559段 孝道入道が隣家の僧越前房を批判した事


孝道入道が仁和寺の自分の僧房で知人と双六を打っていると、隣の部屋の越前房という僧がやって来て見物し、いちいち口をはさんで邪魔をする。入道は腹の中で憎たらしく思いながらも我慢して双六を続けていた。そのうち、覗き込んでいた越前房があれこれ言いながら席を立ったので、部屋の主の孝道は、
「越前房はよき程の(=いい加減なことばかり言う)奴なのさ」
と言ったが、越前房はまだ帰らずに孝道の後ろにまわっただけなのだった。双六の相手をしていた知人はそれ以上悪口を言わせまいと、あわてて孝道の膝を突っついた。孝道がうしろをふり返ると越前房が立っている。孝道はとっさに、
「越前房は背が高くもなし低いでもなし。よき程の(=ちょうどよい)奴なのさ」
と言い直した。
その場しのぎの物言いがとても可笑しかった。




560段 前大和守の墓守、わなにかかった鹿を取り逃がす事


長谷にある前大和守時賢の墓所の番人が、ワナを仕掛けて大きな鹿をつかまえた。番人は、
「そうだ、この大鹿はワナに掛かったんじゃなく、この俺が弓で射たことにして、弓名人に自慢しよう」
と思いつき、ワナに掛かっている大鹿に向けて大雁股の矢をつがえて弓で射ると、矢は大鹿には当たらずワナの綱に当たり、綱が切れて大鹿は逃げてしまった。この男、頭をかきむしって後悔したが後の祭りである。




561段 縫殿頭信安、防犯の用心のし過ぎて転倒する事


縫殿寮の長官に信安という者がいた。強盗が流行り何かと物騒な世の中、信安は自分の家にも強盗が押し入ることがあるかもしれない、何か防犯上よい知恵はないかと考え、強盗に入られたら転ばせてやろうと、日が暮れると竹の短く切ったのをたくさんまき散らし、朝には片付けるというのを毎日続けていた。
ある夜、信安がお仕えする公卿の屋敷の近くで火事があった。
自分の家にいた信安は殿の屋敷に駆けつけるべく、大あわてで家を
出ようとして、まき散らされている竹の破片を踏んでしまい、転んで腰をしたたかに打ってしまった。年寄りの信安は治りも悪く、まともに動けるようになるまでに何日もかかったそうだ。
準備が良すぎがかえって災いとなってしまうのが可笑しい。




562段 田舎侍為俊、家隆家の加冠の儀にて笑われる事


壬生二品藤原家隆邸で、嫡男隆祐(たかすけ)朝臣の子の元服の儀式が行われたときのこと。
加冠も無事行われ、さて元服名は何にしようかというとき、あつみの三郎為俊という名の侍が皆の前に進み出て、
「この家のご家族は皆さま”隆”という字をお持ちでございます。ですから同じように隆の字をとって”いえたか”と命名なされるのはいかがでしょうか」
とさも名案を得たり、というような得意顔で申し上げた。その場にいた関係者は大笑い。この話を為俊の父親の図書允(図書寮三等官)為弘が聞き、
「お前はアホか。お屋敷の大殿さまのお名前を知らんのか」
と呆れて問うと、為俊は、「知らないわけないでしょう」と言う。
「知っていればそんな非常識なことを申すものか」と言うと、
「そんなことありません。殿さまのお名前は家隆(=かりゅう)でございましょう。知っていますとも。世間の皆さまもそう申し上げているではありませんか」
と答えた。かりゅう、とは家隆の有職読みで、古来より成功した歌人の名を音読みで呼ぶ習慣がある。どうも為俊はそちらの呼び方を聞きなれていたらしい。




563段 ひえどりの毛をむしった僧円慶の歌を家隆が詠む事


この家隆卿に仕える僧で円慶という者がいた。ヒヨドリを飼っていたが、せっかちな性分で毛が抜け替わる時期に、待っていられず全部むしり取ってしまった。その話を家隆卿が聞き、おもしろがって歌をつくり、木札に書いてその辺りの辻に立てかけた。


ひえ鳥をむしりつくみのはだか腹しり鈴にしてなりわたるなり
(大事に飼っているヒヨドリの毛を全部むしって食用鳥のようにしてしまい、つるつるの腹や尻は鈴のよう。バカなことをした円慶の噂はその鈴のように鳴りわたることだ)




564段 尾張内侍、少納言阿闍梨某の朗詠を評する事


堀川内府入道(源具実)がまだ納言だったとき、法要のための管弦の遊びがあった。念仏・礼讃が終わり、朗詠があったが、少納言の阿闍梨なにがしという僧が、大江以言の詩中の一句で、
「東方五百之塵」
と詠むところを、五百を言い間違えて、
「八十の塵」
と詠んでしまった。それを尾張内侍(孝道の娘)が簾の内側で聞き、僧が「八十の」と言い終わらないうちに、
「四百二十落ちてますよ」
と突っ込みを入れた。この機転の速さはなかなかないことだ。







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