■  小 夜 衣  ■


<その三>


さて、この山里の姫君の現在の保護者にあたる尼君の素性を説明しておかねばなりません。この尼君は、先々代の三条帝の御治世に中将命婦と呼ばれていた人で、容貌も才能もたしなみも際立って優れていた女房だったため、当時は数多(あまた)の公達の恋心をときめかせたものですが、それら殿方を出し抜いてこの命婦を妻にしたのが、二条あたりに住んでいた左衛門督という殿上人で、このお二人から山里の姫の母君が生まれたのでした。

それからまもなく左衛門督は亡くなられてしまいましたが、一人娘(山里の姫の母)はたいそう美しく成長し、この娘に按察使大納言卿がお通いになったのです。そしてこの二人から、山里の姫が生まれましたが、お気の毒なことに母君は姫がわずか五歳の時に病気で亡くなられてしまいました。
亡くなった娘の菩提を弔うために、山里の姫の祖母君は尼となり、この鄙びた寺で朝に夕にお勤めをしているのでした。
そうした経歴から、尼君はあらゆる知識に趣味に明るく、上品で奥床しい人柄で琴の上手、特に筝の琴にかけては内裏で並ぶ者のない名手と謳われ、孫娘である山里の姫君にも、勤行の合い間などに琴を教えたりしていたので、今では姫君も素晴らしい弾き手となっていました。
その尼君の看護にあたっている宰相の君は、尼君の姉の娘なのですが、母が亡くなった後は尼君を母の形見と思い、親しいつきあいをしてきましたので、強い信頼関係で結ばれあっています。
姫君の父親である按察使大納言卿も、ここ山里に来るたびに、美しく育っている我が娘の将来をどうしようか、と案じているのですが、問題の北の方が、
「私とあの子は何の関係もありませんからね。関係のない娘など世話したくないですし、今後の話を聞く必要もないでしょう?」
と突っぱねていて、大納言はどうしようもありません。我が娘を自分の屋敷に迎えることもできず、山里の姫君は祖母のもとに預けられたままになっているのでした。
この按察使大納言には山里の姫の亡くなった母君の他に、妻だった方もおり、その亡くなった妻との間にも男の子が二人います。
一方、北の方との間にも一人娘がおり、大納言はこの娘を帝の女御にさせるべく、それはそれは大切にお妃教育しているのでした。



さて、東雲の宮の父院は、我が息子が洛外まで出向いて行くのをたいそう心配し、
「遠方までのお忍び歩きをなんとかやめさせられないものか」
と悩んでいました。
もっと身分の高くて美しい姫君を見つけて縁談に持ち込めば、危ない夜道をはるばる訪ねて行こうなど思わなくなるかもしれない、そう考えた父院は、さっそく理想的な縁組をあれこれ選び始めました。親とは勝手なものですね。我が子が厭世感にとらわれているときは、
「誰でもいい、はした女でも田舎女でもいい、息子に生きる希望を与えてやって欲しい」
と願っていたのに、いざ自分たちの目の届かないところに愛息子が行きだすと、
「あそこは遠すぎる、こんな身分はふさわしくない」
と急に干渉し始めるのです。
東雲の宮への降るような縁談の中から、父院のお目がねに叶ったのは今関白の娘です。今の関白というのは先々代の三条帝の弟君で、東雲の宮の父院とも血縁深く、身分的には何の問題もありません。関白には二人の姫君がいますが、姉君は今上の女御になっていて、弘徽殿女御として時めいています。
関白は、妹君である二の姫の方は東宮に差し上げるつもりでしたが、姉妹ともども内裏へ参らせるのはあまりにも強引だと非難されるのでは、と思いとどまられて、二の姫の身のふり方を考えあぐねていたのです。入内を考えていた二の姫にふさわしい背の君は、これはもう冷泉院(東雲の宮の父院)ご自慢の息子しかいないだろうと、かねてより院に縁談を申し込んでいたのですが、ここにきて父院はようやくこの縁談を進める気になったのでした。
「適齢期の公達を好き勝手にさせていたから、身分の低い相手に引っかかってしまうのだ。いかにまばゆいほどの美しい相手であろうが並みの身分では話にならぬ。関白の姫こそ我が息子の理想の相手であろう」
と考え、息子を呼びつけては縁談を勧めようとしますが、かんじんの東雲の宮といえば、父君の話をよけいなお説教と言わんばかりに、あからさまに憂鬱な顔をして聞き入れようとしません。母君である大宮も、
「私たちもあと何年生きられるか…あなたの将来の為にも、これほど強くて確かな後見人はいませんよ。少しくらい不満でもお引き受けなさい。年頃の公達がいつまでもふらふら浮ついた気分でいるから、そんな並みの身分の人に気をとられてしまうのですよ。あなたを見ていて、どれだけ私たちがはらはらしていることか。早く私たちを安心させてちょうだい」
と涙を浮かべて説得します。
親二人がかりの説得に根負けした東雲の宮は、とうとう関白の姫君との縁談を了承してしまいました。


