331段 後嵯峨天皇、某少将の妻を強引に召し上げる事
(なよ竹あるいは鳴門中将物語)


後嵯峨天皇という御方は土御門天皇の第三皇子、諱名(いみな)は邦仁(くにひと)と申します。
父帝(
土御門天皇)は承久の乱のおり、御父後鳥羽上皇や御弟順徳天皇らが次々と配流される中、一人都に残る事を良しとせず、御自ら土佐へ流される事を申し出、配流先で崩御された御方でした。
父帝が流された後の邦仁王は、母方の大叔父である土御門大納言のもとに身を寄せていましたが、土御門一家の没落に伴って苦しい生活を送り、二十歳を過ぎても元服すらままならないという中途半端な状態にありました。皇位継承権はあれど、栄光とは程遠い暮らし向きでしたので、御位のことなど夢見ることも出来ない、言わば完全な日陰の身だったわけです。
ところが仁治二年(1241)の冬、石清水八幡宮に参詣した時のこと。本殿の奥から鈴を転がすような厳かな声で、
『…国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり』
と聞こえてきたのです。これこそ八幡さまの御神託、邦仁王はたいそう喜んで帰ったのです。
次の年の仁治三年、四条天皇(十二歳)が突然の事故で崩御されるという事件が起きました。側近がすってんころりと転ぶの見たさに、天皇は軽いいたずらのつもりで滑石の粉を板敷きに塗りたくったのですが、うっかり御自分が足をすべらせ転倒、打ちどころが悪かったため、お亡くなりになったのでした。
幼かった天皇には次代を次ぐべき皇子がいませんでしたので、皇位継承問題が起こってしまいました。先帝だった後堀川院には皇子がおらず、有力公卿たちは佐渡院(順徳天皇。佐渡に流された)の皇子である忠成(ただなり)王を推しましたが、佐渡院は承久の乱の関係者でしたので、「忠成王が即位すると、佐渡で暮らしている上皇を京に戻すのではないか」と鎌倉方(執権北条泰時)が難色を示し、京都と関東の駆け引きの末、中立の立場にあった邦仁王が擁立されたのです。この混乱のため、前帝崩御から新帝即位までに11日も間が空くという異常事態も起きました。
とにかく、斜陽だった土御門家から帝が生まれたわけです。運の開けた土御門家には、連日連夜殿上人がお祝いに詰めかけ、都じゅう上を下への大騒ぎです。元服すらできないほどのさびしい身の上だった邦仁王も、この年の正月二十日にようやく元服、その後内裏――このときの里内裏は冷泉万里小路にある四條大納言隆親卿の屋敷です――にお入りになられました。
その年の三月十八日、太政官庁にて即位の儀が行われ(御年二十三歳)、六月六日に前右大臣(西園寺実氏)の息女が女御に選ばれました。この女御は、後に国母になられました。
鎌倉方のお声がかりで即位した後嵯峨帝は幕府との関係もすこぶる良好で、生来の聡明さで政務に励まれました。風雅を好み、各地に御殿を造営して、歌合わせや蹴鞠などを楽しみました。御殿の中のひとつ、亀山殿という離宮は、権大納言実雄卿が嵯峨の地に造営したと聞きます。風光明媚な自然の景勝をそのままとりこんだ離宮の美しさを、後嵯峨帝はことのほか愛されました。
さて、この後嵯峨帝の治世時、弥生の花も盛りのある年の春、和徳門の壺庭にて蹴鞠の遊びが行われた時のことです。鞠足(まりあし=参加者)は二條前関白良実殿、大宮大納言公相殿、兵部卿源有教殿、三位頭中将師継殿たちです。大勢の見物人の中にはもちろん美しい女房たちも混じっていましたが、その中の一人の女に帝は目を留められました。いわゆる一目ぼれです。帝の御心はもう蹴鞠どころではありません。人込みに見え隠れする女が気になって気になってそちらの方を見てばかり。
