285段 尺牘の書疏は千里の面目なる事


紙が今よりはるかに貴重だった頃、私信は一尺の木簡に書き付けられていた。そして文字が上手な人は、その名が遠く千里までとどろくほどだった。文字の達人は、永久不滅にその名が歴史に残ると言ってよい。
すぐれた『書』は、あらゆる芸術を超える。




286段 嵯峨天皇、弘法大師と手跡を争い給う事


嵯峨天皇と弘法大師は能書家で知られ、いつもその筆跡の上手を競っておられた。ある時天皇はお手本をたくさん持ち出して、大師に披露した事があった。お手本の中に、抜きん出て素晴らしい文字が書かれた巻物があり、
「どうだね大師。これは唐の人の手跡だ。書いた人物の名は残念ながらわからぬ。とても真似ることはできない。これは私の秘蔵のお手本なのだよ」
と自慢げに言われる。この巻物について、天皇が色々ウンチクを語った後、大師は、
「その巻物、実はこの私めが書いたものなのですよ」
と申し上げ、天皇は絶句。
「それはまことか。嘘だろう。なぜなら今のそなたの手跡はこの巻物の文字とゼンゼン違うではないか。はしごに登ったとて、この文字には並ばぬわ」
と言われる。大師は、
「お気持ちは大変よくわかります。ですが、巻物の軸をはずして合わせ目をよくご覧下さいな」
と言う。天皇は言われたとおりに軸をはずすと、なんと、
『某月某日青龍寺において沙門空海これを記す』
と書いてある。この書き付けを見て天皇はしばし絶句。その後ようやく納得し、
「いやあ負けた負けた。私の負けだよ大師。しかし不思議だ。当時の文字の勢いが今はない。何故だ」
と大師にたずねた。
「実は、国によって文字を変えているのですよ。大国においては、大国にふさわしい勢いのある文字を、日本のように小さな国においては、それにふさわしい繊細な文字を、と言うことですな」
大師の答えに天皇はひどく恥じて、これ以降は筆跡を競わなくなったという。




287段 弘法大師等が大内十二門の額を書す事ならびに行成が美福門の額を修飾する事


大内裏の東西南北をぐるりと囲む12の門に飾る額を、当代きっての能書家たちが書くことになった。南の三門は弘法大師が、西の三門は大内記小野美材が、北の三門は但馬守橘逸勢が、そして東の三門は嵯峨天皇が、それぞれ書くこととなった。
この時、弘法大師の書いた額を見て小野道風が一言、
「美福門の『福』の“田“の部分がちと広すぎるような。朱雀門の『朱』も“米“のようで…ははは」
と難クセをつけた詩経を作り、笑いものにした。すると道風、脳卒中にかかり手足がマヒしてまともな文字が書けなくなってしまった。
後年、行成卿が『美福門』を修理することになったとき、行成卿は弘法大師像の御前に花を捧げ、大江以言(おおえもちとき)に作らせた祭文を読み上げた。
「このたび勅命を賜りまして、大師さまの筆の跡をなぞることを許されました。ですが、偉大なる聖跡を汚してしまうことを恐れております。かと言って、筆をとらずにいる事は勅命を断る事と同じ、国家の法に触れてしまいます。進退窮まり、わたしはどうすればよいでしょう。大師さまの尊像に伏してお願い申し上げます。額の修理をお許し下さるかどうかお示しください。
もしお許しいただけるなら、もとの文字をなぞるだけに致します。お許しいただけないのでしたら、また改めて考え直すことに致します。ただ、勅命には絶対従わねばなりません。それをよくお考えになられ、どうか私の願いをお聞きくださいますよう、重ねて伏してお願い申し上げます」
行成卿は小野道風の二の舞を恐れ、大師の像にこのように奏上した。
この後これらの門は、ある門は焼失し、ある門は倒れ、今では安嘉門・待賢門の二門のみが残っている。ちなみに、橘逸勢が書いた安嘉門の額は、下を通る人を取り殺してしまうという言い伝えがあるそうな。




288段 小野道風、醍醐寺の額を書く事


延喜の帝(醍醐天皇)が在位のとき、醍醐に寺を建立しようと思い立たれた。門の額は小野道風が書くこととなった。道風は勅命どおりに楷書と草書で額の字を書いた。ところが、正式な書体である楷書で書き上げた額は正門(南大門)には掲げられず、草書体の額が南大門に掲げられた。道風は、
「すばらしい賢帝であらせられる」
と感心したと言う。風になびく柔らかな草のごとく書かれた草書の額は、帝の御気質をそのまま反映したようであり、『正門には正書を掲げるべきである』という世間の常識を改めさせた、非常にユニークな発想を道風は誉めたのだった。




289段 法性寺忠通、小筆をもって大字を書く事


久安の御世、知足院の入道殿(忠実)は息子の法性寺殿(忠通)と対立が深まっていた。そんな折、法性寺殿が知足院のもとに参上した。日ごろ腹にためている気持ちを言ってもらおうと、知足院殿は屏風を一帖ぶん持ってこさせ、「なんでもよいからこれに書いてみなさい」と言う。法性寺殿は墨をすったあと小筆をとり、とても大きな字で屏風に、
『紫蓋之峰嵐疎(紫蓋の峰の嵐おろそかして)』
と書いた。一帖では足りず四枚いっぱいに書いて、父知足院に見せた。知足院はこれをじっくり見、「大変貴重な物だ」そう言い、のちに宝物蔵に納めたという。




290段 大納言大別当清水寺の額を修復の事



さる大納言の若君が、清水寺の僧のもとで育てられていた。実の父親が誰なのか、この若君は知らない。母親が清水寺に預けていたのだが、長じて『大納言大別当』と呼ばれるようになった。
彼は能書を何よりも好み、彼自身も書をたしなんでいたため、多少思い上がりの心を持っていた。
さて、この清水寺の門の額は、侍従大納言行成の書だったが、書かれたのはずいぶん昔のことだったので、額の文字が色あせ、わずかな文字のあとを留めるのみとなっていた。それを見た大納言大別当は、
「完全に消える前に、この私が書き直したいのですが」
と願い出た。古参の僧たちは、
「何と思い上がったことを言うか」
そう非難したのだが、
「いかに立派な字でも、消えてしまったのでは何の価値もないじゃありませんか。私が勝手に字を加えるなら差しさわりがあるかもしれませんが、わずかに形跡が見えている今のうちに、もとの文字をなぞって、その墨の色を濃くするだけです。古い仏像に金箔を貼り付けて、皆さんだって修復しているじゃないですか。あれと同じことですよ」
大納言大別当の理路整然とした言い分に一同反論できず、とうとう修理を許してしまった。大納言大別当は額を降ろし、板をきちんと塗りなおした。そして、わずかに残る行成の筆の跡をなぞり、きれいに修理したつもりだった。
あくる日の天気は大荒れとなった。雷鳴は激しく、どしゃ降りの雨が書いたばかりの額の文字だけを洗い流してしまった。今までどんなひどい横なぐりの雨が降っても決してこの額が濡れることはなかったのに、たとえ濡れることがあっても、付け加えたところだけが完全に流れ落ち、もとの状態に戻るなんてことがあるだろうか。これはただごとではない、侍従大納言行成殿はお怒りだ…と皆大騒ぎだった。
額を修理した大納言大別当は数日後、急に死んでしまったとか。






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