493段 重病をおして神楽行事を行った人の事


故高倉院の笛の師匠だった藤大納言実国は、寿永元年(1182年)頃病気で寝込んでいたのだが、その闘病中、豊楽院清暑堂の御神楽の本拍子役に選ばれた。清暑堂での神楽は大変重要な行事なので、実国は息子二人の肩につかまり、病をおしてこの大役を果たした。病の治療よりも名誉を優先した実国は、行事のあと危篤状態に陥ってしまった。
実国は駆けつけた叔母に、
「私の父・故内府は、あの清暑堂で拍子をとられたのはただの一度だけでした。この私は四度演奏に参加し、その内二度も拍子役を任されたのです。
私は父をやっと超えた、と思っております」
とうわごとのように語って死んだという。




494段 西行法師、徳大寺家ゆかりの人々を尋ねる事


西行法師は出家以前、徳大寺左大臣家の家人だった。
出家してから何十年もの間修行の旅をしていたが、ある年、かつて自分が仕えた徳大寺家を数十年ぶりに尋ねた。
もちろん屋敷の主人は西行が出家する前の主人・実能ではなく、実能の孫・実定に代替わりしていた。西行は実能の三人の孫――実定・実家・実守――の消息が知りたかった。
西行が屋敷の門の外から中をのぞくと、寝殿の屋根の上に縄が張り巡らされてある。不思議に思った西行が「あれは何か」と人に尋ねると、
「殿(実定)がトンビを屋根にとめないよう張ったのです」
との答え。
「トンビが屋根にとまったからといって、何か困ったことが起きるはずなかろうに。後徳大寺殿は器の小さいお方だ」
西行は縄を張って邪魔をするその性根をうとみ、帰った。
次に実家大納言の屋敷を訪た。
「実家(さねいえ)の大納言はどちらにおられる」
と屋敷の家人に尋ねると、
「わけあって、こちらにはいらっしゃいません」
と答える。
「そう言えば実家大納言は立派な北の方がありながら、金持ちの裕福な女のもとに入り浸っていると聞いたことがある。
あぶく銭欲しさに媚びへつらっているとは嘆かわしい」
と言って帰った。
実守の中納言はつい3、4年前に亡くなられていた。
故実守の中納言の息子・公衡の中将はどうしているかと気になった西行は、消息を訪ねて徳大寺家ゆかりの寺である仁和寺の一角に建つ菩提院に行ってみた。中にいる公衡の様子をそっと伺い見れば、濃い藍色に裏が白の狩衣を着、指貫を裾長にはき、庭の高欄にもたれて桜の木を眺めている様子がまことに優美。
「二人の孫よりこちらのひ孫どのの方が、徳大寺家の後継者としてよほどふさわしい」
そう感銘を受けた西行は公衡を訪ね、「そなたは誰か」と問う公衡に、
「西行と申します。はるか昔、徳大寺家にお仕え申しておりました。一度お目にかかりたいと長い間思うておりました」
と言い、徳大寺にゆかりのある話を語り始めた。日が暮れると西行は帰ったが、以後たびたび菩提院を訪ねて公衡とよもやま話をしていくという日が続いた。
それからしばらくして除目(じもく)が行われたが、蔵人頭に推挙されたのは、権大納言成親の子・中将成経と権大納言光頼の子・大蔵卿宗頼だった。前者は後白河院が、後者は摂政の九条兼実が推挙したのだが、蔵人頭になるための資格を十分に備えている公衡を、院と摂政が妨害している噂が立っていた。
この噂を聞いて西行はさっそく公衡のもとに出向いた。
「こんな噂を耳にいたしました。よこしまな思惑で昇進を妨害されるとは何たる屈辱でしょう。他人に頭の上(位階)を飛び越される位なら出家なされませ」
「そなたの申すことはもっともだが、母上の尼堂を建てようと思っているのだ。そのときに僧の身であれこれ指図していると、勧進僧みたいだろう?私はそんなごろつき坊主に見られたくないのだよ。出家は尼堂のことをきちんと済ませてから決めようと思う」
公衡のこの言葉に、西行はガッカリして帰った。
まもなく噂どおりに蔵人頭の人選が行われた。叙任の行われた朝、西行は公衡の動向が気になり弟子を菩提院に遣わせた。噂が事実となり、出家を決意しているかもしれないと思ったからだ。ところが当の公衡には何の変化も見られず、ゆったりくつろいでいるとの知らせ。そこで西行は彼に手紙を書いた。
『心配していたこと(除目についてのよくない噂)が現実となってしまいました。以前申し上げておりました(出家の)件はどうなされますか』
それに対して公衡の返事は、こんなそっけない言葉だった。
『ではこの次に会うたときにでもお話しよう』
西行はこの返事にたいそう落胆し、以後親しく付き合うこともなくなった。気性の激しい西行にとって、官位競争に敗れても何の無常も感じず俗世に留まり続ける公衡は、とるに足らない人物と判断されたのだろう。