「この話を山里の姫君が聞いたら、どれほど悲しまれることだろう…」
そればかりが気になって、親たちとろくに話を進める気すらありません。
「そんなに気がすすまないのかねえ」
「でももう承諾してしまったのですもの。先方に今さら…」
院と大宮はそう言いながら日取りなどを選んで、着々と結婚の準備を始めています。東雲の宮にも、お相手の二の君へ手紙を書かせようとしますが、宮はおし黙ったまま。山里の姫君に逢いたくてたまらないのに、親たちの妨害で、この恋を断念しなければならないところまで来ています。
縁談が決まってからというもの、東雲の宮は自室に閉じこもりがちになり、一日じゅうぼんやりしている毎日です。
院や大宮は、
「あの子は舞い上がっているだけですわ。結婚して落ち着いてしまえばほとぼりも冷めるでしょう。関白家の姫との縁談を取り付けた私達に、そのうちきっと感謝してくれるようになってくれるはずです」
と話し合い、結婚の日取りは今月の下旬に、となりました。
一方、関白家の方でも、願ったり叶ったりの縁談に大喜びで、急いで準備を進めています。


さて、こちらは宰相の君です。こうしたおめでたいご婚約の話を聞くにつけ、山里のお気の毒な老人や姫君のことが思いやられて、
「尼上の懸念していた通りになってしまったわ。私がしつこくお勧めしたばっかりに…。関白家の目を盗んで洛外までの夜歩きなんて、できるはずないわ。そうなったら、姫さまはどんなに嘆かれることか。
尼上も、『それ見たことか』と情けなく思うに違いない」
と思っていることを正直に東雲の宮に打ち明けたところ、
「こんな宿世が用意されているとは、なんて張り合いのない人生だろう。この世をいつ捨ててもかまわないんだが、『女人が原因で出家なさったとはねえ』と世間の人々から言われるのも情けないし…」
と、宮もわびしげに答えます。御前にひかえる女房たちも、
「なにもかも恵まれたご運の宮でも、こればかりは親の言うなりにするしかないのねえ」
とささやきあうのでした。


山里の家では、まだこうした事態をご存知なくて、ただ、東雲の宮が急に間遠になったこと、夜遅くに訪ねて暁にもならない暗い時刻にそそくさと帰るようになったことに不満を持つのでした。
姫君は、宮の愛の誓いをけなげに信じ続けています。それもそのはず、姫にとっては初めての恋愛経験なのですから、殿方の口先だけの言い逃れとか心変わりなど知るはずもありません。まわりの年上の女房たちが語る、
「殿方というものは平気でウソをつくものです。好きでもない女人に向かって、『以前から慕い続けていた』などと言い、平気で女人にのしかかってゆくのですよ」
という言葉に、物の数にも入らない自分の身のほどが知れて、泣きたいくらいに情けない気持になるのでした。



