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■ 小 夜 衣 ■


<その五>



毎日が憂鬱でならない東雲の宮は、どうしても新妻である二の姫につれない態度に出てしまうのでした。親の顔だけを立てた、その程度の妻…関白家の二の姫をそんな扱いにしてしまうのは失礼極まりないことなのに、今の宮にとって二の姫はとてもうっとうしい相手。両家の親へ気兼ねするのも面倒で、言えない不満もたまる一方だったのです。
気の毒なのは二の姫です。冷淡なふるまいしか見せない夫に、
「こんな冷たい態度なのは、みんな私がいたらぬせいなのかしら。身分のいい者は、すべて心ひとつに納めて我慢するというものらしいけれど、私は…」
と嘆いて、東雲の宮が婚家の関白邸を訪ねても、対面を渋るようになってしまいました。宮は宮で、いやだいやだと思いつつ来訪し、姫は姫で情けない思いはしたくないと対面を拒否。こんな堂々巡りが続き、新婚の夫婦はますます疎遠になってゆくのでした。
「ずいぶんな扱われようですね。わが身のつたなさが思い知らされますよ。まあ、対面する気にもなれない夫の顔なぞ、もうお忘れになっていらっしゃるかもしれませんがね。それでも足繁く妻の家に通う私の愛情は、全ての人が察してくださるでしょう」
たまに対面すると、そんないやみを言ってしまう東雲の宮。見ると妻の二の姫は、薄くしなやかな紅の打ち衣十五枚ほどに紫苑色の御衣、萩襲の小袿に葡萄色の極上の唐衣を華やかに着こなしてらして、いかにも後見のしっかりした上流階級のお姫様ぶりです。山里の家でくたくたに萎えた衣裳を着た我が恋人とは、比較にならないくらいの豪華さなのでした。
二の姫は東雲の宮より二つほど年上ですので、宮が気後れしてしまうような気高さがあり、女性としても今が盛りの華やかさでしたので、宮も、
「欠点のない人とは、こういう女性を言うのだろうなあ。本来ならば、何も不満なぞあるはずないのに、私の態度がつれなさすぎて、夫婦仲がこんなにこじれてしまった…」
とよくわかってはいるのですが、その一方で小夜衣の姫の、触れなば落ちん風情、清楚でいじらしく、どこまでも柔らかな物腰の、あの可憐さを思い出して仕方ないのでした。心に思い浮かべるだけで涙がこぼれそうになるのですが、誰かに見咎められてはと、こらえなければなりません。けれど、おのれの心をごまかして取り繕い続けるのも苦しいこと。東雲の宮は次第に自邸にこもりがちになり、毎日が憂鬱になり…こんな悪循環が、もう長いこと続いているのでした。
二の姫の父である関白は、なんとなく溝のできてしまった我が娘夫婦が心配でなりません。けれど、白鳥が舞い降りたかのような美しい背の君の姿を見るにつけ、
「まれなお越しは確かに恨めしいが、このようなすばらしいお方を娘の婿とお呼びしてかしづくのは、娘を持つ親として果報者だと言えよう」
と不満も忘れ、東雲の宮をあれこれとお世話するのでした。



一方、山里の方でも、東雲の宮からの近況を知らせるお手紙は絶えることなく続いていますが、宮自身が山里に来るのはごくごくまれになってしまいました。お仕えする女房たちが、
「だから殿方の甘い言葉なんて当てにできないのよ」
と陰で言い合っているのを聞いて、小夜衣の姫はつらくてなりません。
誰のせいでもなく自分のせいで、独り寝の衣を涙で濡らして、涙で衣も枕も浮かんでしまいそう。姫は、
「人を苦しい思いにさせるのは、やはり人なのだわ。幼い頃より母に死に別れ、世捨て人同然のお祖母さまを頼りにして、どうにかここまで生きてきて…退屈でわびしい年月だったけれど、悲しくはなかった。
けれど、つれない人を好きになって初めて、心底この世をつらく哀しいものだと感じるようになってしまった…」
と嘆きます。それは、宮のつれなさがどうのこうのではなく、自分が安心して身を置ける場所がこの世にないのかも、という絶望感なのでした。
追い打ちをかけるような秋のもの寂しい風が、萩の花を揺らして通り過ぎてゆきます。心細さは例えようもありません。


