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大嘘今昔物語
(巻二十七 :水の精、人の形になりて捕われし語より)


「おお中将殿。旧越前守の屋敷に、女のあやかしが出る話はもう聞きましか?」
「女のあやかし?」
辰の一刻(午前七時)、内裏の宿直所(とのいどころ)に出向いた斎信の、これが開口一番の言葉だった。
質問を投げかけたのが、左近少将源経房。
「その顔ではまだご存知ないようですね。今、その話を皆でしていたところなんです。まま、お座りください」
四人ほどが輪になって座っている中に入るよう促された。
ここは蔵人所の一室、殿上人たちが宮中で宿直する部屋である。


「何の話をしていたんだい?」
「先日、五条高倉通りの越前守の屋敷が売りに出されたでしょう?あの屋敷をどこかの受領が買った話をしていたんですけどね。実成、買ったやつ誰だったかな?」
「大成金の但馬守です」
答えた人物は藤原実成(さねなり)。公季の息子でただ今は二十歳の侍従だ。
「それそれ。その但馬守が、大層瀟洒な旧越前守邸を買い取って、三週間ほど前から改築し始めたんです。改築の際に、池にふたつあった釣殿のひとつをつぶして、そこに深山木を植えようと計画したらしいんですけどね。池の一部を埋め立てしてしばらくしたら、怪現象が起きるようになったんだそうですよ」
「怪現象?それが女のあやかしなのかい?」
「ええ。とりあえず西の釣殿と池の間を土の堤防で仕切って、釣り殿側の残った水たまりは、この初夏の日差しで勝手に干上がるだろうとほっといたんですけど、この水たまりの方に、夜な夜な異形の女が現れはじめたんです」
経房の説明は、いつもわかりやすく明瞭簡潔だ。
「へええ、異形の女ね。誰が目撃したんだい?」
「えっと、その屋敷を買い取った但馬守本人です。夜、改築途中の屋敷に出向いて、池を眺めていたら出くわしたんです」
この中で最年少の部類に入る実成が答える。
この場合、但馬守本人が見たといえば、目撃者がもちろんひとりではない。
夜の空家に単独でいくはずもなく、供の者やらなんやらで2、3人同じく目撃している。
「毎晩やってきては、どんな深山木を取り寄せたらかがり火や燈籠に照り映えるかな・・・など、いろいろ考えてたんでしょうね。ある夜、そのままそこで寝てしまい、フッと気がつくと、目の前に女がいて、自分の顔をじっと覗きこんでたんですって。女をよく見ると、水たまりから身体が異様に延びている。恐怖を感じたとたんに体が動かなくなって、脂汗ダラダラでそら寝をしていたら、その女は静かに後ろを向いて、水たまりの水際に行くやいなや、かき消すように失せてしまったんです。同じく金縛りにあいながら、供の者たちもそれを見ていた、ということなんです」
経房はさらに続ける。
「その夜は酒を飲んでいたので幻でも見たのだろうと思い、次の夜、ちょっとだけ改築現場に寄ってすぐ帰るつもりが、やはり呪を唱えられたように体が動かなくなって、またその女が水たまりから出現したんです。前回と同じく主人の顔を見つめて、やがて再び水たまりにかき消えてしまう、と」
「主人に悪さはしないのか?」
「ええ。ただじっと見つめて水たまりに戻っていく・・・それだけなんですけどね。その容貌というのが・・・」
「なぜそこで一呼吸置く。気になるじゃないか。腰を抜かすほど醜い異形なのか?」
「逆です。なかなかの美女らしいんですよ。ところが人としての容貌じゃないと、但馬守は言ってるんです。・・・なんでも、目の色も違うし、なにより体じゅうウロコだらけ。指の付け根には小さな水かきが・・・」
