■ 小 夜 衣 ■          


<その二>



さて、こんな風に、鄙びた山里に住む姫の手紙ただ一枚にやきもきしている兵部卿宮でしたが、先帝の御子という主流の皇族のお血筋ゆえ、ぜひ我が娘にお声をかけていただきたいと熱望する公卿たちが、宮付きの女房はおろか、父院にも根回しの嘆願をするありさまです。
社会的地位を約束され、何一つ不足無く生まれ、娘をもつ数多の父親から引っ張りだこの宮なのに、どうしたわけか現世の華やかさには何の希望も持たず、物静かに仏道修行に専念する毎日を送りたいと願っているため、
「親に言われるままに結婚などして、現世につまらぬ縁など持つことに、どれほどの価値があるのだ」
と母大宮のすすめる縁談にも耳を貸そうとはしません。そんな宮を見て、父院や母大宮は、
「どうぞ我が息子がこの世に執着したくなるような絆(ほだ)しに恵まれますように」
と神仏に祈るしかないのでした。
屋敷にお仕えする上搶蘭[たちもその辺のことはよく理解しており、そんな女房の一人である宰相の君もこのたびの山里の姫君の出現に、
「ようやく宮さまが夢中になられる姫君が現れたわ」
と大喜びです。
「それもこれもご両親が長年神仏に祈り続けてこられた賜物(たまもの)、ぜひこのお話を取りまとめなくちゃ!」
とあせるのですが、姫の現在の保護者である尼君が病気で、なかなかこちらから無理強いも出来ずに困っています。宰相の君は兵部卿宮に、
「宮さまとはあまりにも身分が違いますゆえ、その場限りで捨てられてしまうのではないか…その事を尼上は懸念しているのだと思いますわ。宮さまのお気持ちは当てにできない、と尼上の心配なさるお気持はもっともな事と存じます。あちらは、『物の数にも入らぬような身の上』と自覚してらっしゃいますから。
どうしても、と宮さまが仰せでしたら、まず姫君の父上であられる按察使大納言さまにご相談してから…そのように尼上は考えておられるようです。
私のたわいもない世間話がもとで、こんな気のもめる事態となってしまい、本当にどなたさまにも申しわけなくて」
としょぼくれながら申しあげました。宮は笑いながら、
「結末を疑いながら始める恋愛なんてあるものかね。確かに、将来自分の気持がどうなるかなんてわかりっこないけれど、相手に恨まれるような愚かな好色さは持ち合わせてないつもりだよ。心配ご無用だと尼上に伝えてもらえないか。恋愛には縁のない人生だと今まで信じ切っていたが、たった一人の運命の姫君を見つけたんだ。もし尼上が、姫君の今後を安心して任せられる後見人が欲しいとおっしゃるなら、この私がすすんでお世話しようじゃないか。その上で、尼上はご自分の後世のために仏道に励んでいただきたい」
と言います。
「誠実なご配慮、本当に恐れ多いことでございます。ところでわたくしこのたびの宮さまの恋煩(わずら)い、内心驚いております。初めて耳にすることでしたから。姫に対する御心ざしがこんなに深いのも、きっと前世からの深い約束に違いないですわ。
わかりました。今度こそ宮さまの真心を尼上にわかっていただけるよう伝えて参ります」
「よろしく頼むよ。これでもまだ私の真心に疑いをお持ちなら、今度は神仏に誓ってもかまわない」



それからまた、宰相の君は山里の尼上のもとにお見舞いに出かけました。宰相の君が病気の具合を訊ねると、尼君は、
「いまだに回復の兆しも見えず、かといってすんなり死出の旅にも出られず…こんなに長患いになるとは思いもしませんでした。命とは薄情なものですね」
と弱々しい声でつぶやきます。宰相の君は涙を浮かべながら、
「何を気弱になっておられます。でも、ご自分のお身体のことはご自分が一番ご存知のはず…尼上さま、姫さまの今後のことはお心残りが無いようにご配慮ください。お見捨てのままでは、尼上さまの後生の罪も重くなるのではないでしょうか。姫さまの今後を第一に考えて差し上げなさいませ。兵部卿宮さまのお申し出をお受けになれば、必ずや姫さまにも幸せが巡ってまいりますわ」
と力強い声で尼君を励まします。尼君は、
「そのお話についてはいつも申している通りですのに…。
高貴な女人にさえ御心を分けられたことのない殿方が、どうして物の数にも入らぬような私の姫を人並みに扱って下さいましょうか。兵部卿宮さまがお手をつけられた後、姫がどのような物思いで過ごしてゆくのか手にとるようにわかりますとも。
身分の高い低いに関わらず、女というものは殿方次第でおのれの運命が変わってゆくもの。かわいい姫に、来世までも苦しい女の業(ごう)を背負わせるのも可哀想なことです」
と言います。
「ご心配なさらないで下さい。深い愛情で想うておられる宮さまですもの、急なお心変わりなど考えられません。確かに宮さまに相応しい親王さまや深窓の姫君は、宮さまの周りには数多(あまた)居られますが、御心をかけられたり御文を通わせたりなさった御方はこれまで私の記憶にはございません。ご両親もたいそう心を痛めていらっしゃいます。『こんなに欲がないようでは、いつ出家という言葉を口にするやも知れぬ』と。宮が御心を寄せるお方ならば、どのような者でも大切にお世話したい、と申されております。そんな宮が、このたびこちらの姫君に真剣に御心を寄せられているご様子。先日など、『自分の真心を神仏に誓ってでも』とまで仰られたのです。もったいない御言葉ではございませんか」
尼君が不安がるのも無理からぬこととはいえ、なんとかして宮の満足いく方向にもって行かねば、と宰相の君は看病しつつも説得に努め、山里の家で二、三日を過ごすのでした。


