第389段 絵の大上手・常則と小上手・公望の事 


小野宮大臣・藤原実頼が自邸の衝立障子に松景色を描かせようと飛鳥部常則に依頼したが、あいにく不在だったため、巨勢公望を召し出して描かせた。
後日、家に戻った常則に、公望の描いた衝立障子の松景色を見立てさせたところ、
「ふん、松葉などは、まるでサトイモにヒゲ根が生えたような描き方ですな。他はまあまあ見られないこともありますまい」
とライバル心丸出しの感想をもらしていたとか。
常則は大上手・公望は小上手と称され、ともに宮廷屈指の画家であった。




第390段 為成がわずか一日で絵画を仕上げた事


為成という宮廷絵師が、わずか一日で宇治殿の扉の絵を描き上げてしまった。宇治(平等院)阿弥陀堂の壁画および四方の扉の浄土九品来迎図という、絵のレベル・量ともに相当体力の要る仕事である。これには宇治殿(頼通)も驚いて、
「弘高などは、まず下絵を描いて一晩じっくり検討し、それから本描きしていったものだが、そなたはいきなり本描きから入るのか。それにしても…」
と絶句していたそうだ。為成の頭の中にはすでに完成図が出来上がっていたのか。




第391段 成光、閑院の障子に鶏の絵を描く事



近江国三井寺の興義という僧に、成光という名の弟子がいた。
興義の絵の上手は広く知られていて、彼が描いた魚の絵を琵琶湖に散らすと、絵の中の魚が紙から離れ水の中で戯れるほどだったという。興義の死後、弟子成光が彼の秘技を受け継いだ。
閑院の障子に描いた鶏の絵を見て、興奮した本物の鶏がそれを蹴ったとか。




第392段 絵師良親、屏風二百帖に絵を描く事


道長一族と親交のあった藤原能通が、宮廷絵師の良親に二百帖の屏風絵を描かせた。それらの屏風絵は、のちに大女御と呼ばれる御方が入内する際、二条殿(藤原教通。道長の五男)に献上された。二百帖の屏風の色紙形の詩歌は、四条大納言藤原公任が清書した。これら屏風絵は、良親の家に伝わる原画を基にした坤元録屏風も含む和漢抄屏風の体となっていて、屏風一帖の唐絵の方には漢詩文が、そしてそれに呼応するような形で描かれた大和絵の方には和歌が題されている。ちなみにこれら屏風絵は為成(第390段出)が紙に写し取り、その原画は関白頼通公相伝のものとなった。
この、入内の際の献上品のひとつだった和漢抄屏風の詩歌を公任自身が選びに選んで、後日改めて整理してきちんとした本に仕立て直したものが、後の『和漢朗詠集』の原型となったのではないかという説(『和漢朗詠集・全訳注 川口久雄著 講談社学術文庫の解説より)もある。




第393段 永承5年4月、前麗景殿女御絵合わせの事



永承5年4月26日、麗景殿女御御前にて絵合わせがあった。
麗景殿が娘の正子内親王のために催した遊びだが、主催は女御の父親の藤原頼宗である。
「うらうらとのどかな春の日を無為に過ごすより、変わった勝負事で幼い内親王(正子内親王)を楽しませたいですわ。
花合わせ・草合わせ・貝合わせ…優雅で楽しい物合わせは多々あれど、心打たれるものと言えばやはり和歌、とりわけ古今集や後撰集はどれほど読み返しても飽きることを知りませんし、読めば読むほど心が豊かになってゆくというもの。
ついては、歌の心映えと詠者を絵に描いた『歌絵合わせ』を行うことに致しませんか」
となった。和歌は、古歌の方は古今集と後撰集から選び、新作も数首用意する。絵の方は、各々の和歌の意を表現した絵と歌人の姿絵を提出する。歌の題は鶴・卯の花・月とした。
名誉ある新作歌詠みを任されたのは、相模・伊勢大輔・左衛門の命婦など当代きっての歌人ばかり。それぞれの和歌にふさわしい絵の描き手を探すのに一ヶ月を要したらしい。さて、歌絵合わせは主催者の頼宗公の自邸にて、夕暮れ時より始まった。出席者は源大納言師房・小野宮中納言資平・左衛門督隆国などの上達部の他、競馬(くらべ馬)の催しの議定の時期ということもあり、そちらの方面からも頭中将ら殿上人たちが参集した。
左方の女房衣装はなでしこ重ねに統一。入れ物は白銀の透き箱にむら染めの糸を束ねてくくり紐にしたもの。表紙の飾られた古歌と歌絵七帖、銀箔で装丁された新作の歌三首と歌絵一帖がその中に入っている。その敷物は左方の衣装に合わせなでしこ模様の浮き織り。勝敗の数を数えるための数さしの金の州浜台には緑濃い松を用意し、歌を数えるたびに松を州浜に移す。州浜台の敷物は松に合わせて深緑の浮き織り。
一方、右方の女房衣装は藤の重ね。鏡を海に見立てて金の鶴を置き、海の上の金の透き箱の中に古歌と歌絵六帖、新作の歌三首と歌絵が一帖それぞれ美しく装丁されて入っている。その敷物は金銀の泥画を描いた二藍の布地に白糸で縫われた散らし模様。歌を数えるたびに金の鶴を州浜に移す。鶴と静まりかえった鏡の海とで悠久の時を表現している。州浜台の敷物は金銀泥をほどこされた深緑の布地に美麗な刺しゅう。
このように左も右も、いずれの方も美と調和を凝らした細工物ばかりだった。
左右それぞれから提出された歌を、美声自慢の若手貴族たちが詠みあげ、歌絵の出来栄えを論じ合い、優雅で白熱した遊びとなった。判者の上達部が左右の優劣を決めかねていたが、
「本日は競馬(くらべうま)の神事の議定の日でしたので、勝敗をここで決定するのは憚るべきではないかと」
と殿上人の中から声があり、
「まことに。このたびばかりは勝ち負けをあからさまに決めてしまう必要もあるまい」
となった。その後は大いに盛り上がったという。
相模の代表的な秀歌として讃えられている、


見わたせば浪のしがらみかけてけり卯の花さける玉川の里
(玉川を見渡すと、卯の花ような真っ白な浪の花がくだけ散って、まるで川に渡された美しい浪のしがらみ(可動柵)のようだ)


は、この時の新作歌として披露されたもの。
歌絵合わせが終わると宴が催され、酒杯はめぐり、一同は酔心地を大いに楽しんだという。






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