経房が低い声でそうささやくと、そばにいた平行義がヒィ〜とうめきながら耳をふさぐ。
「あんまり不気味だから、毎夜は行ってないそうなんですが、行くたびにその異形の女に遭遇する。こうなったら陰陽師にでも相談しようか、と悩んでいたんですけど、この但馬守、ふとあることに気がついたんです」
この経房、本当に話題を盛り上げるのがうまい。斎信が宿直所に来る前に、一度みんな聞いてるはずなのに、話術に引き込まれてしまう。黙って耳を傾けた。
「会うごとに、次第に女の体が透けていくことがわかったんですよ。最初見た晩に比べたら、一番最後に見た晩の方が格段に薄くなってるってね。それで但馬守、安心しちゃって、ほっといても消滅するだろうから、高い調査料出して陰陽師に調べてもらう必要ないって。ゲンキンなもんですよ。・・・いかがです?水に棲む異形の美女」
「池に住んでる魚の変化(へんげ)なのかい?脚のかわりが尾ヒレなら興ざめだなあ。でもまあおもしろそうだ。悪さをしないんなら、一度確かめに出かけてみてもいいな」
「ああやっぱり中将殿ならそう仰ると思ってましたよ。先ほども中将殿がこちらに顔を出す前に、『中将殿のノリなら絶対見たがるに違いない』って、みんなで話していたんですよね」
若い実成が予想的中とばかりに楽しそうに言った。
「私の行動がそんなに予測できるとは不本意だな。確かに見てみたいとは思うが、それは美女だと聞いたからではないぞ。こういう体験が、政務で疲れた今上の御心をお慰めする一興にでもなれば、という純粋な職務上の」
「ストップストップ。おまえがそういうのを口実に、気のすすまないお屋敷への訪問を断ったりしているのをどれだけ見てきたか、言ってやろう」
それまで輪の中でずっと黙って聞いているんだかいないんだかよくわからない態度で扇をもてあそんでいた公任が、ようやく口をはさんできた。
「・・・公任。おまえは私にウラがあるとでも言っているのかい?心外だなあ」
「おおげさに目をむいておどろいたフリをするな。それより行くんだな?よし、一人は決まりだ。あと一人か二人、誰かこいつの面倒をみてやれる者は・・・」
と公任が輪の中に目を泳がしてみたが、行義は「いやですいやです!」とすでに話を聞いてる時点でビビッているし、実成も、「わ、私も集合美はちょっとトリハダが・・・」とわけのわからないことをつぶやいている。どうやら実成は、昆虫類のウジャウジャうごめいているところとか、無秩序な群集とか、ビッシリはりついた魚のぬめぬめしたウロコとか、そういう細かなものの集まりに弱いらしい。経房少将は、「今夜行くのでしたらちょっと都合が」と、女人の先約があるようだ。
「公任、おまえどうせヒマなんだろう?ならば一緒に行こうよ。うるわしき水の精を訪ねてみるのも一見の価値あり、だよ」
「ヒマヒマいうな。おまえと違って私は忙しい。急に予定を変えられるものか・・・といいたいところだが、残念ながら今日は体が空いている。女のあやかしをうるわしき水の精と、妙な脳内変換するようなヤツの面倒を見るのはごめんだがな」
行くと言っているんだかいないんだかよくわからない物言いだが、これが公任独特の気心知れた者たちとの会話であり、乞われればなんだかんだといいながら、以外にも世話を焼いてしまうタイプなのだ。要するに、行くことにやぶさかでなかったらしい。
「よし公任。消えつつあるのなら早い方がいい。では今夜ゆくか」
「うむ」
「ゆこう」
「ゆこう」
ということになった。 ←ここらへん『陰陽師』大パクリ