萩の葉の 風さへ今は つらきかな こととふ人も たえし軒端に
(萩のやさしい上風さえ今はつらく感じる。訪ねて来る人もいない宿に住む私には…)


ともの思いに沈んで過ごしていると、秋の夕暮れの茜色に染まる景色が目の前に広がり、木の葉を散らす風の音がどうしようもなくもの悲しいので、小夜衣の姫は、おのれの身の上や来し方行く末を思いやられて、いつまでもそのまま端近で外を見つめているのでした。もの思いにふける姫は、それはそれは清楚で美しく、白い御衣にはらりと寄りかかってる髪のしなやかさなど、乳母などはつくづく見つめて、
「なんて見事なことでしょうね。今をときめく関白殿のお姫様だって、とてもうちの姫さまには叶いっこありませんよ」
とため息をつきます。乳母のつぶやきをそばで聞いていた右近という女房が、
「あら、関白家の二の姫は美しさはほどほど、たいしたことないと聞いていますわ。だからこそ東雲の宮さまも期待はずれ、自分にふさわしい妻ではなかったとがっかりされているのでは?
おまけに婚家の監視の目がきびしくて、なかなかこちらへ来られないというんじゃ、宮さまもお気の毒ですよ」
と答えます。他の女房たちも、
「でも宮さまの仕打ちはひどいわよね。うちの姫さまにだって、最初っからもの思いさせ続け。ものの数にも入らない身分のわたしたちだけど、ちょっと文句の一つも言いたくなるわよね」
と口々に言い合っています。女房たちの罵りあいを聞いて、小夜衣の姫は顔から火がでるほど恥ずかしく、耳をふさいだまま奥に引っ込んでしまったのでした。