帝の熱い視線にようやく気がついたその女は、「面倒な事になっては」と、人の波にまぎれるようにして消えてしまいました。どうやら左衛門の陣から内裏の外へ出たようです。帝はすぐに六位の蔵人を召して、
「たった今、このような容貌の女が左衛門の陣から出て行った。すぐに追うのだ!」
と仰せになりました。六位の蔵人はその女房の後をつけましたが、なかなか賢い女のようで、すぐに尾行がばれてしまいました。女は蔵人を招きよせ、
「どうぞ『なよ竹の』と申し上げてくださいませ。畏れ多いことですが、お返事をここでお待ちいたしましょう」
と言います。大急ぎで帝のもとに参上した蔵人は、女の申した言葉を伝えました。
「はて、『なよ竹』とは、いったい何の謎かけだろう。古い歌にそのような言葉があっただろうか」
蹴鞠の参加者は、誰もその言葉の意味がわかりません。帝は大急ぎで歌人の為家卿のもとへ使いを出しましたところ、
「大和物語からの古歌をひいたものではないでしょうか。
…たかしとてなににかはせんなよ竹の一夜二夜のあだのふしをば
(たとえ尊い御方であろうとも、一夜二夜で飽きられる愛をお受けして、一体何になりましょうか) 」
との返事。なんと奥ゆかしく教養のある女だろうかと、ますます心が熱くなる帝です。返事も考えつきませんでしたので、
「とにかく、その女の帰る先を突き止めるのだ」
と、女の待っている場所に蔵人を走らせますと、時間がかかったせいでしょうか、女の姿はもうどこにもありません。蔵人がすごすご戻って来たのを見て、帝はたいそう機嫌が悪くなり、
「使えないヤツめ。女一人の居場所も捜せぬ者に用はないわ。捜してまいれ。さもなくば罰するぞ」
と言い放ちました。かわいそうな蔵人は青ざめて退出、楽しかったはずの蹴鞠の遊びは白けたものになってしまいました。
それ以降、かいま見た女を求めて悶々とした日々を送る帝。恋わずらいに苦しむ帝をお慰めしようと、気心の知れた蹴鞠のメンバーが酒宴を開いたりしますが、女への未練たらたら、心ここにあらずといった様子でいまひとつ盛り上がれません。ある時、近衛大殿(関白兼経)がつれづれのお相手をしていて、帝にお酒を勧めながら、
「ははあ、上さまが謎の美女(なよ竹の女)にぞっこんだという噂は真実でございましたか…。唐の皇帝が高力士に命じて絶世の美女を探し求めたためしもございます。美女を得るために蓬莱山まで訪ねる王もいるのです。ましてや上さまが執心しておられるなよ竹の美女は、地の果てではなくこの京の都の内に住む女性。黙っていても、いずれ近いうちに必ず身元がわかりましょうぞ」
と帝を励ましたのですが、帝はさびしく微笑むだけで、大殿の言葉を気休め程度にしか思っていないようです。
なよ竹の美女を想って、帝の落ち着かない日々は続きます。美女探しを命ぜられた六位の蔵人は、都じゅう思いつく限りの場所を探し歩き、神仏にまで手を合わせて祈ったのですが、今のところその効験もなく、溺れる者は何とやら、とうとう陰陽師に占いで居場所を見つけてもらうことにしました。
文平というその陰陽師の占うところによると、なよ竹の美女は夏ごろにもう一度、左衛門の陣に現れるとのこと。まあ、陰陽師も人間ですから、占いが必ず当たるはずもなく、蔵人は半分期待する程度の気持ちで、蹴鞠の日になよ竹の美女が姿を消した、あの左衛門の陣で待つことにしました。
毎日毎日門の傍に立っていたのですが、清涼殿で行われる最勝講(最勝王経を講じる法会)の初日、つまり五月の十三日に、仁寿殿の西廂で聴聞しているなよ竹の美女を、とうとう見つけました。蔵人は小躍りしたいほど喜びましたが、ぐずぐずしていると法会が終わってしまいます。そうなるとまた人ごみにまぎれて見失ってしまいかねません。蔵人は大急ぎで殿上の間の入り口まで走り、控えていた者に、
「帝に大至急伝言を。お探しの女性が来ておりますと」
と伝えましたが、
