480段 宿執は天性の染着する所なる事


前世からの因果とは生まれつきのもので、本人の努力で出来上がったものではない。学問武芸以下、一個人の才能・人柄・容姿は、それらを前世から受け継いできたのだ。死に直面しようが、それらの因縁から逃れることは難しい。また、全ての因縁を身から落とし、白紙に戻して一から出直すのも難しい。
良きにつけ悪しきにつけ、前世からの因縁とはそれほど離れがたいものなのである。




481段 高陽院競馬で狛助が尾張種式に勝ち、共に死ぬ事


いつの年であったか、高陽院にて馬二頭で競争する『競馬(くらべうま)』の神事での出来事である。
その年の騎馬隊の先頭は狛助信(こまのすけのぶ)という騎手で、競馬の名人だった。何度競争しても、ただの一度も負けたことのない素晴らしい騎手だった。
今年もまた勝利の願掛けをすべく、仁和寺の僧に祈祷を頼んだところ、
「今回はわざと負けたほうがよい。勝てば命がないであろう」
と言われる。わざと負けるような恥を負うくらいなら、勝って死んだほうがよいと申し出ると、僧は頼まれたとおりに加持祈祷を行った。
いよいよ競馬の当日。対戦相手は尾張種式という騎手だった。助信は、競争に勝つことは勝ったが、興奮した馬が馬場の端まで駆けて行き、運の悪いことに、ぶらぶらしていたかんぬき用の横木に首を引っかけ落馬、彼はそのまま即死したのだった。従って、褒美は騎手ではなく馬の鞍にかけられることとなった。
一方の種式は、『わきしろ』という名の馬に乗っていたが、これが素晴らしい馬で、いまだ負けなしの駿馬だった。ところが、今回、種式が乗って初めて負けたので、怒ったわきしろは種式を乗せたまま馬場の隅まで狂ったように駆け、種式をふるい落として喰い殺してしまった。
同じグループの騎手がほぼ同時に死ぬとは不思議なことである。この事件は誰の日記に記録されたかは知らないが、大江匡房(おおえのまさふさ)卿が、
「藤原頼通卿の日記に、この事件が書いてあった」
と記録している。




482段 高陽院での競馬で騎手が落馬し頓死する事


承保2年(1075)8月28日、このたびもまた高陽院での競馬の出来事。
今回の馬二頭の騎手は、秦近重と下野助友である。
近重は仁和寺の僧に必勝を祈願し、助友は仁和寺の僧と同じくらい霊験あらたかな僧を探した。見つけたのは義範という名の僧だった。義範は、
「命がけの勝負になりそうですが…勝てば命がなくなるでしょう。負ければ命は助かりまする。どちらを選ばれなさるか」
と言う。助友は、勝って名声が得られれば命など要らぬと返事する。義範は、その望みどおりに祈祷を行った。
いよいよ競馬の当日。勝負に勝ったのは助友の方だった。
近重の祈祷を行った仁和寺の僧はその勝負を見物していたのだが、助友の勝利が決まった瞬間、その僧は懐から密教の道具である五鈷(ごこ)を投げた。すると突然助友は馬上の態勢を崩し、あっけなく落馬して死んでしまった。この仁和寺の僧、自分が祈祷した近重を勝たせたい一心で相手の騎手を呪うとは、恐ろしい執念だ。
だが、この事件は大江匡房『江記』によると、
「近重が勝負に勝ったが、助友が乗った馬が近重を踏んでしまい、その怪我がもとで近重は数日後に死んだ」
と記録されている。これ以後の競馬の記録を見ても、助友の名前は度々載っている。それゆえ、今回の事件は、近重と助友の名前を取り違えて書かれたのではないか、つまり、仁和寺の僧に祈祷を依頼したのが助友で、義範に祈祷を依頼したのが近重と、書き誤ったものと推測される。




483段 宇治殿頼通公、平等院の居間に執心の事


宇治の平等院には、今でも宇治殿(頼通公)の霊が棲みついているそうな。特に正殿(主人の居間)がお好きらしく、そこには常に宇治殿の気配が漂っているとか。
今でも摂政や関白が平等院に参る時は、正殿に入るのをたいそう恐れている。宇治殿の霊のご機嫌を損ね、祟られてはたまらないからだ。息子である京極殿(師実公)も自分が格下のようにふるまい、ここでは本当に身を慎んだらしい。
平等院は、その昔、宇治殿が父道長公の別荘を改め、寺として建立したもの。執着のあまり御霊がとどまるのも仕方のないことかもしれない。




484段 僧廣清並びに圓久圓善、没後に法華経を読誦の事


比叡山千手院に廣清という僧がいた。こころざし深く、絶えず法華経を口ずさんでおり、死後は極楽浄土に生まれ変わること間違いなし、と人々から言われるほどだった。
やがて廣清は死に、埋葬された場所からは、地面から毎晩お経を読む声が聞こえる。その後墓所は改葬され、人の手に渡ったあとも、誦経の声は絶えることがなかったという。
存命中に誦経に執着するあまり、死後もなお修行をやめなかったということか。『執心する』とはまさにこのことなのだ。
同じ比叡山の西塔の僧圓久も、こんな執心の持ち主だ。ただし死後毎晩読経するのでなく、七日ごとの誦経だったが。
壹睿(いちえい)という僧も法華経を極めた一人だった。紀伊の国の完背山に宿泊した夜、彼の耳に、どこからともなく法華経を誦する声が聞こえてきた。途中で読経は途絶えた。不思議に思った壹睿は、翌朝不思議な声がした辺りを見回すと、ずいぶん昔に死んだと思われる白骨遺体を見つけた。その骨は散逸しておらず、きれいにそろっていた。頭蓋骨の中には赤い舌が見えた。壹睿が頭蓋骨に
「何者ですか」
と問うと、
「私は比叡山の僧の圓善という者。この山で修行していたのだが、事情があって死んでしまったのだ。生きていた時に、法華経六萬部を読破せんと思い立ち、その半分は読み終えた。こころざし半ばで死んでしまったが、満願を果たすべく、死してなお誦経を続けたのだ。今年ようやく六萬部全てを読破し、まさに今、兜率天に転生しようとしている」
と赤い舌が答えた。目の前の骸骨が悟りをひらいた聖人だと知り、壹睿はひざまずき拝んだという。
信仰の山ではこうした不思議な出来事が多い。霊異記にも、熊野山や金峰山の山中で、誦経する髑髏(どくろ)の話はいくつも見られる。良きにつけ悪しきにつけ、これらもまた執心のなせるわざ。仏に執着すれば極楽浄土にも転生できようが、悪い事に執着すればろくなことにならないものだ。




485段 堂僧済範、萬秋楽を聞きながら死ぬ事


比叡山の堂僧であった済範は、無類の音楽好きだった。この済範が今わの際に、萬秋楽(まんじゅうらく)を所望したところ、二回繰り返して三回めに遷化(せんげ)した。遷化とは、高僧が亡くなったあと、新たな修行の地へ転任するという意味を指す。後漢の帝がインド伝来の仏教を国に迎えた時、この曲でもってインドの僧を出迎えたという。済範も、この曲で彼岸の地に旅立とうとしたのだろうか。






   
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