さて、今度は小夜衣の姫の父君である大納言の話です。
大納言殿は、今北の方との間にできた娘の入内の準備に忙殺されていましたので、それ以外のことに関われる時間がなく、長い間、前妻との間にできた娘が住む、この山里を訪れる余裕さえなかったのでした。
それでも、すっかりご無沙汰になった山里が気になって、本当に久しぶりに、用事のついでに立ち寄ることになったのです。
以前訪れた時とはずいぶん家の様子が違って見えます。それはそうでしょう、時の帝の兄君であられる冷泉院の御曹司(東雲の宮)がお通いになっているのです。荒れ果てていた家もていねいに修理し、雑草だらけの庭もきれいに刈り込み、遣水や庭石も趣き深く作り直されていたのでした。家に一歩入り込んだ大納言は、うっかり上流貴族の瀟洒な山荘に間違えて足を踏み入れたのではないかとびっくりです。
家の中の女房たちは女房たちで、庭の外に大勢の狩衣姿の殿方が見えるので、てっきり久しぶりに東雲の宮がお越しになったのかと嬉し涙を流して大騒ぎしている者もいます。
家の中の騒ぎが一段落したあと、病床の尼上が大納言と対面しました。
大納言は、すっかり疎遠になっていたことを詫びつつ、互いの近況などを語ったあと、話のついでのように、
「しばらく見ないうちに、この家もびっくりするくらい改築されましたな。一歩踏み込んだとき、どこのやんごとない御方の隠れ別荘かと驚きました。一体また、どんな事情でここまできれいに修理なさろうと?」
と、尼上に尋ねました。
「ええ、先ごろ私の病状が悪化いたしまして、今日明日の命かと覚悟した折りに、これが最期の挨拶になろうかと、弟の僧都が奈良からやって参りまして、
『あなたの亡き後、姫がこのあばら家に置き去りにされて、そのまま朽ちてゆかれるのもあまりにお気の毒』
と哀れんでくださいまして、姫のために何とか人目に耐えられるように改修してくださったのです。ありがたい配慮です。これも仏のお導きであろうかと思っております」
と適当にごまかす尼上。
尼上の弟君は、南都(奈良)第一の高僧との評判で、霊験あらたかな祈祷には内裏や院でも信頼を寄せており、また人格者として宮中でもよく知られた方でした。
「なんとまあ、病に臥せっていること、まったく存じ上げませんで…うちで召し使っている少将や侍従などの女房どもは、こちらに参上しないのですか?いつもお伺いするようにと言ってはいますが」
この山里の事情に関心が薄いのを言いつくろうような言い方です。そのあと、大納言は几帳を押しやって、しばらくぶりの我が娘と対面しました。長い間捨てておいた我が娘は、光り輝くような可憐な姫に成長していました。
(放置しておいてこんなこと言うのもなんだが、すばらしく美しい姫に成長しているではないか。この風情、この容貌ならどこに出しても恥ずかしくない。たとえ今上のおそばであっても…そうだ、この姫なら入内すれば今上の御心をとらえられるに違いない。ああ、この姫と比べれば、我が自邸でお后教育している姫のなんと凡庸なこと)
大納言は小夜衣の姫を見ながら、自分が今まで入内だ根回しだと奔走していた我が家の姫が、帝に差し上げるには役不足、いかに魅力がないかを思い知らされたのでした。
尼上は訴えます。
「姫が幼いうちなら、こんな辺鄙な場所にお隠ししてても仕方のない事だと思うておりましたが、私も今日明日をも知れぬ命となりました。そんな呆けた老人と一緒に暮らしていても、姫のためにはなりますまい。姫が一人前になるのはいつになることやらとそれだけが気がかりで、後世の妨げにもなりかねません。どうかお願い申しあげます。姫をそちらの屋敷へお迎えしていただけないでしょうか。大納言家の息女として、しかるべき待遇していただきとう存じます。私ももう永くはありません。大納言さまに姫をお返しできましたら、残り少ない命を後世のために使いたいと思います」
「いや、私とて屋敷に姫を移して、朝夕世話したいのは山々なのです。何と言っても血のつながった我が娘。しかし、幼いときより尼上の着物の裾から離れず育った姫となれば、離れ離れになるということが心労につながりますまいか。日々の忙しさにかまけて訪問などもおろそかになっていますが、ずっと心配申しあげているのですよ。その真心が、こちらの方々に伝わっていないのが情けなくて…」
意味不明な大納言の言い訳ですが、要は、
『姫を引き取りたいけど入内の準備でそんな暇はないし、今北の方を抑えておく自信もない』
ということです。それを、
『尼上と離れるのは姫にとって堪えがたい事。むごすぎる』
とすり替えているあたり、あちらにもこちらにもカドを立てたくないという保身や打算が見え隠れしています。おしまいには、
『父である私の真心が伝わらないとは情けない。ああ憂き世の中よ』
と逆ギレです。
直衣の袖から顔もあげずに泣く父君を見ていた小夜衣の姫は、父君が親身になって私のことを心配してくださっている、と純粋に信じ込み、うつむいて静かに泣いていました。そのいじらしいしぐさに父大納言はたいそう心を打たれ、実の父親としてこのまま放っておいてよいのか、いややはり北の方の怒りも恐ろしい…など迷いに迷って、涙でますます袖が濡れていくのでした。
その後、姫の父親と祖母君は、今後のことを話し合って、日も暮れ始めた頃、ようやく父大納言は帰途についたのでした。


