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■仮面の女


斎信の屋敷で碁を打っていた公任のもとに検非違使佐(すけ)がやってきたのは、夜も更けかかった亥の刻だった。緊急の知らせとて、本来ならば、次官である佐が、そのまま検非違使別当・公任を伴って検非違使庁へ戻るのだが、斎信がヒマを持て余していたため、
「佐がわざわざ別当殿の訪問先へやってくるということは、緊急かつ重大な事件なのだろう?私は蔵人頭だ。知る必要があるね」
と、報告を聞きたがったのだ。
「おまえに知らせる必要があるかどうかは、話をきいたあとで私と右大臣殿が判断する事だ」
と公任は部外者に知らせる事を渋ったが、「宮中で大事が…」の佐の小さなひと言で、結局斎信に押し切られる形になった。

「たった今、内裏から死にかかった女房が、検非違使庁に運ばれてきましたので、急ぎご報告に参上しました。宣旨という上臈女房です」
佐はそれ以上のことは言おうとしなかった。この先の話は、いかな蔵人頭であろうとも、許可なく聞かせないということか。佐は、部外者にここまで言ったのだから、頼むから早く別当殿とともに検非違使庁に帰らせてくれ、という顔色を浮かべている。
『死にかかっている』とは、あくまで宮中の建前の言葉であり、実際には、『すでに死んでいる』を意味していた。内裏の局で死人が出たとなると、けがれの問題が生じ、各行事が中止あるいは延期されたり、公卿が参内できなくなってしまう。そういった混乱をさけるために、ごまかせる死者はできるだけひっそりと速やかに、内裏の外の検非違使庁引き渡される。そして「検非違使庁に着いてから死んだ」事にされるのが慣例であった。今回の事件もまた、その慣例にのっとって、「死にかけていた女房が検非違使庁に運ばれてから死んだ」のであり、公任への緊急の報告とともに右大臣道長へも通達がいっているはずである。
「但馬守の娘の宣旨なのか」
からむ斎信をうるさそうにあしらっていた公任の声色が一瞬変わった。
「ご存知ですか」佐が答える。
「いや・・・よし、即刻検非違使庁に参る」
もとの声色に戻った公任が、すっと立ち上がった。
「まてよ、私も行こう」
「あほう、おまえは部外者だ、少なくとも今はな。もし今夜私がこの屋敷に来なかったら、おまえはこの事件を少なくとも今夜は知らずに済んだはずだ。どうせ早朝にでもおまえのところに報告がいくから、それまで待っていろ」
「昔の恋人の亡骸をまともに見れるのか」
歩き始めた公任の足が止まる。今にも斎信の顔を張り倒しそうな目で見ていた。
「そうだおまえは知っていたんだったな。・・・ならば来い。ただし、正式に報告があがるまで他言無用だ。絶対に」
立ち上がった斎信が公任に追いつく。佐は二人の背中を眺めながら、今の会話もきっと他言無用なのだろうなあ、きっとそんな気がする・・・と思った。


雨気を含んだぬるい大気があたりを包む中、検非違使庁舎の奥に向かおうとする二人の後ろから、懇願するような検非違使佐の声が飛ぶ。
「どうかお止めください。お二人がお入りになるようなところではございません!けがれに遭ってしまいますと明日からの生活にさしさわりが」
「かまわない。この目で確認するだけだ」
止める佐を制して二人が入った部屋は遺体安置所だった。戸を開けると、莚(むしろ)の上に、黒髪を広げた葵かさねの袿姿の女が仰向けに横たわっていた。細い首にはヘビが絡みついているような青黒い筋が見えた。
もちろんとっくに死んでいる。軽い嘔吐感を覚えた斎信は、口元を扇で隠して目をそむけたが、公任はそのまま膝をつき、女を見下ろすように覗き込んだ。死後硬直で硬くこわばった美しい頬に、公任の影が落ちる。
「確かに本人だ。いったいどうして」
「内裏の自室で、天井の梁に腰紐をかけて首を吊っているのを、訪ねてきた同僚の女房が発見したんです。すでに大尉(だいじょう)や放免どもによる実検(検死)は済んでいますので、まもなく身内の方々が遺体を引き取りに来られますが」
「わかった。実検が済んでいるなら遺体は引き取ってもらってもかまわない。一応有力受領の娘だ。自害なのか違うのか、もののけのしわざか、なにかの事件に巻き込まれたのかはっきりさせる必要があるだろうな。事件ならば、大臣殿と相談する必要があるが・・・ともかくそこを重点的にあたってくれ」
佐にそう命じ、きびすを返して部屋を出ようとする公任のあとを、斎信はあわてて追いかけた。重く湿った大気は、これ以上水気を含むのに耐え切れないかのように、雨を滴らせはじめている。五月雨の季節はまだまだ終わりそうになかった。