さて、関白家の姫君との婚礼も近くなったある夜、東雲の宮はいつもより早く、まだ宵の内に山里の家を訪れました。
狭い簀子(すのこ)に姫君と二人並んで、黙って外の景色を眺めています。思いがけない運命の展開を迎えた二人。その二人の悲しみを知っているかのような霞(かすみ)渡った空の景色に、ますますしんみりしてしまう宮。目慣れた草木もよそよそしい感じさえします。
夜更けてようやく顔を出した月に照らされた姫君は、限りなく上品で愛くるしく可憐で、これ以上の美しさはないだろうと思うにつれ、東雲の宮は、
「ああ、こんな可愛い姫を見て、明け暮れ過ごしたいものだ」
とため息をつくのでした。ちょっと可愛い程度なら、いっそあきらめもつくのに…と頭を抱えたいほどです。
横にいる姫君はうらみの言葉も何も言いませんが、悲しみは十分伝わってきます。心の底から愛している姫君に、宮は千の社(やしろ)を引き合いに出して、変わらぬ愛を繰り返し繰り返し誓うのですが、姫君の嘆きは癒されません。
こうして、一晩中語り合って朝を迎えた二人ですが、白んだ空が気恥ずかしく、東雲の宮はそそくさと帰ってしまいました。姫君は悲しくてたまりません。身体に残る、宮の移り香に涙ぐむ姫君。宮は宮で、昨夜の姫君のいじらしいしぐさを思い出しては、今すぐにでも引き返したい想いにとらわれるのでした。
毎晩でも訪ねたい山里の家ですが、世に聞こえた関白家の姫との婚約中に、並みの身分の女人に通い続けていたとあっては世間体も悪い…そんなこともあって、もう出歩くこともできない東雲の宮なのでした。



婚礼も間近ということで、両家は準備で大忙しです。大宮は、
「今まで一度も先方へお手紙を差し上げていないなんて、どうしたことですか。早くお手紙を書きなさい」
と息子を催促するのですが、まったく気の乗らない宮は聞く耳をもちません。母宮の小言を聞き続けるうちに、早くも婚礼の儀の前日になってしまいました。
呆けたような有様で自室に閉じこもっている息子にイライラしているうち、とうとう婚礼の日がやってきてしまいました。


何だか立たせられているうちに、何やら自分のまわりを女房が動き回り、薫物の染みついた着慣れない衣裳を着せられ、母上の「さあさあ時間がないわ」と叫ぶ声がする…
もの思いで魂も抜け出しそうな東雲の宮は、茫然自失の状態で、突っ立ったままそう思っていました。
宮はヨロヨロと這うように両親の前に参上しました。泣きはらした目元の息子を見た大宮は、
「こんなにも嫌がっているのに、わたしたちは強引に押し通してしまったのだわ…」
と後悔しましたが今さら後には引けません。御前に控える女房たちも、
「意にそぐわぬ結婚は、上つ方の宿命とはいえ…」
「今からこんなでは、先が思いやられるわねえ」
「関白家のお姫様も、背の君が最初からこんなではねえ…」
としきりに同情しています。
その一方で、事の次第を憂鬱な思いで眺めている宰相の君は、ここで軽率に山里の方へ事実を伝えると、どれほどがっかりするかが目に見えるようでしたので、面倒なことを避けたい気持もあり、婚礼のことは山里の方には黙ったままです。
やがて、関白家の令息である三位中将や弁少将が、冷泉院の屋敷へ東雲の宮をお迎えに上がり、呆けたように立ちつくしている宮は、令息たちにさらわれるように車に乗せられて関白邸へ到着したのでした。
関白家の姫と先帝の子息の婚礼という、世の中の耳目を全て集めた慶事に、あまたの公卿や殿上人は関白家にすべて参集し、大げさに華やかにお祝いの言葉をのべます。関白家の大殿も東雲の宮が背の君とは願ったり叶ったりなので、なんとか気に入ってもらえるようにと室内の調度類も女房たちも最上を揃え、前例にないほどの念の入れようです。
肝心の二の姫はというと、もう少女という年齢ではなく、今が盛りの美しさに加え、奥ゆかしくなかなか教養もありそうな様子。たちまち心惹かれてもおかしくないのですが、東雲の宮は、山里でやるせない思いで過ごしている姫君のことが気になって仕方ないのです。さあどうぞと用意された恋愛よりも、障害のある恋愛の方が、恋の炎も燃えさかるというもの。宮は新婚の枕を涙で濡らし、
「こんな姿を誰かに見られたら。いつまでもごまかしも効かないだろうしなあ…」
と寝ることもできず、短い夏の夜が明けるのも待たずにそそくさと帰ってしまったのでした。
新郎新婦を世話する女房たちは、心ここにあらずといった様子の宮に、ただただびっくりしています。


