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■ 小 夜 衣 ■


<その九>



対の御方に逢えない寂しさに耐えかねて、わざわざ御方の局に出向いた今上。その今上の目に飛び込んできたのは、つややかな紅梅襲の小袿に梅の唐衣と、華やかで清楚な着物に身を包んだ対の御方でした。
こんなにも美しく着こなしているのに、全く自覚していない当の本人はすっかりしょぼくれ、脇息にもたれてぼんやりしています。
先触れも何もない突然のお渡りでしたから、今上のお越しにようやく気づいた対の御方はあわてて一礼をすると、逃げるように奥に行こうとしました。けれど今上はそれを引き止め、御方の横に腰を降ろします。
「何も恐がる事はありませんよ。あなたがいやがるような振る舞いは決してしませんとも。世間の並みの男ならいざ知らず、無理矢理あなたの心の扉を開いて壊すような真似はしません。ただ、薄情なあなたを恨んで泣いている、哀れな男の話を聞いて下さったらいいのです」
と一言おいてから、
「一目惚れとはこういう気持ちを指すのでしょうね。しかし、私の立場上、表立ってあなたとどうこうできないのが悔しいです。私はいつだってあなたのことを考えているのに、あなたときたら本当にそっけない。かわいそうな男よと思っては下さらないのですか?どれだけ気位の高い姫君であろうとも、ここまでつれない素振りはしませんとも。こんな恋愛譚もあったのだ、と後世にも語り継がれるような恋をしてみたいとは思いませんか?」
と仰せになり、じりじりと間をつめてきます。
対の御方は、間近に見る今上が恐ろしくてたまらず、
「いいえ、いええ、そのようなお振る舞いをなさらずとも、周りの者たちはとっくに存じております。後宮のあちこちで上さまとこの私の事が噂になっているのです。私は恐ろしくてなりませぬ」
そう言うなり泣き出してしまいました。
「なんと。それは初耳ですね。何を証拠に、皆が当てこすっているというのでしょう。世の中のお手本になるべく日々努力している私を、皆が疑っているとは。愛しい人を目の前にして、こんなにもおっとり構えている男はそうそう居ないものですよ。それなのに…」
とささやきながら、さらに迫ってくる今上。
そのうち局の向こうから人声がしてきました。今上は、かたわらでわなわな震えている御方がかわいそうになり、局を出ようと立ち上がりました。部屋を見渡すと、小さい机の上に色とりどりの手紙がありました。その中に、梅襲のいわくありげな手紙が紛れています。手に取って見ますと、


あさかりし 色とうらみし 小夜衣 ふかくはたれか 染めまさるらん
(私との縁が浅いと泣いたあなた。今頃は誰と深い縁とはぐくんでいることだろう)


やはり意味深げな歌がかいてあります。
誰からの手紙だろう、この薫りといい筆跡の見事さといい、とても並みの貴公子のものとは思えない…今上は、手紙の主が誰なのか知りたくなって、じっと眺めていると、
「お許しくださいませっ」
と涙を浮かべた御方が大あわてで手紙を奪ってしまいました。
「やれやれ、あなたが冷たい理由がこれでわかりましたよ。


あさくこく なにに染むらん 小夜衣 いづれの色と いかでしらまし
(あなたはどんな色に染まっているのですか…染めた相手はいったい誰なのです)


…いったい誰からの手紙なのですか」
返答に困った対の御方は、


「あさきこき 色とも知らず うき身には 涙にくちし 小夜の衣を
(物の数にも入らぬ身にとって、浅いも濃いもわかりません。涙に朽ちた夜の衣…それだけなのです) 」


とだけ返しましたが、あせった様子の対の御方があまりに可愛くて、この期に及んでけしからぬ振る舞いをしてしまいそうな今上です。しかし外の人声は次第に近づき、今上はしぶしぶ帰途についたのでした。
清涼殿に戻った今上は、対の御方と既に想いを通わせている貴公子がいることはショックでしたが、
「私と対の御方の関係は、既に皆の知るところだったのか。それなら話は早い。もう隠しておく必要がないのだからな。そうとも、私は何をしても許される身なのだ」
とすっかり開き直ってしまったのでした。


