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■ 小 夜 衣 ■


<その七>



こうして、可憐な対の御方見たさに、毎日毎日せっせと梅壺に通いつめる今上。とうとうある日ガマンできなくなって、梅壺女御に訊ねました。
「ところで、奥に控えている女房…そう、あの竜胆襲(りんどうがさね)の女房ですよ。いつも目立たぬようにふるまって
控えめな人ですね。どういう素性の人ですか?」
他の女房たちのことを色々話した後なので、こう聞かれても女御は何も気づきません。
「さあ…何でも我が家に直接ゆかりのある御方だとしか伺っておりませんが」
女御の返答に、
(直接なゆかりが…そうか。とても並みの女房には見えないから、多分按察使大納言の妾腹の娘か親族の者か、そういった縁故なのかもしれない。しかしそれならそれで、こちらの娘を入内させればよいものを。私はそれでもぜんぜん構わないぞ。いやむしろそっちのほうが…うーん、きっと大納言の北の方が、実の娘を入内させたかったんだろう)
今上は、対の御方が何も恥じることのない素性の者だと推測すると、積極的に側に召し出させ、何かにつけてお相手させようとします。けれど対の御方にとって、そんな晴れの役はただただ恥ずかしいだけ。ひと目にも気をつかい窮屈でたまらない後宮暮らしに、山里住まいだった頃が懐かしくてなりません。
(田舎者同然のこの私が宮中で過ごしていることを、東雲の宮さまはいずれお知りになるに違いないわ。宮さまは毎日内裏に出仕なさっているのだもの)
ついこの前まで山里の古びた家に住んでいたのに、今は大きな御殿と大勢の人に囲まれて…もともと控えめな人なだけに、生活が一変して、生きてゆくのも憂鬱に感じる対の御方です。ひっそりした山里が恋しくて、心の中では毎日泣きたいくらいなのに、あいだも置かないほどの今上の執拗なお召し。お召し、と言っても、話し相手や遊び相手なのですが、清涼殿へ参上する回数があまりに頻繁だと、他の女房たちにおかしな目で見られてしまいそうです。
こんなに参上を命じられてばかりだと、今北の方がなんておっしゃるだろう…と本当に人目を気にしてばかりの毎日です。うっかり人に相談する事もできません。
そんな対の御方の困惑も知らず、今上は次第に恋心を募らせはじめたようです。時おりもらす胸のうちを、まわりの女房たちは一体どんな好奇心で聞いているのかと思うと、対の御方は恥ずかしくて不気味で、心の晴れる日もありません。相手はなにしろ時の帝。誰にも相談できず、
ただただ何も気づかぬフリで過ごしてゆくしかないのでした。