「大事な聴聞の途中です。大至急で奏上せよとは大袈裟な」
と取り次いでくれません。あいにく伝奏(天皇に取り次ぐ職)の人も席をはずしています。誰か取り次いでくれそうな方はいないか…とまわりを見渡しますと、エライさんが女官の私室の入り口で何やら楽しそうに語らっているのが見えます。蔵人は大急ぎで帝への伝言をお願いすると、まもなく帝からは、
「よくぞ見つけた。今回は見失うことなく必ず突き止めよ」
との返事です。法会は夕方頃終わり、人々がごった返す中、蔵人は目的の女から目を離さないようにしていました。女は車に乗ってどこかへ帰るようです。蔵人は怪しまれないように身を隠して、車の後を尾行しました。
女を乗せた車が停まったところは、三條白河にある、某の少将という人の家でした。どうやらここがなよ竹の女の家のようです。蔵人は内裏に戻り、帝にそのことを奏上しました。帝はすぐに手紙をしたため、蔵人は急いでその御手紙を女のもとへ届けました。
『…あだに見し夢かうつつかなよ竹のおきふしわぶる恋ぞくるしき
(夢だったのだろうか…そなたとの出会いは。寝ても覚めても面影が忘れられぬ)
今日、夕刻に必ず参内するように』
手紙にはそう書いてあります。手紙を受け取った女はたいそう困惑しました。なぜなら、女は夫のある身。この家の少将の妻だったのです。普通の男であれば「ああうっとうしい」と無視できるものを、相手は畏れ多くも今上です。隠す事などできないと困った女は、しぶしぶこのことを夫の少将に打ち明けました。少将も驚きました。しかし、
「今上さまをお諌めすることなどできないであろう。帝という御方は、何をしても許される身なのだから。不本意だが、お召しに応ずるほかないだろう」
との返事。他の男に身を任せろ…愛する夫がそんなことを言うなんて…と女は嘆きました。
「泣かないでおくれ。一緒に暮らして三年、そなたと仲睦まじく暮
らしてこれたのも、そなたとのありがたい宿命だったのだろう。
それならば、今そなたが今上さまのもとに行くのも、これまた前世からの約束事なのではないか…と思う。そなたほどの女を、よもや飽きて打ち捨てるようなマネはなさるまい。安心して参内なさい」
夫の説得に女は泣きながら、帝からの御手紙の最後のひとくだり『このくれにかならず(今日の夕刻必ず参内するように)』の下に、黒く一文字だけ、
『を』
と書いて、手紙を元通りにして御使いの者に持たせました。
手紙の返事を今か今かと待ちわびていた帝でしたが、自分のし出した手紙が、開かれた様子もなくそのまま返ってきたのを見てがっかりです。ああ中身も見ずに突っ返されたか、と手紙を広げると、最後の行に女の手蹟で『を』の一文字。
「やれうれしや、見て頂けたらしいぞ。だがこの『を』…はて、何の意味だろう」
歌や文学に詳しい女房を数人呼んで、この『を』の意味を尋ねました。呼ばれた女房の中に承明門院小宰相という和歌にすぐれた女房がおり、
「その昔、大二條殿(教通公。御堂関白道長公二男)が小式部内侍(和泉式部の娘)のもとへ、『月』という文字だけを手紙に書いて届けた際、その文字の下に『を』とだけ書いて返事したことがございます。その故事にちなんだのではないでしょうか。
『月』の意味は、『夜になるのを待ってお越しなさい(よさり待つべし)』ということでございます。そのお誘いに応じる時の返事は、殿方の場合は『よ』、女性の場合は『を』と書くと、乳母草子(めのとのさうし)なる本に書いてあるそうです。乳母草子とは、良家子女のためのルールブック(教訓書)ですわ。その夜、小式部内侍は大二條殿のお屋敷に闇にまぎれて忍んで行かれたそうです。その勇気に、大二條殿はますます愛情を深められたとか。
ですから、この女性の『を』なる返事も、今上さまのお召しに応えた…ということではないでしょうか。きっとそうでございます」