495段 うへすぎの僧都、法執に依りて死後鬼となる事


とある山門に『うえすぎ』という僧がいた。仏教の教義に対して頭が凝り固まっており、他人の意見に耳を貸さないし弟子にも教義を授けようとしなかった。
その『うえすぎ』の死後、彼の住んでいた僧坊の天井の上に、
「ドスン」と何か大きなものが落ちた音がしたことがあった。「ああ苦しい」とうめき声も聞こえる。
その物音を聞いた人がおそるおそる「誰だ」と問うと、
「私は生前、『うえすぎ』と呼ばれた者だ。仏教の教授を度が過ぎるほど出し惜しみした報いで手無し鬼になりさがってしまったのだ」
と聞こえたという。




496段 藤原孝道、琵琶秘曲に執心する事


琵琶の名手・藤原孝道が若かったとき、これといった病気でもないのに体調を崩して臥せっていたことがあった。どんどんひどくなり、食べ物はおろか飲み物さえ受け付けなくなったので、楽の師匠の藤原師長があわてて見舞いにやって来た。
病気の経緯を詳しく問うと、
「特にどこが悪いというわけではありませぬ。なぜか食べ物が食べられないのです。食べないまま日数が経つうちに体力気力がどんどん衰えてしまい、こんな見苦しいありさまになってしまいました」
と弱々しく答える。
「しっかりせよ。そなたは本当は病気ではない。私が定輔に秘曲啄木を伝授するという話を気に病んでいるからであろう。確かに約束はしたが、定輔には源経信が伝える桂流の啄木を伝授することにしよう。そなたには当流を授ける。これならば、そなたも気に病むことはなかろう。だからしっかりと食べなさい。そうだ、何でも良いから今食べてくれないか。それなら私も安心できる」
そう言って、水飯を用意させ孝道に勧めると、彼はもりもりと平らげてしまった。
「やはり気の病だったのだな」と師長は安心して帰っていった。
諸芸が盛んになるのは結構な事だが、大勢に広まるのはどうかと思う。芸道が乱れ、芸そのものが衰退するからだ。恐れ多いことながらこの際言わせてもらうが、後鳥羽が在位だった頃、この定輔から琵琶を習われ、最後の秘曲・啄木を伝授される段階になったとき、孝道が北面の詰め所で、
「申し上げにくいことだが、今上(後鳥羽院)の琵琶は、首から下が非の打ち所のない立派な束帯姿なのに、(狩衣着用時の)折烏帽子をかぶっているようなちぐはぐなものだなあ」
と漏らしていたのを今上に知られたことがあった。
孝道は弓道場の裏へ呼び出され、
「何が言いたいのだ」
と取次ぎ役の藤原信清(坊門内府)を通して問い詰められた。
「定輔卿の琵琶はただ一つを除いてすべて当流でございます。そのただ一つというのは、伝授の最後の締めくくり・秘曲『啄木』。これが他流―――桂流の演奏法だということでございます。二つの流派の啄木を極めた我が師匠(師長)が当流・他流を決められました。従って、着ているものはすべて立派な正装なのに頭にかぶっている烏帽子が狩衣用みたいだと申し上げたのは、当流のことごとくを極められたにも関わらず、最後だけちぐはぐな他流が混ざってしまった―――そのように例えたのでございます」
歯に衣着せぬ物言いで、孝道ははっきり言った。取次ぎ役の信清はさぞかし顔が青くなったことだろう。
この事実に驚いた今上は、さっそく啄木の師匠を定輔から孝道に代えて習うことにしたのだが、この決定を聞き定輔が大騒ぎで参上して来た。
「琵琶のイロハから今上にお教えして参りましたのに、最後の最後でこの私がお払い箱になるとは!孝道めがどうやって取り入ったかは存じませんが、それならば最初から孝道を指南役にすればよいではありませんか。生き恥をさらすとはまさしくこの事。これが恨まずにおられましょうか。身に覚えのないお咎めですが、どうぞこの定輔めを配流なり何なり好きなようになされませ!」
定輔の惑乱ぶりがあまりに気の毒すぎて、今上はこれまでと同じく定輔で通したそうだ。
定輔個人の帝師としての名誉は守られたが、琵琶の『道』の当流を次代に伝えるという点ではどうだろう。こういった人間の妄執こそが、諸芸を衰退させてゆく原因ではなかろうか。






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