さて、宰相の君の首尾が気になる兵部卿宮は、自分もお見舞いに出向こうと、そぼ降る雨の中、嵯峨野へと出かけました。山里の家
、すなわち
雲林院の場所は今度はすぐに判ります。
見覚えのある垣根には卯の花がまだ咲き残っていて、牛車を垣根のそばに停めると、ふいにほととぎすのさえずりが聞こえてきました。そのまま聞き流すのも惜しいので、宮は御文に、


『過ぎやらで やすらひ暮らす ほととぎす 我が忍び音を ねにたてよとや
(まるで私の忍び泣きを声に出せ、と促すかのようなほととぎすの美しい鳴き声ですね) 
立ち寄るのも失礼かと存じまして、お手紙だけでも』


と書いて、看病している宰相の君のもとへ届けさせました。
美しい御文を受け取った宰相の君は、
「ほんの一言でけっこうですから、どうぞお返事を」
と姫君に促すのですが、姫は「とんでもないこと」と怯えて、筆を取ろうともしません。仕方がないので宰相の君は、


『こととはで 過ぎにけるかな ほととぎす 卯の花咲ける 宿の垣根を
(卯の花の咲く宿なのにほととぎすが立ち寄ってくれないとは)
お立ち寄り下さらないのですか』


と代返の手紙を使者に渡しました。
日暮れと共に五月雨の雨脚(あまあし)は強くなり、このままでは帰るのも難儀しそうです。
「雨が小降りになるまで供の者たちを軒下で休ませていただきたい」
と宰相の君に申し出て、兵部卿宮は先日案内された部屋で、宰相の君と対面しました。
「立ち寄って声を聞かせてくれと請われたから、こうしてやってきたよ。誘われたからには今晩の宿は貸して貰えるのかな?おあつらえむきに、おっと失礼、あいにくの夕闇なうえにこの雨脚。これでは帰り道もよくわからなくなったよ。私の心模様もこの空の景色と同じなんだ。
どうか今夜はこちらで旅の宿を、と許してくださったと判断していいんだね?」
「ここは洛外ですし、この雨では帰り道が危のうございます。ただ今お休みいただく部屋をご用意しておりますので、中にお入り下さい」
兵部卿宮の問いかけにはっきりとは返事せず、宰相の君は端近から室内へと宮を案内しました。二人はしばらくのあいだ、尼君の病状などを話していましたが、敷物などの準備ができましたので宰相の君は部屋を下がりました。