「・・・流れが止まった水は、行き場のない負の魔力がよどむっていうからな。わるさをしないとはいえ、斎信、用心に越したことはないぞ」
子の刻(午前0時頃)少し前、二人を乗せた牛車は、十七夜の月に照らされた五条高倉のあたりをゆっくり歩いていた。
やがて、件の旧越前守邸に到着する。
牛車を泊めて、供の者たちに松明の火を絶やさないように申しつけ、二人は暗闇の中、さらに黒く浮かびあがる邸内にザクザクとはいり込んでいった。
賀茂川が近いせいか、ゆるやかに吹き抜ける風がたいそう涼しく頬をなでていく。昼間の温気は払拭されていた。
歩きながら、斎信は独り言のようにつぶやく。
「但馬守に黙ってきてしまったが、よかったのかなあ」
「だめに決まってるだろう。だから出したゴミはきちんと持って帰るんだな」
「?なんだい、そりゃ・・・」
言われた意味がわからず、怪訝な声で斎信が問うと、公任は栓をした瓶子を、どうだといわんばかりに懐からチラリとのぞかせた。
「ハ!なんだいそりゃ!ずいぶん気がきいてるな」
仕方なしにつきあってくれたのかと思っていたが、案外公任もノリノリで楽しんでるんじゃないか。こいつの考えてる事は、顔色からは本当に読みにくいな、まったく。
そう思うと斎信は、急に気が楽になった。
建築途中の、材木がそこらに置きっぱなしになっている間を注意しながら通り過ぎ、母屋とおぼしき広間の前面に出ると、暗闇の向こうに大きな池が、月を映して広がっていた。問題の池である。
改築する前の、東西に釣り殿を抱えるたいそう見晴らしの良い景色が想像できたが、今は、西側の一部を埋め立てるために土山で堤防をつくり、水を堰き止めている。その堤防の右側に、池から切り離された水たまりがあった。池の方は賀茂川から水を引いているため、満々と水をたたえた姿をしているが、分断された水たまりはすっかり赤茶けた泥色になっていた。
「あれだな。うるわしき水の精が棲んでいる水たまりは」
斎信は火を消さないように慎重に持ってきた紙燭を、階(きざはし)のすぐそばの石燈籠に置いた。弱々しい明かりだが、すでに暗闇に慣れた眼にはなんとか耐えられる明るさだ。
「階に座って待つのは、目立つなあ。かといって明かりから離れてるのも心細いし」
「では縁側の下だ。階の裏で待ち伏せしよう。石燈籠のそばだし階の影で我々の姿は見えないはずだ。行こう斎信」
二人は階の裏に回りこんで、縁側の下の土の上にしゃがんだ。ちょうど階の真後ろになり、明かりのつくる、階の影に入り込んだ状態で二人の姿はほとんど見えない。
「なんというか・・・少しおまえに対する見識が改まったよ、公任。土の上に座るのを厭わない性質だったとはねえ」
詩歌管弦を見事にこなす柔軟さと、プライドが高くてなかなかスキを見せない慎重さを併せ持つイメージだが、公任の今夜の様子は少し違う。
「郷に入っては郷に従え、というだろう。おまえにつきあうならおまえに従え、そういうことだ」
「それはなにか?私が好んで土で汚れるのも平気な無作法者だとでも言われているみたいだな」
ふふん、と機嫌よく笑いながら、公任は懐から瓶子と二つの小さな盃を取り出した。
「ゴミを出すなっておまえはいったけど・・・この紺瑠璃の盃を置き忘れて帰ったら、但馬守、狂喜乱舞するだろうなあ。とてもきれいな細工だ」
「瓶子の栓も持って帰ることを覚えておいてくれよ。酒の肴がないのが少々もの足りないが、ま、酔いにきたのが目的じゃないからほどほどにしよう」
公任がゆっくりと盃に酒を注ぐ。
「さて、状況を整理してみよう。人間に害をなさないとはいえ、金縛りになるんだろう?そのあと、異形の女が水たまりから出現して但馬守をじっと見たあと、やがて元の場所に消えていく」
「気の毒に。ただ見つめるだけで悲しそうに瞳をふせて帰っていくうるわしき水の精。何か頼みごとがあるに違いない。私だったら何でもいうことをきくのに」
「まぜっかえすな。但馬守は土をケチッて、埋め立てるべき場所がこの初夏の日差しで干上がるのを待っていた。水際が、堰き止めた堤防から相当離れているということは、順調に干上がっているということだ。そして徐々に体が透きとおりはじめた異形の女・・・」
「・・・なんとなく整合するぞ。論理的だな公任。但馬守は水の精の透けぐあいだけを気にしてたけど、水たまりの干上がり具合と比例する。ということは、完全に干上がったときその気の毒な水の精は」
「・・・水たまりも、もうほとんど底が見えているしな」
「なるほど。ああ!いてもたってもいられないぞ。何とかしてさし上げようじゃないか。きっと毎夜毎夜、心細さと不安とで嘆いているに違いない。自分だけではどうしようもない運命のいたずらに、この身がはかなくなってしまうのをおびえているんだよ。白くきゃしゃなその両腕が、流れる美しいその髪が、次第に淡く透けていくさまは、たとえようもなく恐ろしい心地だろう。私が救いの手をさしのべないで何とする!」
「・・・・・・」
身もだえしながら一人芝居モードに入り始めた斎信を、公任は冷静に眺めていた。
やっぱり始まったな。
朝、蔵人の宿直所で、うるわしき水の精とかほざきだしたときから、何となくいやな予感がしていたんだ。こいつの、自分に酔いしれるクセにつきあっていられるか。
黙っている公任に賛同を求めるどころか完全に無視して、さらに斎信の自己陶酔は続く。
「はやく彼女の苦しみをとりのぞいてあげたい。そして不安におびえていた美しい瞳から涙が消え去ったとき、私の姿が瞳に映しだされるんだ。
『なんてお美しい公達さま。あなたがわたくしを助けてくださったの?』
『ご無事でよかった姫君。淡くはかないあなたもお美しかったが、やはり柔らかく抱きごこちのよさそうなこのほうゲホゲホ・・・いえ、失礼』
『あなたさまが救いの手を差しのべて下さらなければ、今のわたくしはありませんでした。この身はすでにあなたさまのものでございます』
『・・・姫君・・・』
水の神の呪縛から解放された水の精はもとどおりの生身の姫君になって、私の腕の中に飛び込んでくるんだ、えへー」
斎信はそう言いながら、両腕で己の体を抱きしめている。
公任はあまりの脱力感でめまいがしそうだった。
斎信の妄想はさらにエスカレートしたようだ。いつのまにやらこいつの頭の中では、高貴な姫君が魔物に魅入られて、とらわれの身にでもなっているらしい。ど阿呆め。
「はやく現われてくれないかな〜」
「・・・おまえの自己陶酔癖に、少将たちをつきあわせないでよかったよ」
空になった盃に酒を注ぎながら、公任はあきれたようにつぶやいた。