翌日、今度は斎信が公任の屋敷に向かっていた。朝、宮中へ出勤して後宮をそれとなくうろついてはみたが、まったく騒ぎにはなっていなかった。しかしどこか空気がぎこちなかったのは、やはり緘口令(かんこうれい)がしかれているからだろう。それはそうだ。めだつ公卿が頓死したならともかく、ただの一女房の首吊りで、宮廷内の秩序調和が乱れてはならない。表向きはなごやかそのものだった。昨日まで宣旨が住んでいた局はきれいにかたづけられていた。但馬守の身内が、生活品を全て持って帰ったのだろう。斎信が立ち寄った時には、もう空き部屋になっていた。宣旨が、おのれの首を吊る腰紐をかけたという天井の黒い梁を見上げると、紐によるくぼみがくっきりと残っている。
そのくぼみを見ていると、生々しい宣旨の遺体の重みが直に伝わってきそうで、斎信はあわててその部屋をあとにしたのだった。


公任の屋敷に向かう牛車にゆられて、斎信は、昨夜の公任の様子を思い出していた。まだ公任が頭中将だったころに一時期通っていた女房・・・それが宣旨だった。当時はまだ、一人前の女房になるやならずやの女人だったのに、どうしたわけか公任が通い始めて以来、さなぎが羽化するかのように、立居振舞にも歌詠みにも磨きがかかり、洗練された宮廷女官になっていた。蝶が花から花へ舞うように宮廷内を自由に行き来して、斎信自身も取次ぎにずいぶん重宝していたものだ。彼らがつきあっていたのは公任が頭中将在任期間だけ。公任の昇進に伴いそのまま自然消滅したと、記憶にある。
そんなことはよくある話で、公私にいそがしい宮廷女官は、別れても恨む間もなく次の殿上人が群がり始める。その女官が重要なポジションにいればなおさらだ。そんな一人だった宣旨・・・いったい何が彼女の身に起きたのだろう。
そんなことを考えながら牛車にゆられるうち、公任邸に到着した。