自邸に戻った宮は、自分の部屋に寝転がって、愛しくてならない山里の姫君のことを思い浮かべていました。やおら硯を用意させて手紙を書いている様子に、お付きの女房たちは、
「関白家へのお歌を熱心にお考えになっておられるようね」
「あちらの姫君を気に入られたのかもよ」
とささやきあっていましたが、その手紙は山里の姫君に宛てたものなのでした。


『 心にも あらずへだつる 小夜衣 かさねし袖の かわくまぞなき
(逢えない事態は本意ではないのです。あなたとかさねた袖は、今は涙に濡れて、乾く間もありません) 』


筆を持ったまま、宙を見つめる東雲の宮。水茎(みずぐき)の跡も鮮やかなその手紙を届けられた山里の家では、姫君が泣きじゃくりながら返事を書きました。


『 小夜衣 移れば変わる ならひとて 憂き身にしらる 袖の涙を
(殿方の心移りが、愛を終わらせるものだと教わりました。それを今実感しています。袖を濡らしながら) 』


珍しい直筆の返事に、姫君の切羽詰った嘆きがひしひしと伝わってくるようです。
「私の結婚を聞いたのかな。どれほど憎まれているだろう」
悲しくて、また折り返しの手紙を書きます。


『年ふとも 変わらじものを 小夜衣 ふかくもおもひ 染めし色をば
(私の衣は年を経ても変わらないはず。あなたを想う色に染めたのですから) 』


大そう豪華なもてなしをいただき関白家から戻ったというのに、書く手紙は関白家の姫君宛てではなく、古びた山里に住む姫宛てばかり。女房たちも、
「いい加減にあきらめなさったらいいのにねえ」
「この期に及んでまだ未練があるのかしらね」
と憎らしそうに言い合っています。
山里からの返事は、


『ふかかりき 色とはいかが 頼むべき あさくも染めし 小夜の衣を
(色あせないなんて信じられるのでしょうか。私の衣は淡い色にしか染まっていませんのに) 』
祖母君から教えられたであろう美しい文字で、素直な自分の心を表している歌を何度も見つめる東雲の宮。しかしいつまでもそうしてはいられません。一刻も早く関白家に後朝の手紙を出さなくてはならないのです。なのに、書く気も起きずに放っていると母宮が、
「まだお手紙を差し上げていないのですか!」
と怒りの口調で催促してきます。
しょうがないので特に深くも考えず、型にはまったような歌をさらさらと書き流しました。


『ほどもなく 明けぬる夜半の つらさをも 同じ心に 君はおもはじ
(あっという間に夜が明けましたね。短か夜のつらさ、あなたは私ほどじゃないでしょう?) 』


関白家では、東雲の宮からの手紙を今か今かと待ちわびていたので、手紙が到着した時どれほど安堵したことでしょう。皆で手蹟の見事さをほめたたえ、さっそく姫君にお返事を促します。しかし姫は、
「あまりの御手の美しさに、気後れがします…」
と恥ずかしがっている様子。そこで母君が代筆し、


『身の憂さを おもひしらるる 暁は 鳥のねともに ねぞなかれぬる
(憂き身を知らされる暁は、一番鶏の声に合わせて私も泣いてしまいました) 』


包み文にして、使者である蔵人佐に碌(ろく)とともに渡します。碌は、菖蒲かさねの一揃い、紅の五重衣に唐撫子の袿(うちき)です。蔵人佐は作法どおりに被いて、晴れやかな様子で戻ってきました。
返事を読んだ東雲の宮は、老成した書きぶりに、「母親の代筆か」と多少不満でしたが、「まあ、本人の返事を見て幻滅するよりはマシか」と思い直すのでした。


これより、山里の姫君を「小夜衣の姫」とお呼びします。