ようやくご褒美が下されることだよ、と一門の者たちが二人を見守っていると、力自慢の兼任は、いきなりこの従者を組み伏せ、あろうことか、頭頂のもとどりをざっくりと斬り捨ててしまった。
もとどりを斬られることはこの上ない恥辱。兼任のあまりの蛮行に、皆は恐れおののき、固唾を飲んで二人を見つめていた。
兼任はザンギリ頭になってしまった従者を見下ろし、こう言い放った。
「長年わがまま言い放題で、素直に命令ひとつ従わなかったお前だが、従者になる者がお前しかいなかったのだからしょうがない。お前の振る舞いに長い間ガマンしてきたが、今日という今日こそ日ごろのうっぷんを晴らしてくれるわ!」
口ではそう罵りながらも、長年貧しさゆえの苦労を共にしてきた大事な従者であった。兼任は従者の誠意を認め、召次長第一の家来「召次一番」の職を任せたという。




519段 孝道の遅刻に激怒した妙音院入道の事


楽所預の藤原孝道がまだ若かった時の話。
妙音院入道殿(藤原師長)が孝道に用事があり、「いついつ参るように」と命じていたのに、その仰せを孝道は完全に忘れてしまい、気づいた時にはすっかり夜だった、ということがあった。約束をすっぽかし遊び呆けていた孝道に入道殿は激怒、自邸の料理長に、
「今すぐ麦飯に焼いた鰯を添えてもって来なさい」
と命じ、完全遅刻で小さくなって控えていた孝道にそれを食わせた。
入道にとって麦飯&鰯のお膳は、保元の乱で土佐に配流させられた時の「粗食中の粗食」であり、とても不味くイヤな記憶しかなかった。ゆえに孝道に、
「今食べているその不味い不味い味は、私の怒りの度合い」
と思い知らせてやろうとしたのだ。ところが、孝道は孝道で、遊び疲れてお腹はぺこぺこ、食べれるものなら何でも寄こせと空腹の極限だったので、出された麦飯&鰯を美味そうにもりもりと平らげてしまった。
その健康な食べっぷりに入道殿はますますムカつき、
「三千三百三十三度の礼拝行をせよ!」
と命じる。空腹が満たされすっかり元気な孝道は、頑健な身体も手伝って、いとも易々と礼拝を済ませてしまう。これには入道殿もお手上げ、
「癪(しゃく)にさわる奴め。わしはもう死んでしまいたい。これ以上お前を相手にするのはごめんだ」
とうなった。
普通なら相手を容赦なく怒鳴りつけるところを、入道殿のようなやんごとなき貴人は、叱責の仕方もこんな上品になってしまうらしい。