「もし他殺で、犯人が公卿なら、黙殺するかどうかを大臣殿と相談して決める」
「冷たいやつだ。おまえは昔からそういうやつだよ」
「騒ぎ立てても詮ないことだろう。かえって馬鹿をみる。但馬守もはらわたが煮えくり返る思いだろうが、そのへんはよくわきまえているさ」
「自害の理由が思いつかないのか」
「それは佐や大尉(だいじょう)らが当たってくれている。聞き込みが終わり次第、報告にやってくるはずだ」
「殺した相手がもし公卿なら、もののけのしわざで片付けられるんだろうなあ・・・よく知っている女官なだけに、哀れでたまらないよ」
昨夜の遺体を思い出してしまい、斎信はまた口を扇でふさいだ。
検非違使佐が到着したとの先触れがあり、しばらくして几帳の向こうから佐が顔をのぞかせた。
「ご苦労。どうであった?」
「いや、女官というものは、同僚の事を部外者に話すとなると、口が一気に固くなるものなんですねえ・・・っとっとっ頭中将どの?」
またあなたですか?といわんばかりに佐はあからさまにゲンナリした表情を見せた。
「まあまあ、乗りかかった舟というだろう?昨夜のことは他言無用、との約束は守ったし、何もしないし言わない。聞いてるだけだからさ」
「こいつをいっさい見るな。視界から追い出して報告してくれてかまわない」
は、はあ・・・とつぶやきながら、佐は話し始めた。
まず親である但馬守にあたってみたところ、さる殿上人の婿取りをほのめかしていた事が分かった。このことは、宣旨の両隣の局に住んでいる女房も証言しており、その結婚を宣旨が非常にいやがっていたこと、親から強要されて真剣に悩んでいることなどを打ち明けられた、と隣の局の女房は言っていたという。
「結婚を悲観しての自害・・・か?宮仕えにでた有力受領の娘の結婚となれば、相手は六位やそこらじゃないだろうなあ」
「おまえはなにもしゃべるんじゃない。それで?」
「ええ、後宮内の聞き込みはとりあえずそれくらいなんですが・・・大尉が放免どもからちょっとした話を聞きまして」
「なんだ?」
「放免どもが、あれは首吊りで死んだんじゃない、と申しているんです。彼らの経験によると、あんな細い紐で首を吊れば、紐が一気に締まって、窒息するより先に心の臓が止まってしまうらしいんです。なのにあの女の顔の頬や目のまわりには、針でつついたような点状の出血がたくさんあった・・・あんな溢血点は、窒息でしか現れない、と放免どもは申してます。女の足は床から相当離れてましたから、体重が完全に紐にかかっていたとみていいでしょう。中途半端に床に足がついて苦しんだ挙句の窒息なら話は別ですが。放免の現場経験は確かですよ、いやはや皮肉ではありません」
放免は犯罪のエキスパートだ。追い剥ぎ、強盗、ばくち打ち、人買い、放火・・・今は検非違使庁の下っ端でも、かつてはそれらの罪を犯して獄に入っていたヤカラばかりだ。刑期を終えたあと、貴族たちが口に出すのも嫌がるような汚れ仕事をしている。しかしこのような者たちがいないと都の治安事情がさらに悪化してしまうのもまた事実であった。
「殺されたあと首を吊り上げられた、ということなのか?」
「それは何とも申し上げられませんが、特に指の痕など何も見受けられませんでしたので、直接口や鼻を塞ぐか、あるいは幅広の帯などで首を締めたか・・・そんなことを放免どもは言っていた、と大尉は申しております」
「なんとなく予想はついていたが、いやな方向に事件が走りはじめたな・・・他殺が濃厚だねえ。しかしあの宣旨を恨む者など信じられないな。いつも晴々とした顔で、楽しそうにしていたのに」
もう斎信が口をはさんでも、公任はとめようとはしなかった。


翌日の陣定(じんのさだめ)での決定事項が多くて、今上に奏上するのに時間がかかり、斎信は公任とは私的な会話はできなかった。だがその夜、公任から屋敷に来て欲しいと要望があり、差し向けられた牛車に乗って、斎信は公任の屋敷に向かった。
「やあ、おまねきありがとう。めずらしいじゃないか。おまえがわざわざ車を回してくれるなんて」
いつもの公任ならば、こんな斎信の軽口に、やはり嫌味ギリギリの軽口で応酬するのが普通だが、今夜は様子が違った。
「女房の一件で進展があったんだ」
斎信は、内心少しばかり驚いていた。最初あれほど自分が顔を突っ込むのを嫌がっていた公任が、経過を教えるとは。
「今朝、大尉が知らせを持ってきた。宣旨は宮中の女官筋のあいだでは、有名な高利貸だったそうなのだ。大尉の愛人に女蔵人がいて、宣旨は生前、女官たちに金貸しの斡旋をしていたと証言している」
宣旨の意外な裏の顔だった。
「そんな話は初耳だ。宣旨は砂金集めが趣味だったのか?金に振り回されているような女には見えなかったが」
「どおりで宮中の女官たちの口が固いはずだ。仮にも同僚が宮中内で変死したのに、少なくとも表面上は噂にのぼりもしないとは、おかしいと思っていたんだ。宣旨に金の斡旋をしてもらった女官たちは、さぞ複雑な気持で過ごしているだろうな」
「・・・・・・」
「婿取りを嫌がっての自害のセンも捨てきれないが、金貸しのトラブルによる殺害の方が濃厚か?もう一度、佐や大尉に、宣旨の周辺の女房を聞きこんでもらおう。それでいいと思うか?斎信」
「思うかって・・・珍しいじゃないか。おまえが私に方針を相談するなんて。それが私を呼んだ理由かい?」
「そうだ。私は今朝大尉から宣旨の裏の顔を聞かされて、正しい判断ができる自信がない。だから乗りかかった舟だと思って最後まで立ち会ってほしい」
「あ、ああ。なるべく口ははさまないようにながめておくよ」


