383段 絵画は閑中の産物であるという事


とりどりの色で万物をあますところなく表す画図。対象となるものをつぶさに観察し自分なりの色で表現する『絵』は、時間を費やす趣味としてまことにふさわしい。




384段 紫宸殿ならびに清涼殿の障子の由来の事


紫宸殿の障子には、中国の夏から唐までの、賢人・聖人・名臣等32人の姿が描かれている。この障子は宇多帝の御世に描かれたもので、賢聖障子と呼ぶ。これは、漢の帝が宮殿内に功臣の姿を描かせた故事に倣ったものだ。
描かれた当初、この襖障子の色紙の部分には、それぞれ賢聖らの功績を讃えた銘が書かれていた。かの名筆家小野道風もその書役に当たったと記録にある。賢聖図の修理は行われるが、そのうち銘文は修理されなくなった。今では古びた色紙の部分が残るのみである。
内裏や里内裏が火災に見舞われるたび再建される新造(里)内裏は、国家財政の窮乏で建物の形式がどんどん縮小・簡素化された。土地が狭くなったため、紫宸殿の賢聖障子も一度に全部掲げられなくなった。いつしかすべて片付けられ、国家行事が行われる時のみ掲げられるようになった。
だが承元2年土御門帝の御世に閑院里内裏が焼亡し、建暦3年に鎌倉の幕府が新しく内裏を造進した際、紫宸殿・清涼殿・校書殿・陣の座など主要な建物を、かつての大内裏を模してつくり、これより以降、賢聖障子は以前のとおり全て掲げられることとなった。
その他の代表的な衝立障子を挙げると、清涼殿の西側にある『鬼の間』の壁にインドの王様白沢王が鬼を斬る図がある。帝の御殿に鬼が侵入するのを防ぐ、魔よけの意味もあろうか。
同じく清涼殿の東の孫庇にある衝立障子(ついたてしょうじ)は、表に昆明池の図、裏に嵯峨野鷹狩りの図が描かれている。昆明池の図は漢の武帝が水軍戦の模擬訓練のために人工的につくった池の様子が、嵯峨野鷹狩りの図は有名な交野少将(藤原季縄。鷹狩の名手)が嵯峨野で鷹狩りをしている様子がそれぞれ描かれている。
同じく清涼殿の東北の方向、北側の境の衝立障子は『荒海の絵』が描かれてある。手足の長い中国妖怪の絵が笑える。障子の裏には、宇治の風物詩・網代木にかかる美しい紅葉が描かれてある。『枕草子』にも同様の記述があるということは、障子の由緒は一条朝以前ということか。伝統を感じる。
殿上の間の西側の渡殿には跳ね馬・寄せ馬を描いた衝立障子が、朝餉(あさがれい)の間の前には馬形を描いた衝立障子が、紫宸殿の東・陣の座には前漢時代の李将軍虎を射るの図が、校書殿には中国では稀代の弓名人・養由基が猿を射る図がそれぞれ描かれている。由緒は今ひとつはっきりしない。
さて、建暦3年の新造内裏遷幸の後、寄せ馬と李将軍と養由基の衝立障子はずっと仕舞われたままだったのを、四条帝の治世時に太政大臣西園寺公経が修理した。絵の原画(手本)は鴨院の御倉に保存されていた。この倉は、安元3年の大火を免れた貴重な倉である。その昔、馬形の絵は大和絵の画聖とうたわれた巨勢金岡の手によって描かれたが、その馬が夜な夜な障子から抜け出て萩の戸の萩を食ったという。当時の帝がつながれた馬の絵に描き改めさせたところ、馬は障子から抜け出さなくなったとか。




385段 巨勢金岡筆の馬が田んぼを踏み荒らした事


前段の巨勢金岡の馬形の絵は仁和寺の御所にもあって、あまりにも馬の絵が素晴らしすぎて魂が宿ったのか、やはり夜毎に絵から抜け出し近隣の田んぼに入っては稲を食い荒らしていたそうだ。その証拠に、絵の中にいる馬の足はいつも泥で汚れていたという。御所の家来たちが怪しんで、ある時とうとう馬の絵の眼の部分をほじくり出した。それ以来、御所の馬形の眼はなくなってしまったが、馬の足が泥で汚れることも近隣の田んぼの稲を荒らすこともなくなったとのことだ。




386段 花山院が書写上人の肖像画を密かに描かせる事


播磨の書写山に性空上人という僧がいた。書写上人と呼ばれ、京の都の貴族たちから尊敬されていたが、特に花山法王はこの上人の徳の高さを尊んだ。法王はある時、絵師を従者に紛れさせて山に登り、対面しているスキにこの絵師に上人の肖像画をこっそり描かせたことがあった。
その時山に不気味な地響きがし、地震が起きた。法王が異変に驚いていると、
「ははあ、誰かがこの性空めの姿を紙に写し取ろうとしておりますな。それがゆえの山からの警告でございます」
と上人が言う。このことで花山法王はますます書写上人を崇めるようになった。
さて、書写上人の顔には目立たないアザがあったが、絵師はこれに気づかず見落として描かなかった。しかし地震騒ぎで絵師は筆をうっかり紙の上に落としてしまい、あろうことか落とした先がアザとまったく同じ位置、同じ形。不思議なこともあるものだ。
今この肖像画は、書写山の上人が創建した円教寺の宝物蔵に大切に仕舞われている。




387段 巨勢弘高、地獄変屏風を書く事


地獄に突き落とされた無数の罪人が、獄卒の挿し下ろす矛に突き刺されもがき苦しむさまを描いた地獄絵屏風。巨勢弘高が全精力を傾けたこの地獄変、あまりの迫力の出来栄えに、弘高がみずから、
「迫真の出来だ。これはもう、いつ死んでもおかしくないな」
そう言っていた。自画自賛ももっともな話で、弘高を重用していた六条宮具平親王が道長公に、
「あの者は人間業とも思えぬ絵を描きます。たかが屏風の絵なぞに軽々しくあの者を召さないでいただきたい」
と訴えたという。弘高はこのことを聞き大変誇らしく思った。
地獄の絵を描く事に魂を込めすぎたせいか、ほどなくして弘高は死んでしまった。この弘高は画聖巨勢金岡の曾孫である。弘高がこれほどの力量なら、「その画力、生きたるもののごとし」と賞賛された金岡の腕前はどれほどのものだっただろう。
少年時に出家した弘高は還俗する時、俗世に戻る罪を恐れ、千体の不動明王像を描いて供養した。




388段 巨勢公忠は自作の屏風に必ず署名したという事


帥内大臣・伊周が素晴らしい絵が描かれた屏風を手に入れた。
伊周は屏風を披露するべく、絵師の公茂と弘高を屋敷に呼びつけた。
「この絵の見事さ…野辺の様子といい松の枝ぶりといい、おまえたちの技量ではまず無理だろう。おそらく巨勢派の一人、公忠の筆によるものか」
伊周のこの言葉に二人は賛同した。公茂が続けて、
「おおそういえば、公忠は屏風を作製する際、絵のどこかに必ず自筆で署名しますが」
と言った。
「ではさっそく確認してみよう」
試しに屏風の枠をはずしてみると、案の定絵の片隅に公忠自筆と思われる署名があった。
「いやこれはお見事。何という見識の高さでございましょう」
プロの絵師も驚嘆する伊周の洞察力であった。






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