一方、昼下がりの今上の訪問の一部始終を、息をひそめて見守っていた梅壺女御付きの女房達は、女主人の御前に参上して、口々に言い合いました。
「昼の間じゅう、ずうっと御方の局でお過ごしでした」
「やっぱり!よくも今まで知らなかったことよ」
女御の御乳母とも話し合い、今後のことも含めて女御の母君の今北の方に相談しました。
こんな事実を知らされて、今北の方が面白いはずがありません。
「誰もが振り返るような美人だから、後宮で浮ついた噂が立ちはしないかと不安でしたけど、よもや今上とは。才ある人だから、女御の母代わりとして、楽や手蹟の師匠として、頼みにもしていたのに。何不自由ない生活の恩を仇で返すとはまさにこの事」
按察使大納言の数人の妻のうち、一番愛されていたのはあの山里の娘の母親だったことを、今北の方は思い出しました。
「いつもあれの母親に嫉妬していた気がするわ…女御も、あの頃の私と同じ嫉妬心を抱いているのかしら。ああ、なんてお気の毒な」
継子のせいで、我が女御がみじめな気持ちで暮らしているかと思うと、かつての自分の苦労も思い合わせて、今北の方は山里の娘が憎くてなりません。
「内裏を下がらせて、山里へ追い返してしまおうかしら…いえいえそんなことをしても、今上と通じ合っていたとしたら、あの娘のゆかりの地を捜して、きっと連れ戻しなさるに違いないわ」
我が女御への今上のご寵愛も深く、たくさんの女房にかしずかれ、華やかに幸せに暮らしているものとばかり信じていたのに、これでは飼い犬に手を噛まれたようなものだわ、なんとかしなきゃ、と女御の御乳母からの相談を受けてから、今北の方はこのことで頭がいっぱいです。
あれこれ考え抜いた結果、ある決断をしました。
「そうだわ、私の乳母子の民部少輔(みんぶのしょう)に預けよう。信頼できる男だから大丈夫」
この民部少輔という者は今北の方の乳母子で、日ごろから親しく付き合い、今北の方の所有する領地などの管理も任されている者です。
今北の方は民部少輔とその妻を呼び出し、事情を説明しました。
「…ということなのです。ですからしばらくの間、その娘を預かってはもらえませんか。出入りなどさせないよう、きっちりと見張って下さい。気合を入れて監視してくださいね。うまくゆけば、お礼ははずみますよ」
と言い、特に民部少輔の妻に対しては、
「同じ女なら、この私の気持ちはわかるでしょう?夫が他の女に目を奪われる悔しさ。女御がそんな嫉妬の心に胸を痛めているかと思うと、腹が立ってどうしようもない、そんな女親の気持ちをわかってくれますわね」
涙ながらに訴えるので、民部少輔夫妻は断ることもできないのでした。