都への帰り道でも、大納言は姫のことをずっと考えていました。ちょっと見ない間に本当に美しく成長していた我が娘。露をたっぷり含んで朝日に輝く女郎花のような、清楚でみずみずしい様子は、姫の亡き母君がそのままそこに居るかのようでした。
「かつては熱心に通って、子までなした縁の深い女。無関心をきめこんで、このまま姫を放ったらかしにし続けていれば、憎まれても恨まれても言い訳できぬなあ」
なんとか良いようにしてやりたいのですが、問題は大納言家を仕切っている今北の方です。
ある日大納言は、山里の家を訪ねたことは内緒にしたまま、
「あの山深い家の老尼に預けたままの姫はどう過ごしているのかと、最近気になって仕方がないのだが。いつになったら実の父親が呼んでくれるのかと、けなげにも待っているに違いない。姫の将来を父親が知らんぷりしたままなのも、世間の聞こえが悪いだろう。
そこら辺りのことを、そなたはどう考えておられるかな?」
と思い切って相談してみました。すると今北の方は、
「んまあ、ちょうどわたしもそのことで頭を悩ませていましたのよ。あなたの方から切り出して下さって、本当にうれしゅうございますわ」
と妙に目を輝かせています。
実は、今度入内させる姫の女房で、それなりの格を持った女房がまだ不足していたので、今北の方は、小夜衣の姫を女房として、入内する我が娘に召し使わせようと思いついたのでした。
今北の方は、自分の思惑は黙ったまま、
「寂しい山の中で、どれほど心細く過ごしてらっしゃるでしょう。お気の毒なことですわ。この邸にも同じ年頃の姫はいますし、きっと退屈もまぎれることでしょう。良き日取りを決めて、こちらへお迎えして差し上げましょう」
なんと珍しいことに、今北の方が上機嫌で引き取りたいと言っている…大納言は、今北の方の気が変わらないうちに、大急ぎで日取りを決めて、小夜衣の姫を邸に迎える準備を始めました。
山里の尼君にもその旨を伝え、尼君は姫に、
「姫。こんな老尼のもとにいつまでもいるから、『たいした身寄りもない』と殿方に侮られてしまうのですよ。東雲の宮さまのおあしらい方がまさにそう。きちんとした親のもとで育っていれば、東雲の宮さまだってここまでひどい扱い方はなさいませんとも。宮さまを待って待って待ち続けて、大納言家の姫がこんな寂しい山の中に暮らすのも、たいそう人聞きの悪いことですし、ようやくお父上さまがお屋敷にお迎えしてくださることになりました」
と伝えたのでした。
父君のおそばで暮らすのはうれしいけれど、お祖母さまと離れて暮らすのは不安だし、何より、東雲の宮さまからのお便りもお越しも、今以上に難しくなってしまうのかも…小夜衣の姫は、それを考えると悲しくて仕方ありません。ひっきりなしにやってくる愛情あふれるお手紙の数々。父君のお屋敷に迎えられたら、もうお手紙すら取り次いでいただけないかもしれません。小夜衣の姫は、いっそのこと東雲の宮に事情をすべて打ち明けようかと考えましたが、
「そんな、宮さまの顔色を窺(うかが)うようなマネは恥ずかしいわ…それに宮さまは関白家のお婿さまとして、今まで以上に重々しい身になってらっしゃる。いっそ私など行方知れずになったほうが宮さまも気が楽になるかもしれない。そう、いなくなった方が、きっと宮さまの心の中に美しい記憶として残るはず。そうして、ごくたまに懐かしく思いだしてくださるのなら、それのほうが幸せかも…


しらせても かひあるべしと おもはねば 涙の海に 身はしずめつつ
(知らせたって、きっと何にもならないわ…ご迷惑がかかるだけ。私が涙の海に沈むだけ) 」


と胸いっぱいにあれこれ悩んでいます。
端近に出て外の景色を眺めると、色づき始めた木の葉を揺らして秋風が木々の間を通り抜けていきます。この端近で二人並んで過ごしたあれやこれやが哀しく思い出されて、小夜衣の姫は父大納言邸へ移る決心がなかなかつかないのでした。
「お祖母さま、私、やはりお祖母さまと離れて暮らすなんて…物心つくかつかないかの幼いときから、お祖母さまにすがって生きてまいりましたのに。これから先、大勢の見たこともない人たちの間で、どうして暮らしてゆけましょうか」
小夜衣の姫は泣きながら訴えます。
「あなたの成長が私の生きる希望ですのに…好き好んであなたと離れたいなど誰が思うものですか。ただね、私の病状がこれからもっとひどくなって死んでしまったら、あなたはこの小さな家にたった一人ぼっち。どうして一人前の大人になれましょう。ようやく実の父君が本腰を入れて、あなたをお屋敷にお迎えする気になってくださったのに、今お断り申しあげたら次はいつになるやら…。
ただひたすらあなたの将来のために、強いてお別れする決心をしたのですよ。かわいい姫や、それを察してくださいね」
心を強くもって諭す尼上も、袖を押し当てて泣いています。


逢えなくなって、どのくらい経つのかな…と、東雲の宮は今夜も独りもの思いにふけっています。「今宵こそ」「今宵こそは」と毎日思っているのですが、両親に知られてやっかいなことになるのも鬱陶しい、だからと言って、心から愛する女を打ち捨てておくのは男としてどうかと恥ずかしくなり、ある日の夕暮れ、ようやく意を決して、洛外の山里の家へとお出かけになったのです。