佐の聞き込みの結果、親である但馬守はそれほど宣旨に婿取りを強要してはいないことがわかった。たしかに、ほのめかす程度のことはしたが、『宣旨』という重要ポジションを辞めさせてまで、実家に連れ戻そうとは思っていなかったようである。親の言葉を信じるなら、結婚を悲観しての自害のセンは途端に怪しくなった。では結婚の強要を悩んでいた・・・という両隣の女房の話はどうなっているのか。


「とにかく、宣旨に借金をしていた女官たちを挙げるのが先だな」
公任がため息とともにつぶやく。
「特に、まだ借金したままの女官を見つけないとね。・・・これはなかなか口を割らないだろうなあ」
金の弱みを握られた者同士の結束力は固い。口裏をわざわざ合わせなくとも自分たちに不利な情報を流す女官など、誰一人としていなかった。斎信が後宮に仕事で出向いても、女官すべてが自分をにらんでいるような気になる。自分がこの事件に顔を突っ込んでいることなど、誰も知るはずないにもかかわらず。女官全てが宣旨に金を借りていたように見えもしたし、また、誰も借金などしてないようにも見えた。つまり斎信は、女人の本当のはらの中の心情など男にはうかがい知ることはできはしないのだ、と実感していたのであった。


宣旨に借金をしていた女官のとっかかりは、意外な方面からつかむことができた。検非違使佐たちが命じて、東西の市の盗品を扱う店に放免どもを出向かせ、いかにも高価な一品を誰かが売りにきたら、店主が放免に知らせて、検非違使庁に引っ立てていく、という作戦をとったのだ。怪しげな売り主たちが迷惑そうな顔で、放免に連れられてきては、また帰っていった。
大半は、この事件には無関係な者たちばかりだったが、そのなかの一人が持っていた、銀の鏡がなかなかの逸品であった。その売り主が、宣旨を仲介とした金貸し業者であることを白状するのに、さして時間はかからなかった。
検非違使佐も、検非違使別当も、その銀の鏡は見覚えあるものだった。
「鏡の背に描かれてある水辺の菖蒲・・・それにカササギ。周縁は独特の菱形。この意匠は」
生まれは良いが、両親が落ちぶれて零落してしまった小督(こごう)の君と
いう女官の母方の伝世品であった。小督の局を訪ねた事のある者なら誰でも目にしているその鏡。その自慢の鏡が質流れしている、ということは。
「すぐに取り調べます」あたふたと佐が部屋を出て行った。


ひとりのしっぽをつかまえて白状させれば、あとは芋づる式に金を工面してもらった女官たちがわかった。いつ工面してもらったのか、何のためなのか、そしてその裏づけがとれれば、おのずと借金に振り回されていた女官が分かる。あろうことか、借金による生活苦を強いられていたのは、宣旨の両隣の女房だった。生活の基盤をおびやかされていた者も数名いた。隣部屋の女房を佐が問いつめても最初は知らぬ存ぜぬを通したが、大尉たちの手によって、検非違使庁につれて行こうとした途端、泣き崩れて犯行を認めた。内裏と実家という、狭い世界しか知らない女人にとって、検非違使庁という所は、死体が積まれ、腐臭に満ち、犯罪者たちとともに拷問を受ける恐ろしいところ、という認識しかなかった。その女房は、検非違使庁に連行して取り調べる、と大尉が告げただけで震え上がり、「自分だけではない」と三名の女官の名を口にした。かわいそうに、白状したところで連行されることには変わりないのだが。
大尉の取り調べた結果、宣旨の口と鼻を背後から塞ぎながら、裳の引腰という幅広の帯で思い切り宣旨の首を締めたらしい。宣旨がこと切れたあと、紐を天井の梁の上に通し、皆で調度類の上に乗って、輪になった紐に宣旨の首を入れた。力の入らない大人の死体は、持ち上げるのにたいそう苦労したそうだ。四人のよってたかっての犯行だった。宣旨の何をそこまで憎んでいたのかと問えば、たしかに返せないような金を工面してもらった私たちも浅はかだったが、返すあてがないのなら子供をもらっていくとおどされたという。
宮中の女官たちのこんな弱味を握っているから、あんなに朗らかに強気に振舞っていられるのだと思うと、くやしさと生活を脅かされる恐怖でどうにかなりそうだった。借金に追いつめられた者同士が沈黙し続ければ、時間の経過とともに事件がうやむやになっていくだろうと期待していた。なにせ借金していたのは自分たちだけではないのだ、誰も彼も宣旨殺しについて口を閉ざしてくれるに違いない。事実そうだった。小督が借金の返済に質に入れた鏡からアシさえつかなければすべてうまくいったのに、と最後は錯乱状態の取調べだった。