今北の方とその乳母子の民部少輔夫妻が対面したその夜、内裏近くに目立たないようにしつらえた車が停まりました。中から女が出てきて、対の御方の局へと忍んで行きました。
「大変なことになりました。山里の尼君さまの病状が悪化し、胸をおさえてたいそうお苦しみでございます。容態はいっこうに良くならず、もはやこれまでと見受けられます。『最期にひと目我が孫の姫に』とうわ言のように。お車の用意ができておりますゆえ、疾く戻られますよう」
対の御方はあまりの突然の出来事に声も出ません。慣れぬ後宮暮らしと山里恋しさにすっかり参っていたところへ、悪夢のような尼君危篤の知らせ。対の御方に否やはあるはずもなく、『尼君にひと目だけでも』の一心で、小侍従と右近をお供に泣きながら車に乗ったのです。
道中も一行は『早く早く』と気が気ではありません。ところが、こんなに気が急いているのに、車はなぜかまったく違った方向を目指しているようです。窓の外の見慣れぬ風景に、
「一体どうしたことでしょう。どこへ向かっているのかしら」
と右近の君が不安そうにつぶやきます。
まもなく車は知らない屋敷の門の前で停まりました。屋敷の中から若い女が出てきます。右近は車の中から女に向かって、
「これは一体どういうことですか。ここはどこなのですか。目的地は山里のはず。こんな見知らぬ場所に御方さまをお降ろしすることはできません。寄り道などせず、早く尼君さまのもとへ御方さまをお連れするのです」
と言い放つと、屋敷から出てきた若い女は、
「私も詳しい事情は知りません。お供の人々が『この屋敷に降ろすよう命ぜられました』と言うばかりで。とにかくお降りになってください。さあさあ、お早く」
と追い立てるように言います。牛車を寄越した女を問い詰めても、
「さあ、何がどうなっているやら。とにかく仰るとおり、ここで降りて下さい」
とあやふやな返事。
「おかしなこと。車で迎えに来た者も屋敷から出迎えた者も、理由がわからないのに『とにかく降りろ』だなんて」
「しかし、いつまでもここに乗ったままでは…やっかいなことに巻き込まれないよう、言われたとおりにしましょうか」
いかにも怪しい予感はしましたが、御方と右近、それに小侍従の三人は車から降り、若い女の先導のもと、屋敷の中に入りました。女は屋敷のずうっと奥の方まで進み、やがてわずかに灯りのともった薄暗い部屋に三人を案内しました。部屋の中は、几帳が置いてある程度。最低限の調度類しかありません。殺風景な部屋に、一同「これは一体どういうことなの」と、あっけにとられてしまいました。事態と理由がまるでわかりません。きつねにつままれたようです。三人は途方にくれ、ただ泣くばかりなのでした。
この三人の中でも右近の君は一番しっかり者でしたので、ひとしきり泣いた後、
「泣きながら少し考えたのですが、こんなことになってしまった理由がなんとなくわかりました」
と言い出しました。
「いつぞや、今上さまが姫さまの局へお見舞いに来られた際、女御さまの乳母子の小弁の君と鉢合わせしたことがありましたでしょう?ほら、小弁の君が御方さまのお見舞いに来たときのことですよ。ふらりと局へお立ち寄りになられた今上さまと鉢合わせしてしまって、とても気まずい雰囲気に…小弁の君は『お邪魔だったかしらね』なんてつぶやいて出て行ってしまって。それ以降ですわ。なんだか梅壺全体の空気が姫さまに対して険悪になったように感じたのは。最近特に監視されているような…それも、姫様が今上さまとご一緒の時、いちだんと他人のめくばせを感じますの。
ひょっとすると、今北の方さまに誰かが吹聴したのではないでしょうか。もっともらしく、今上さまとこちらの姫さまの、ありもしないことのあれやこれやを。これは私の推測ですが、梅壺側の女房からの報告に激昂した今北の方が、姫さまを内裏から連れ出して…でなければこんなおかしな寄り道なぞどうしてしましょうか」
これを聞いた対の御方と小侍従は、たしかに思い当たるフシがあるとうなずき合いました。
「今日は内裏を出よう、明日こそは内裏を退出しようと思い続けていたのに、愚かにも決心がつかなかった報いね…あの今上さまのご様子を、梅壺の女房たちが気づかぬはずないのに。とうに知られていたなんて。こんな誰も知らない屋敷に閉じ込められてしまって、なんて情けない我が宿世なのでしょう」
と言ったきり、対の御方は衣を引き被って死んだように呆然としてしまいました。右近の君と小侍従の君は慰めようもなく、対の御方の御髪を膝に乗せて、いつまでも泣き続けるのでした。
恐怖の一夜が明け、あたりは明るくなりましたが、開けられる戸口は一つもありません。
「やはり思ったとおりだわ」
一行は、軟禁されてしまった事実に絶望するのでした。
しばらくすると、昨夜この部屋に案内した若い女が現れました。
「ここはどこなのですか。尼君の病状はどうなっているのです」
と右近は女を問い詰めますが、
「私は何の事情も聞かされていません。ただ、『この屋敷に身柄を預かってもらいたい』との按察使大納言さまのことづけだけは、昨夜の車のお供の方々から伺っております。それでこの部屋に案内した次第でございます」
とそっけない返事です。まさか、どうして父君がこんなことを…一行はますますわけがわからず、途方に暮れてただただ泣くだけなのでした。