空は高く澄み、風の吹き方も早や晩秋を告げるかのような激しさ。茜色に照り映える木々を眺めながら、「…いかがお過ごしだろう」と小夜衣の姫のことばかり考えて馬を歩ませる東雲の宮。
一方、宮に付き従って歩く従者たちは、最近すっかり関白家での待遇に慣れてしまい、山里の家の訪問をわざとらしく文句を言いつつ歩いています。それはそうでしょう、婿君に通っていただくために、婚家はお付きの従者たちに酒を少々ふるまったりなどの心づけを奮発します。すると従者は婚家へ向かいたがり、なにかと有利になるのです。
供人たちの聞き苦しい不満も耳に入らないほど、東雲の宮は山里の愛しい姫に想いを馳せていました。
「…こんな寂しい秋風の吹く山里で、あの姫はどう過ごしているだろう、毎日泣き暮らしてはいまいか」
洛中ではまだそれほど秋らしい景色は見られないのに、ここらはすっかり秋めいて、山の木々の葉もわずかに色づき、しずかな冷気が感じられます。峰を吹き渡る秋風も虫の音も遠くから聞こえる鹿の音も、皆ひとつになってあわれを誘います。
姫も、今の私と同じ気持でこんな景色を眺めていてくれるだろうか…など考えていると、松を渡る風の音にまぎれて、筝(そう)の琴の音がかすかに聞こえてきました。山里の家はもうすぐです。
「小夜衣の姫が弾いているとしか考えられないな。珍しいことだ。今まで聞く機会すらなかったが」
と立ち止まってしばらく耳を澄ましていると、華やかでなまめかしい爪音は雲の上まで響きわたっていくようで、松風と入り乱れてえもいわれぬ風情を醸(かも)し出しています。誰に聞かせるということもなくかき鳴らせるのが、かえってのびのびとできるのでしょう。よくも今までこの妙なる音色を聞かなかったことよ、と東雲の宮がうなるほどのすばらしい響きでした。
「内裏を見渡しても、これほどすばらしい響きの名手は見つからないだろうな。おまけに名人しか弾きこなせないようなコツも身につけているようだ。一体誰から習ったのだろう」
人のいる気配を感じたら姫は弾くのを止めてしまうだろう、と東雲の宮一行は物陰に隠れてじっとしていました。
筝の爪音はいよいよ冴えわたり、圧倒されそうなほどの響きです。
「琴の上手は鬼神を哭(な)かせ、天地をも動かすというが、この音色に惹かれた天人が、天の羽衣をひるがえして小夜衣の姫を迎えに来やしまいか」
不安に駆られた東雲の宮は、思わず懐から横笛を取り出し、静かに吹きながら物陰から出ていきました。
突然現われた宮に驚く女房たち。むら雲の間から月の光が差し込んだような宮の佇(たたず)まいに、我に返った小夜衣の姫はぱったりと弾くのをやめてしまいました。
「何も考えずに、おろかにも夢中になって弾いてしまったわ…」
宮に聞かれたことが恥ずかしく、琴を押しやってうつむく姫。
「今まで聞かせてくださらなかった琴の音を、今宵ようやく聞く事ができました。馬で山道を分け入りながら、松風と虫の音に混じってあなたの妙なる爪音が聞こえてきた時の感動といったら…!ああ、これも前世からの私たちの縁なのですよ。もっと聞かせてください」
宮が強く勧めても、姫はもう琴に手を触れようともしません。
「宮中でもこれほどの名人は…一体どのような御方に手ほどきをお受けになったのです?」
「そんな、師匠だなど…師匠と呼べるような方に教えていただいたことはありません。ただ、祖母が若い頃に少し嗜まれたのを、私が真似しているだけでございます」
「そうですか、あの尼君が…まこと、すばらしい御師匠ですね。こんな山里に隠れているのが惜しく思われますよ」
更けゆく月に照らされながら語り合う二人。端近に並んで外を眺めながら、東雲の宮は、夜離れの続いた数ヶ月を詫びるとともに、将来の約束を愛情込めて繰り返し繰り返し誓います。
「これが最後なのかしら…ここを出て行ったら、二度と宮さまにお逢いできなくなるかもしれないわ。いっそ打ち明けた方がいいのかしら。でもでも、宮さまにわずらわしい思いをしていただきたくない…」