「今上は熱心に梅壺にお通いだそうな」
「さぞかし美しい女御なのでしょうな」
「日がな一日梅壺でお過ごしらしい。按察使大納言殿も大喜びらしい」
「昼に女御をお放しにならぬのなら、夜はいかほど」
「さあ、そこはそれ、言わずもがな、というではありませぬか」
世間は、今上が新女御をたいそうお気に召されて、昼も夜も手放さない、とうわさしています。それを耳にした東雲の宮は、
「そうか。按察使大納言の姫はそれほど魅力的なのか。しかしあの小夜衣の姫にはとてもかなうまいよ。まてよ、ひょっとして大納言の気が変わって、小夜衣の姫を入内させたのなら、このうわさにも納得がゆく。いや、それとも、今北の方が女御の付き添い人にでもさせているのかな。それなら今上が昼に梅壺に通いづめというのもわかるが…
ああ、いったいどれなんだ。どれにしても、あの姫をひと目見たなら今上の目は釘付けになるに違いないんだ」
もし小夜衣の姫が今上の御目に触れていたら…と想像するだけで、胸がせきあげられそうになる東雲の宮です。
どうしても事情をはっきりさせたくて、ある昼下がり、姉君の中宮のもとへ参上しました。東雲の宮の姉君は、今上の中宮なのです。
対面した中宮はいつもながら若く美しく、とても今上の一の皇子(東宮)をお生み申し上げたようには見えません。
(新しい女御は、この中宮よりも美しいのかな。いやそんなはずはあるまい。しかし、もし小夜衣の姫の美貌に今上が目をとめられたとしたら…)
対面したまま、すっかりしょげている弟宮に向かって、中宮は、
「久しぶりにお話ができると思って、とっても喜んでおりましたのに、どうなさいましたの?少しお痩せになられました?お顔の色も少し…」
とおっしゃいます。
「特にこれといった理由もないのですが、最近すっかり世間にまじって生きてゆくのがつらくなりまして。俗世を離れたいという思いを持て余しています。ほんの少し家を離れても心配する両親が気の毒で、その気持ちだけで踏みとどまっているようなものです。しかし、その気力もいつまでもつことやら」
「まあ…心細いことを仰らないでくださいまし。たとえ大勢子供がいたとしても、絶えず心配するのが親心というもの。ましてや、私が家を離れた後、あなたは一人息子のようなものでしょう?孤独を感じず生きる希望がわくようにと、一番立派な後見を持つ姫君との結婚を取り決められましたのに、それでもあなたの御心にかないませんの?
もし、ひそかに想う姫がおありになって、その姫が忘れられなくてつらいとおっしゃるなら、こちらでこっそりかくまう事も考えますが…あれこれ考えすぎて、あとで取り返しのつかないことになったら、どれだけ後悔しても遅いですわ。早めにご決断くださいませね」
「ありがとうございます。それはそうと、中宮には、このたび今上のもとに上がられた新女御のお話はお耳に届いていますか?なんでも、夜はおろか、昼さえ片時も離さないほどのご寵愛ぶりだとか。よほど教養に長けた美しい女御なのでしょうね」
東雲の宮の質問には、そばに控えていた女房が答えます。
「そのことについては面白いお話がございますよ。
確かに今上は、昼間は一日中梅壺でお過ごしですが、夜に梅壺女御を清涼殿にお召しになることは、そんなに頻繁でもありません。
実は、今上のお目当ては女御ではなく別の御方にあると、女房たちの間ではもっぱらの噂なのでございます。女御の母君が自分の代わりにと、付き添いに残してゆかれた『対の御方』という女房が、どうやら今上がご執心なさっておられる人のようです。この対の御方という女房、いまどき珍しいほどの引っ込み思案な方で、めったなことでは人前に出たがらない恥ずかしがり屋さんのようですのに、琴や琵琶は天にも昇る妙音を奏で、今上に『これほど見事な音は、今まで聞いたことがない』とため息をつかせるほどの腕前だそうですわ。
いかがでございます?宮さまにもお心当たりのあるお話ではございませんか?」
「なるほど…そうか、そういうことでしたか。ええ、そうです。たしかに私のよく知る人は、雲に届くような爪音の持ち主です」
中宮の側近女房の話では、どうやら梅壺女御の付添い女房が、探し求めていた小夜衣の姫らしい、との事。女御の母君代わりにあてがわれ、後宮では対の御方と呼ばれているようなのでした。
(ああ、こんな近くにいたなんて。だが、梅壺には何の縁故もなし、近づいて確かめるすべがない。おまけに、今上がご執心なのは梅壺女御ではなく、付き添いとしてそばにいる小夜衣の姫だったとは。あれほど可憐な容貌を目の当たりにしたら、男なら誰だって夢中にならずにはいられない。
それに姫のほうだって、あれほど御立派な今上の御姿を拝んだら、私の存在などかすんでどこかへ飛んで行ってしまうだろう。もはや、忘れられたに決まっている…)


袖の上の 涙のかずは つもるとも ひるよもあらじ 逢瀬絶えなば
(袖の上の涙は積もりこそすれ、乾くことなどないだろう。愛しい人との逢瀬が絶えてしまったのだから)


と袖に顔を押し当てて、絶望の涙を流す東雲の宮でした。
あんな寂しい山の中の家で、ただひたすら自分の訪れを待ち続けていてくれた姫。
空しく過ぎる夜の繰り返しにも、耐えるしかなかった姫。
間遠な自分の態度が、愛の誓いの言葉を忘れさせたのか。
申し訳が立たぬほどの薄情さに、姫が去って行ったとしても、どうして文句が言えようか。


おもふには 人のつらさも なかりけり 我が心より かはる心を
(よく考えてみると、愛しい人に薄情さなどないのだった。私の薄情さが原因で、それであの人も変わってしまったのだから…)


晴れ曇る空をつくづく眺めながら、つらい事実に打ちひしがれる東雲の宮。なんと思いどおりにゆかぬ世の中よ、と涙はとどまることを知らず、策を立てようにも、もはや手遅れなのではないかと思っただけで恐ろしくてなりません。
「今上があの姫に興味を持っている、そんな程度ならまだよいが、これが寵愛に変わってしまったら…」
そう考えただけで、気が狂ってしまいそうな東雲の宮でした。