第520段 近江大僧都寛快の若かりし頃の事


仁和寺の法眼寛快が、まだ阿闍梨だったときの話。
後白河法皇の御懺法(ごぜんぽう=経を誦しながら懺悔する法要)に召されたのだが、その時の供米がろくに精米されていない糠(ぬか)だらけの悪米で、僧たちは米を納めに来た者に不満たらたら。だが表立って文句を言えないでいた。そんな僧たちを見ていた寛快は一計を案じ、宿坊の軒に箕(=み。安来節に出てくるザルのこと)を掛けておいた。米に混じったもみ殻やゴミを後であおって払い落とそうと思ったのである。
その頃の法皇は御所を巡回するのを日課としていたので、法皇の出歩く先には見苦しいものは置かないよう指示されていた。
だが寛快の宿坊の軒先に、今日はみっともない箕が掛けられている。巡回の事前にそれを発見した責任者が、
「なんでこんなモノが引っ掛けてあるんですか。もうすぐ法皇が通られます。美しくないものをご覧になった法皇が、ご気分を害されますと困ります。早く隠してください」
と文句を言うと、寛快は平然と、
「何か不都合なことが?責任者のあなたさまに落ち度はありませんよ。この箕をご覧になった法皇さまがご不快を示されたなら、この寛快めが全ての責任をとりましょう。供米があまりにもゴミだらけで、この箕であおって払い落とそうと思いついたのです。それを見苦しいと申されますか。そもそも、なぜそんな悪米を平気で受け取るのですか」
と言い放った。責任者は、
「供米の粗悪なのを見抜けなかったのは、あなたの言うとおり、雑務監督者の怠慢のせいです。早急に調べ直して対応させます。今後こんな不手際がないよう厳しく取り締まりますし、怪しいと思ったらいつでも申し立ててください。だからお願いです、今回ばかりはこの箕を隠してください。ここの通路は私の管轄、法皇さまのご機嫌を損ねて、事を荒立てるような事態にしたくないんですよ」
と寛快に泣きつき、
「そういうことでしたら」
と寛快は箕を取り除けた。
責任者は約束を守り、以後は良品の米がきちんと納められるようになった。喜んだのは悪米をいまいましく思っていた僧たちである。
「正論を憶さず述べて下さる阿闍梨どのが、良い時に来てくださった」
と感謝しているとか。
一方こんな話もある。寛快が出先から乗り物(駕籠=かご)に乗って仁和寺に戻る途中、駕籠かき役の法師二人がとてもつらそうに乗り物を担いでいたところ、寛快が中から、
「おお〜い。交代、交代しなさい」
と叫んでいるのが聞こえた。しんどい法師らは、
「ここには私ら以外、だーれもいませんぜ。誰とどう交代したらいいってんですかー」
とやけくそ気味に返事すると、寛快は、
「いやいや別人と交代せよと言ってるのではない。前の者と後ろの者を入れ替えよ、と言っておるのだ」
と答える。前と後ろでは、担ぐ棒や身体の動かし方が違うので、法師らが少しでも楽に歩けるようにと気遣っての言葉だったのだろうが、当の法師らにすれば、前後を入れ替えたとてキツくてつらい仕事に変わりはなし、寛快のこの一言に目がテンになったに違いない。
このように寛快という人物は、心優しくて正義と平等の精神の持ち主だったと思われる。そしてかなりの力自慢だったようだ。
こんな話がある。寛快が輿車(こしぐるま)で外出中、円宗寺の門前で一人の法師に出会った。その法師、柿色の法衣を着た堂々たる偉丈夫で、同行の僧を4、5人も引き連れていた。これを見た寛快、たまらず輿車から飛び降り、法師の首ねっこを自分の腕で挟み込んだ。唐突に相撲が始まったのだ。法師の好戦的なルックスに、寛快はネコジャラシにムキになって飛びつくネコの気分になったか。気迫みなぎり、がっぷり四つで力を競った二人、最後は寛快が法師を地面に豪快に叩きつけ、勝負が決まった。
「そなたは勇猛で名高い文覚どのだな」
「いかにも。そう言うそなたは壇光房の寛快どのだな」
「いかにも」
「いざ、もうひと勝負手合わせ願おうか」
真っ向勝負で挑んだ二人。今度は寛快に土がついてしまった。
「思う存分力をふるう事ができて爽快でしたぞ。寛快どの、ぜひ高雄の神護寺においで下さらぬか。掻餅(かいもち=ぼたもちのこと。甘味の乏しい時代の超ご馳走)をふるまおう。このたびの勝負の御礼がしたい」
文覚の申し出を寛快は了承し、二人はそのまま仲良く高雄山に上がった。それ以来二人は親しい間柄になった。いわゆる『拳(こぶし)と拳で語り合う』仲とでも言おうか。
この寛快は、後白河法皇が創建した蓮華王院本堂の供奉僧に任命されたことがあったが、どうやらお勤めをサボってばかりの不良僧だったようだ。蓮華王院の社務の責任者が管理していた着到(=勤務表)の、寛快がお勤めに上がる日が、
「不参、不参、また不参」
ばかりだったのだ。この着到を見た寛快、「不参」の文字の横に「如供米(=供米も不参)、如供米、如供米、以下同文」
と書き加えてからかった。不参だから米がないのか、米がないから不参なのか。このうまいツッコミに、不参のお咎めがなかったという。






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