小宰相の推測は、帝をそれはそれは満足させるものでした。ただの美しい女性だと思っていたのに、この私をもうならせる深い教養の持ち主であったとは…帝はなよ竹の美女を想って、衣装やたきしめる香に気を配りながら、日が暮れるのを待ったのでした。
その夜、帝は寝所へも入らず、なよ竹の美女が参内するのを待ちました。夜はどんどん更け、やがて丑の刻(午前二時)になりました。いくらなんでも遅すぎる…帝の不安や苛立ちが頂点に達する頃、ようやく、
「お待ちかねの者が参りました」
と蔵人のしのびやかな声が聞こえました。蹴鞠の日に出逢ってからずうっと待ち続けた帝は感激もひとしお。玄宗皇帝が楊貴妃を得たときの感激に勝るとも劣らぬ喜びようでした。
短い夜はあっという間に空け、女が退出しなければならない時刻になりました。なよ竹の女は自分の身の上、つまり夫を持つ身であることを帝に告げ、互いに愛し合っている事、お互い恋人を作るつもりはない事などを打ち明け、夜明け前に帰っていきました。
帝はなよ竹の美女の教養や雅びな振る舞い、貞淑さ、気の配り方を目の当たりにし、ますます愛情が深まりました。
「このような女性を後宮に迎え、女御として奉り、尽きぬ愛情を注ぎたいものを…だが、穏やかな暮らしを望んでいる夫と妻を無理矢理引き裂いて、宮中に閉じ込めることが帝王のすることだろうか。結果として、それは愛しい女を不幸にすることではないか」
賢明な帝は女を召し抱えることを思いとどまり、なよ竹の美女をもとの少将の家に住まわせたまま、時々召し出すことにしました。
なよ竹の女の夫である少将という者は、出世街道を走ることに挫折した、いわば世捨て人でした。宮仕えをあきらめた隠者同然の生活をしていましたが、妻を帝に見出されてからというもの、この少将も帝に目をかけられ、おそば近くに仕えることを許されて、後に中将まで昇進しました。中将はいつも目立たぬように振る舞っていましたが、口さがない人々は、
「鳴門の中将」
とあだ名をつけていました。阿波の鳴門はわかめの名産地。良いわかめの獲れる鳴門。良い若布(わかめ)=良き若い女(め)の獲れる鳴門…掛詞のひとつですね。
このように君子と臣下は水と魚のような関係です。上に立つ者はおごりたかぶらず、下で仕える者は上を妬まず。このお話の後嵯峨天皇は、おのれの立場のまま強引に臣下の妻を召し上げたりしませんでしたし、臣下の少将は、天皇の要求を頑固に拒否もしませんでした。お互いがお互いを思いやった、理想の君と臣の関係が、このお話に見れるのではないでしょうか。






332段 ある男、通いの女房の局の前で扇を鳴らす事


いつの時代のことだったでしょうか、とある男の話です。
この男、以前から高貴な血筋の女房のもとへ通っていたのですが、ある夜、その女房の局近くに佇んで、「来ておりますよ」と知らせるように、持っていた扇をぱしぱしと打ち鳴らしました。
局の中に居る女房は、あいにく男を部屋の中に入れるのに何か都合の悪い事でもあったのでしょうか、
「野もせにすだく蟲の音よ
(野原一面に響く虫の音ですこと)」
とやさしく口ずさみました。男はその声を聞いて、扇を鳴らすのを止めました。
かしがまし野もせにすだく虫のねよ我だになかで物をこそ思へ
(野原一面に降るような虫の音だな。この私でさえ心の中で思うだけで我慢しているというのに)
扇の音で来訪を告げる男とその音を虫の声に例える女。互いを気づかう情の深い和歌。この雅びの精神こそが、男女の優しい思いやりというものではないでしょうか。
二人の仲はいっそう深まったことでしょうね。






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