それ以来東雲の宮は、前にも増して小夜衣の姫のことばかりを考えています。自分が今いる宮中で、同じ空気を吸って暮らしている、と思うと、それだけで心は千々に乱れます。
この複雑な想いを、山里にいる尼君に訴えてみようか…ある日東雲の宮はそう決心して、洛外へ出かけました。
山松風のもの悲しさも鹿の鳴く声も、何もかもが宮の涙を誘います。懐かしい記憶ばかりの山里の家にたどり着き、やつれた尼君と対面する東雲の宮。
「このような形で再び尼君に面会しようとは思いもしませんでしたが、もの思いに魂が身体から離れていってしまいそうです。せめて尼君に、あの姫の形見としてお目にかかりたい、そう思って、おめおめとここまでやって来た次第です」
宮の憔悴しきった様子に、尼君ももらい泣きしてしまいます。
「身の程もわきまえずに申し上げることをお許しくださいませ。それほど後悔なさるのでしたら、なぜあの頃、姫をほったらかしになさったのですか。誠意を見せては下さらなかったのですか。姫が今どのような暮らしをしているのか、今初めて耳にしました。確かにあの姫は、雲間に宿る月の光のような風情、こんな山里で朽ち果てるような運命の持ち主ではございませんとも。
はるか昔に内裏の空気に慣れ親しんだとはいえ、こんな老いぼれが申すのも失礼なことでしょうが、なんの予備知識もなく、いきなりあのような気苦労の多い女御のもとへ放り込むのはあまりにお気の毒。息の詰まるような毎日に、姫はきっと病気になってしまいますわ」
姫を後宮に押し込む云々は、宮ではなく、本来なら父君である按察使大納言に訴えるのがスジというものでしょうが、ものの言い方がたいそう雅びで、かつての花形女房ぶりが偲ばれます。
何て情けない殿方よ、となじられたのも同然の宮ですが、言い返す言葉も見つかりません。
「何とも弁解のしようもありませんが、私の結婚の経緯については、私と小夜衣の姫の間を取り持った宰相の君もよく存じているはず。あの結婚は親同士が強引に決めた、まったくもって不可抗力のものだったのです。小夜衣の姫に恋焦がれる苦しさなど、誰の前でも見せられません。それがどんなにつらいことか。気の毒に、と気遣ってくれる人など私の周りには誰一人いません。苦しい思いで不本意な結婚に耐えているというのに、突然山里を降りる決心をなさって、今は何もかも恵まれた後宮でのお暮らし。その上、今上のおぼえもすこぶるめでたいとか。そんな開けた運命が待っているのなら、こんな数ならぬ身の私を見捨てたのも納得が行くというもの。そのことについて、今さら恨んだりどうこういうつもりはございませんが、私の真心…姫を心から愛する気持ちだけは、この私自身の口から訴えなければわかっていただけないと思って、重い足を引きずり引きずり、はるばるこちらまで参った次第なのです」
切々と訴える宮の風情に、悲しみはいっそう増し、お互い涙があふれて止まらないのでした。
「あの姫が後宮住まいなど、にわかには信じられませんが、他でもない宮さまのお口から出た御言葉ですので、真実のことでございましょう。
てっきり父君のひざもとで、穏やかに暮らしているのだとばかり…おいたわしいことですわ。宮仕えはおろか、多くの人との交わりなどしたことすらない姫ですのに、どれほど窮屈な思いですごしているか。心配でなりません」
「いえ、それが、あれだけ気の張る後宮でも、なかなか評判がよろしいようなのです。特に琴の音色に関しては名人の域だとか。恐れ多くも今上までもが、姫の奏でる爪音を誉めそやしておられます。
どうしてここまで上手になられたのか、それに、師匠のあなたさまはどなたに学ばれたのでしょう」
「人さまのお耳に留めていただけるような、そんな音色があるわけではございません。山里暮らしは子供にとってあまりに退屈。その気晴らしにと、私がつまびく琴の音を真似して遊んでいたようです。幼い頃から、わざわざ手をとって教えたこともございません。勤行の毎日に、心の余裕すらなかったものですから…。私自身も、名のある御方に教えていただいたわけでもありません。周囲の皆さまの弾き方を、見よう見まねで覚えただけでございます。褒めていただくようなものは…」
「本当に、いまだかつてないほどの琴のひびきなのですよ」
あれこれ話し込んでいるうち、次第に夕暮れの時刻が近づいてきました。東雲の宮は重い腰を上げて帰り支度をします。


尋ねくる かひなき軒の 忍ぶ草 ぬしなき宿ぞ いとど露けき
(尋ね甲斐のない宿に生える忍ぶ草よ、主なき宿は、ますます露に濡れて…)


そうつぶやく宮への、尼君の返し、


もろともに 住みこし人を 忍ぶ草 涙の露の おかぬまぞなき
(住みなれた主の姫を想って、忍ぶ草に露がおかれるように、私もいつも泣き濡れています)