月明かりに慣れた目に、田舎風に小柴垣をめぐらした前栽が、ぼんやりと見える。風が涼しく吹いて、泉水の清らかな水音が心地よい。この屋敷が完成する頃には、虫の声も草むらに響き渡り、蛍も宵闇に濃く淡く光を放ちながら飛びめぐることだろう。池の水際の夜景もまことに美しいだろう。そんなことをぼそぼそと、とりとめもなく語って気をまぎらわす。紙燭ひとつの土の上だが、なんともいごこちがよい。この空間は、斎信の人柄が意識的あるいは無意識的に醸し出すもの。これに惹かれて自然と人が集まるのだ。公任も例外ではない。やはり斎信には、人を動かす魅力があると思っている。ただそんな、斎信のうれしがるようなことを面と向かって言ってやるつもりはぜんぜんなかったが。


やがて。
さきほどまでゆるやかに吹いていた川風が、いつのまにか止んでいることに公任は気がついた。月は相変わらずあたりを照らしているが、わずかに鳴いていた気の早い地虫たちの声がまったくしなくなった。公任が斎信を見ると、和やかだったその顔が、こわばったように一点を見つめて動かない。
あらわれたか!
直感で感じた公任は、斎信が見つめている方向にくるりと振り向いた。とたんに体が動かなくなる。これが金縛りか。指一本動かせない。声を出そうにも喉がしめつけられそうだ。なんだ・・・なにが出てくるのだ。あのほとんど干上がった水の中から。脂汗が額を流れる。公任は恐怖を感じた。
干上がりかけた水の中から、女の髪が現われた。胸が、手が、下半身が、徐々に水からぼうっと浮かびあがる。顔をあげた女が月明かりの中、こちらをじっと見ている。
女は唐風の不思議な衣装をまとっていた。それに、顔や手にびっしりと生えたウロコ。シロヘビのヒフのようだ。公任はおぞましさに吐き気を感じた。もう美人かどうかなんてわからない。気味が悪い。足がすくんで全く動けない。
そんな恐怖で腰を抜かした公任の横を斎信は通り過ぎて、異形の女のもとへ走っていく。公任は、ド肝をぬかれた。
おまえ、おまえ動けるのか!?なんで?
斎信は、うるわしき水の精(斎信スコープ)の前にひざまずく。うやうやしく。それはもうカッコよく。
「ようやく私の前に現われてくれましたね、可愛いかた。可哀想に、こんなにはかない姿になって。月明かりに溶けてしまいそうですよ。ああ、私はちっとも怪しいものではありません。そんなおびえた翡翠の瞳をする必要はないんですよ。なにがあなたを苦しめているのですか?たった今から私はあなたの忠実な下僕。あなたの嘆きを取り除くためだけに、私はここにいるのですから。ああついでにあいつもです」
斎信は美しく明瞭な声でそう言い、階の横で固まっている公任を指さした。
斎信の、状況にうっとりはまりたがるこの性質は、もう本当になんとかならんのか!かんべんしてくれ!
公任は舌打ちをした。とたんに金縛りが解ける。おどろいたが、とにかくありがたい。恐怖心に体が縛られてしまったんだろう。
「礼を言うぞ斎信。おかげで体の自由がきく」
そういいながら公任が走り寄ってきた。
異形の女の容貌も、もうあまり恐怖を感じない。結局は心の持ちようか。
まったくの平常心だった斎信に舌を巻く思いだが、・・・いや平常心じゃない、わけのわからないニヤけた妄想が、恐怖心に勝ったってことか。そんな理屈でもつけないと、やってられない公任だ。
「わたくしは水の精でございます。普段は賀茂川の上流に棲んでいるのですが、先日、この池の端で遊んでおりましたところ、いきなり土くれが降ってきまして、池が二つに分かれてしまい、賀茂川につながっている方の池へもどれなくなってしまったのでございます。助けを求めても、皆動けなくなるか気絶するばかり。そうこうするうちに、水たまりは次第に小さくなり、それとともにわたくしの体も・・・。
お願いでございます。どうかそこの池にわたくしを連れていってくださいませ。そちらに行きさえすれば、わたくしはもとの賀茂川に戻ってゆけるのです。完全に分断されたところを自力で歩いていくことは、性が水であるわたくしにはできないのです。よよよ」
しおらしく泣き崩れる水の精を見て、斎信はニンマリした。
「なんと。そのようなことでしたか。おやすいご用です。人間である私には雑作もないこと」
斎信は、水の精の背中と膝の裏に腕を回し、ヒョイと抱き上げた(いわゆるお姫様だっこだ)。
「さあ、落ちないように、私の首に手をまわして・・・そう」
人間の足ならほんの三十歩ほどのその距離を、しっかりとした足取りで、池の方に歩いていく。
「さあ、着きました。たった今出逢ったばかりなのに、もうお別れですか」
未練たっぷりにささやきながら、斎信はそうっと水の精を水面に横たえた。
女の姿が水面に溶け込む。しかしすぐに生き生きとした姿が現われた。
「ありがとうございます。おかげで生きかえりました。あなたさまが救いの手を差しのべて下さらなければ、今のわたくしはありませんでした。これは、ほんのお礼でございます」
差し出した斎信の手のひらに、十数個もの美しい小さな碧玉が残った。
「もうお会いする事はないでしょうが、感謝の気持は忘れません。さようなら」
水面に映る月が砕ける。あざやかな水紋を残して水の精は消えた。