その後、宮中では女官たちのちょっとした入れ換えがあり、女房の顔ぶれが少し変わった。ただそれだけだった。表面上は相変わらずなごやかで、新人の女房たちが、あちこちの先輩女房へあいさつに回っているのも、斎信のよく見慣れた風景であった。


公任の屋敷へ行くと、検非違使佐が公任と対面しているところだった。斎信の姿を見て、「あああの、結果報告は以上です」と言いながら、そそくさと公任の前を辞して行った。斎信は「やあごくろうさま」と声をかけたが、佐は眼をふせながら「失礼します」と礼を失さない程度に早歩きで通り過ぎる。見送る斎信の目に、佐の背中が「どこまでいっちょかみしたら気が済むんですか」と泣いているように思えた。
「佐殿はずいぶん疲れているようだな。まあムリもないか」
「おまえが来るとの知らせを聞いた途端、倒れそうになっていたぞ」
「なんで。こんなにひかえめにおまえたちの動きを見守っていたのに」
軽いやりとりをしているうちに、女房が酒をもってきた。そのまま人払いを命じると、遠くに控えていた女房たちも下がってゆく。
瓶子を傾けて酒を注いだ公任の袖口から、目立たない小さな数珠がのぞいた。宣旨のことを聞いてみたかったが、「何年も前の話だ」の一言で片付けられてしまうだろうと思い、やめた。捕らえられた女官たちの処理とか、新参の女官たちの素性とか、今回の事件の帝へのご報告はどのようにしたとか、そういう事務的な会話が続く。
「・・・特に内裏の秩序が乱れるような事件ではなかったけど」
「そうだな。政治向きの私怨がらみが原因だったら、もっと大変なことになっていた」
「とことん冷静なやつだな。宣旨のために泣けとは言わないが、その手にしている数珠くらいの心は持ってるんだろう。それともなにか?まだ半人前だった宣旨に和歌や立居振舞のほかに、儲かる機会を見逃さない貪欲さまで教えたのか?」
「宣旨を汚すような言い方はやめろ。いくらおまえでも、そんなふうに昔の宣旨を詮索するのは許さない」
公任の声が鋭く飛ぶ。
斎信は黙った。今の一言に、公任が本気で怒りそうになっているのが伝わったから。
「悪かった、少し言い過ぎた」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・誰に蓄財のうまみを教わったかは知らないが、借金のカタに子供を売り飛ばすような女になっていたとは知らなかった。本人に見合った死に様だ。殺される前の宣旨はもう、私の知らない宣旨になっていたんだ。そう割り切って、別当としての職務を果たしたまでのことだ」
公任はそれっきり黙りこんでしまった。
公任が、何年も前に関係のあった宣旨に、いまだ特別な想いを寄せていたとは思わない。宮廷人というものはそれほどウェットな性格ではないし、ただ季節季節の何気ないやりとりくらいならやっていただろう。それはまあ、息をするような気楽なものだし、公任の性格からして、別れた女と何かを発展させようなど思うはずもない。
公任のプライドを、斎信はそのように信じて疑わない。
『おまえの考えている事を、あててみせようか、公任。おまえはな、腹を立てているんだよ。宣旨にも自分にも。自分がかつて入れ込んだ女が金に魅入られて干からびたような性根になリ下がったことに。そんな変化に気付いてやれなかった自分に』
・・・なあんて言ったらどんな顔して怒るかなあ。
黙ったまま酒を口に運んでいる公任をながめながら斎信はそう思っていた。
こいつは心の内を吐き出すのが本当にヘタだ。仕方がない、「もう帰れ」といわれるまでつきあってやるとするか。
斎信は、遠くに下がっていた女房に瓶子の追加を頼んだのだった。


(おわり)


2003/6/28


 
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