心の中はあれこれ乱れ、耐え切れずに涙をこぼす小夜衣の姫。じっと黙ったまま、悲しみを隠そうとしている姫を見る東雲の宮は、『あまりに長すぎた夜離れを恨んでいるのだろう』くらいにしか気遣ってやれません。姫がこの家から出て行くなど、まったく気付いていないのです。
お互いがこんなにも愛し合っているのに、次第にずれてゆく二人。
「いつになったら、やっかいな問題が解消できるのかな。まったくもって情けないことです。朝も夕もずっと一緒になんて、そんな夢みたいな間柄に、いつなれるんでしょうね」
とつぶやきながら、姫の髪をやさしくかきやる東雲の宮。
袖を顔に押し当て、遠い将来までもと一晩中かき口説き続ける宮。
自分の口から出る愛の言葉の数々に、宮は少々酔っているように見えなくもありません。
姫はその言葉を聞きながら、内心、
(真の愛情があるなら、二人を隔てる関守なぞものともしないはず。やはり女房たちの言うように、殿方の真心なんて露草のように移ろいやすいものなのかしら)
と今ひとつ信じきれずに涙をこぼしています。
世間が何と言おうと、こんな可憐な方を自分の愛で幸せにしたい…宮のその気持に偽りはないのですが、如何せん、自分の手で幸せを勝ちとろうという男気はないようです。
何とか言葉で慰めながら、夜が更けてゆきます。
妻戸を開けると、峰から吹き降ろす風音が雲の彼方までとどろくよう。
「恐ろしい風の音だな。この音では夜もろくに寝られないだろうに。昼はこの景色を眺めて過ごし、夜は夜で嵐を聞き…それもこれも、すべて私のせいなのだ。何も知らなかった無垢な姫に、男女の仲のつらさを思い知らせてしまった。私がはっきりした態度を取らないから…」
自己陶酔に浸っている男君、意外と冷静に殿方の心を見透かす女君。
端近でいつまでも寄り添ったままの二人でしたが、月も西の山の端に沈んでしまいました。夜が明けぬうちに帰らねばなりません。従者たちの催促に、
「必ず、必ず今宵も訪ねて参ります」
と宮は固く約束し、お互いの衣を交わして名残りを惜しみます。
「もうこれっきりなのでしょうか…
逢瀬をば これやかぎりの 忘れ水 たえにし中の またたえねとや
(これが最後の逢瀬なのでしょうか。絶え絶えに流れる水が、さらに途絶えてゆくように) 」
袖を顔に押し当てたまま、悲しみをこらえきれずにつぶやく姫。
感極まった東雲の宮は、
「必ず来ます。
せきやらぬ 涙の河の ふかければ 逢瀬はたえぬ 中の契りを
(私たちの縁の深さは川の堰にも負けない、一つの堰を越えれ
ば、次の瀬で必ず逢える宿命なのですよ) 」
皆に知られたってかまわない、「この人が私の運命の人」と、世間の人に公表してしまいたい、だが…と東雲の宮はじれったくてたまりません。
(帰らねば。けどこんなに愛しくてしかたのない女をどうして独りで置いとけようか。私はいくじなしなのか?親や婚家に波風立てたくないからといって、大事な女を粗末に扱ったままでいいのか?)
東雲の宮の心は千々に乱れ、小夜衣の姫を抱きしめたまま動くことも忘れてしまったかのよう。出発を何度も促す従者たちの声に、ようやく山里の家をあとにしたのでした。


早朝の山路はいちめんの露野原。姫の住んでいるところなら、草一本木一本だってなつかしいのに…さんざん後ろ髪をひかれる思いで京に戻った東雲の宮は、自邸に着くなりどっと御帳台に倒れこんでしまいました。
疲れているはずなのになかなか寝付けません。小夜衣の姫の、白玉のようにこぼれる涙、神業とも思える琴の音、思い出すと胸がいっぱいになって我慢ができなくなりそうでした。
(関白殿は私の忍び先をご存知なのかな。それで憎まれるならけっこう。この恋を誰に非難されようが、自分の身ひとつにふりかかるなら、それはそれでかまわない。あの人さえ無事なら。婚家にビクビクしながら過ごすより、したいことをして日々を送ることこそ、憂き世の生きがいというものだ。そうだ、姫を私の別荘にお移しするのはどうだろう。そうすれば、気楽にいつでもお逢いできるじゃないか)
東雲の宮は、一刻も早く良き日を選んで、姫を安心できる場所に移そう、と決心したのでした。