古びた軒の忍ぶ草を眺めながら、歌を交わす二人なのでした。


陽が沈む時刻にはまだ少し間がありますが、月はそろそろ山から顔を出し始めています。木漏れ日が宮の立ちつくしている足元にくっきりと差込み、木立を吹き抜ける風が枯れ葉を落としてゆきます。
秋の木漏れ日も枯れ葉の舞う音も、こんなに悲しいものだったとは…と最後に逢った時に姫が見送ってくれた妻戸に目をやると、姫の姿がありありと思い出され、宮は声を上げて泣いてしまいました。
京に戻る道中も姫の姿が頭から離れません。
(生木を引き裂かれるような気持ちでいつも別れたな…結局、私は姫に見捨てられたのか。生きていて、こんなに悲しい思いをするとは。
思えば、こんな山の中の小さな家で、目にする人といえば老いた尼君と数人の女房のみ。若い女ならば誰しも、華やいだ後宮のほうがいいに決まってるさ。おまけに、今上が自分にご執心らしいと聞けば、もう以前の寂しい暮らしに戻ろうなんて考えもしないだろう。今上でなくとも、可憐の一語に尽きる姫をひと目見た男なら、誰だって夢中にならずにいられない。そんな男たちに囲まれて、私とのことなんてきっと忘れたに決まっている。その証拠に、たったひと下りの手紙さえ寄越して来ないじゃないか。本当に忘れていないのなら、ここまで無関心なんてありえないよ…)
自虐的な言葉が次々と頭に浮かんでくる東雲の宮。いっそ姫を憎めたらどんなに楽か。けれど姫との逢瀬、可憐な風情を思うとどうして憎めましょう。どれほどみじめな気持ちに襲われても、姫を嫌ったりすることなどとてもできない宮なのでした。



さてこちらは、対の御方(小夜衣の姫)にすっかり心惹かれてしまった今上です。
ずいぶん長い間ひと目を気にして、ふるまいに気を使っていた今上でしたが、最近はその気持ちも持て余し気味、抑えきれない恋心にイライラする毎日です。
あの人にもう一歩踏み込んだらどうなるだろう。私はそれが許される身分なのだから。だが、恋心と権力をちらつかせて、嫌がるものを無理にどうこうしたくはない。やはり、あの人も私と同じ気持ちになってもらいたい…
意外と純情な今上です。ですから、なんとか対の御方の気持ちがほぐれるような雰囲気をつくったり、冗談めかしてお話したりするのですが、ちょっとでも今上がお気持ちをほのめかすようなそぶりを見せると、言葉の意味がよくわからないと言うようにするりとかわしてしまい、とりつくしまもありません。
逃げれば追いたくなるもの。今上は、いよいよ募る恋心を、その辺に散らばっている手習いの中に歌をさりげなく紛れさせ、対の御方だけが気づくようにしました。


見る人も あやむばかりに 濡れにけり つつみかねたる しのびねの袖
(周りの人も気がつくほど、私の袖は涙で濡れていますよ。隠し切れないあなたへの恋心のせいでね)


「返事はいただけないのですか?」
その問いかけに困惑する対の御方。今上にしつこく胸中を告白されても、どうお返事すれば丸くおさまるのかまったくわかりません。ですから、ただ何事も気づかぬフリで過ごすよりほかないと思っています。ただ、いったん恋情を告白してからは、せきが切れたように、何かとスキを伺っては思慕を訴えてくる今上に、
「女御や周りの女房に、どう思われているのかしら…」
とそれだけが憂鬱な対の御方です。
そのうえ、山里から連れてきたなじみの女房などが、
「東雲の宮さまが、先日尼君を訪ねて行かれたそうですよ。こんなお話をされたとか」
とこっそり耳打ちしてきて、
「ああ、とうとう宮さまに知られることになってしまったわ。どうしてこう世間の目って、隠し事を許してくれないのかしら」
とますます気が滅入る対の御方です。
(大勢の人と華やかに暮らしても、いつだって人の顔色を伺い、孤独を感じていたわ。ここに居ると自分がどんどんみじめになって行く気がする…。
もうこんな気詰まりばかりの後宮暮らしはいや。お父さまのお屋敷もいや。山里の家に帰りたい。懐かしい山里に戻りたい…)
山深い家にこもってしまいたくなった対の御方です。「尼君の病状が気になって…」とか何とか言い繕って戻ってしまおうか、など色々理由を考えていましたが、何も言い出せないまま、そのうちに十一月の新穀祭の季節になってしまいました。宮中は、五節の舞姫の奉納など、儀式の準備で何かとにぎやかな雰囲気です。
「あの山の家は手軽に行き来できるところではないし…。それに後宮に慣れてしまった女房たちは、ここを離れて、また寂しい暮らしなんてしたくないに決まってるわ」
なかばあきらめてしまった対の御方なのでした。