「途中までは、不幸な姫君に救いの手をさしのべる若き公達だったんだけど」
「現実は、阿呆な妄想どおりにはならないさ」
牛車に揺られながら、斎信は本心とも思えないような芝居がかったため息をついていた。
「たいそうな記念品もいただけたことだし、まあよしとするか。・・・美しい細工物がつくれそうだ」
斎信は懐紙をそっと広げて碧玉を撫でる。玉どうしがころころと柔らかい音をたてて触れた。
「かぶら矢の装飾にしたらいい。流行ってるだろう?羽の下に水晶玉を通すのが。水晶のかわりにこの鮮やかな緑の玉だ。誰もまねできないぞ」
「いい思いつきだねえ。そういう美的感覚は、公任、おまえに聞くのがいちばんだな。つきあってくれたお礼に半分やろう」
「遠慮する。私はなにも手助けしてないからな」
「退屈しのぎに酒をもってきてくれたじゃないか。楽しかったよ。ホラ」
と公任の手の中に、なかば強引に丸い碧玉を押し込んだ。
「今宵の思い出に」
「男二人でどこが思い出だ。気色の悪いことを言うな」
「あいだに水の姫君をはさんだだろう」
「なにが水の姫君だ。おまえの自己陶酔癖には心底降参だ。私は恐怖で足がすくんで動かなかったのに、おまえときたら、女のもとに駆け寄っていっただろう。平常心にもほどがある。『千のほめ言葉をもつ男』の実力を今夜ほど感じたことはないぞ」
アハハハと笑いながら、斎信は残りの碧玉を懐紙に仕舞いこんだ。
「まだ少し酒が残ってるだろう?公任。飲みきってしまおうよ」


(おわり)


2003/6/5


 
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