初夏の宵も次第に更けてゆきます。夜の雨雲は動きも乱れがちで、宮の気持をそのまま表したかのように、空を低く渡ってゆきます。枕もとから鳴いているかのような、ほととぎすのよく響く声を聞いていると、ああ、ここは本当に都から離れている山里なんだなあ、と宮は感慨深く思うのでした。もの寂しい場所柄なかなか寝付けず、夜更けのほととぎすの声をまどろみながら聞いていると、襖(ふすま)の向こうに人の居る気配がします。兵部卿宮は起き上がり耳をすますと、どうやら若い女房たちが数人世間話をしているようです。少しすき間がありましたのでそこから覗きますと、折りたたまれた屏風が見え、部屋の奥がほんのりとした明かりに照らされています。
女房たちのひそひそ話が聞こえます。
「気後れしそうなほどご立派なお客様ですわね。すぐそばでお休みなんですから、おしゃべり声はなるべく抑えなさいよ」
「ご気分はいかがですか」
「あら、用事が」
など、ささやき声に混じって人の出入りがそれなりににぎやかです。奥の方に几帳が見えますが、そこに山里の姫君は居るのでしょうか。女房たちが控えている几帳の向こうに誰かが居る気配がしますが、調度類の陰になってよく見えません。女の童たちが、
「今夜は尼上さまのおそばには上がられないのですか?」
「お姫さま、いつものように尼上さまの所に行きましょうよ」
と几帳の向こうにいる人に問い掛けています。
やはり几帳の陰には姫君が…と確信した兵部卿宮は、折りたたまれた屏風のそばから部屋の暗がりを伝って、そうっと几帳の中に体を滑り込ませました。
驚いたのは姫君です。狼狽のあまり声も出ません。姫君の異変に最初に気がついたのは、そばに居た女の童でした。部屋から飛び出し、大急ぎで尼君の御前に知らせに行きました。
床についている尼君のそばでは、宰相の君と、山里の姫君の乳姉妹の小侍従が看病にあたっていました。女の童は、まず姫の乳姉妹の小侍従に事の次第を知らせましたが、それを聞いた宰相の君もどれほど驚いたことでしょう。なぜご執心の姫君の居場所がわかったのか、あせりながら部屋に駆けつけると、兵部卿宮が几帳の中で、しれっとした顔で姫君のそばに座っています。
「まあどうしましょう、とんでもないことになってしまったわ。先ほどまで尼上さまに、『いつまでもこのままですと、兵部卿宮さまがあらぬふるまいを姫さまになさるかも知れません。それは姫さまにとって大変不名誉な事になりますまいか。ですから、そうなる前に』と説得していたのに。わたしが姫さまの寝所に宮さまを手引きしたと思われてしまう」
とあわてふためく宰相の君。一緒に駆けつけた姫君の乳母は乳母で、
「看病疲れでやつれきっている姫さまなのに、あんなご立派な容貌の御方がご覧になられて…きっとガッカリなさるに違いない」
と困りきっています。
初めて逢った山里の姫君はただただ可憐で、夜のほの明かりの中、それはもう抱きしめたいような愛しさを感じる兵部卿宮です。触れる髪の豊かな感触が、まだ見ぬ恋だった昨日までとは違う生々しさを伝えます。
心のどこかで、「逢えば意外に拍子抜けするような人となりかも」と思っていましたが、見知らぬ殿方の突然の出現にひたすらおびえている姿が例えようもなく清純で可愛らしく、宮がいくらなだめても言葉を尽くしても、目の前の姫君はこのまま震えながら夜の空気に溶けて消えてしまいそうです。
そんな姫君の雰囲気さえも兵部卿宮にとっては煽情的で、今にも理性の堰(せき)が崩れそうでしたが、残念なことにもうすぐ夜明け。いつまでもこうしていることは出来ません。
我ながら思いもよらなかったふるまいをしてしまい、宰相の君は内心恨んでいるだろうな…そう思うと、宮は尼君にも宰相の君にも退出の挨拶が言いづらく、変わらぬ気持だけを姫君に繰り返し繰り返し誓って、ひっそりと夜明けのまだ暗いうちに山里の家を出ました。


嵯峨野からの帰り道、兵部卿宮の頭の中といえば先ほどまで抱き寄せていた山里の姫君のことばかり。
(五月雨にしおれた真っ赤な撫子が、雨上がりの夕映えにきらきら輝いているようなみずみずしい姫君の姿…ああ、もっともっと見ていたかったな。今宵一夜逢えないだけでも苦しい、けれど嵯峨野までの道のりを考えると、思うように通えるのだろうか。満足に通えないとなったら、打ち解けてくれるまでには時間がかかるだろうなあ…)
ときめいたりくよくよしたり。切なさと気苦労から、宮は屋敷に戻るまでの間じゅう、ため息をつきっぱなしなのでした。
屋敷に戻るとすぐに硯を用意させ、夜が明けきらないうちに急いで手紙を贈りました。


『ほととぎす 語らうほども なきものを うたて明けぬる 東雲の空
(ほととぎすはまだ十分語り尽くしていないのに、無情にも東雲の空を見るとは) 』


さっそくの手紙に、待っていた山里の人々は安心しました。
「こうなってしまったからには、どうかご自身でお筆をお取りなさいませ」
と皆で言い含めても、姫君は夜具を引っ被ったまま起き上がろうともせず、何を言っても聞いてくれそうにありません。
仕方がないので今回も宰相の君が代筆で、


『いろいろ説得しましたが、相当まいっておられるようです。
こうなった以上、今後の宮さまのお気持ちが心配でございます。こまかな打ち合わせは、お目にかかりました上で相談したいと存じます』


と返事をよこしてきました。
山里の姫君の心の扉は開くのでしょうか。


これより、この兵部卿宮を、『東雲(しののめ)の宮』とお呼びします。


その日一日が暮れるのを今か今かとじれったく思っていた東雲の宮は、日暮れるやいなや嵯峨野に出かけました。こんな逢瀬は経験のないことで、草を踏み分け踏み分け歩むのも並大抵でない愛情の深さと言えるでしょう。山里の家では、宰相の君が、
「来訪の時刻は愛情のバロメーター。いつ頃来て下さるだろう。いえ、東雲の宮は本当に来て下さるのだろうか、もしやあれきりだったら…」
とハラハラしながら日が暮れるのを待ちわびていましたが、思いのほか早い到着だったので、宰相の君も乳母も心の底から安堵しました。
衣を引き被ったまま泣いている姫君を何とかなだめすかして起き上がらせ、涙ですっかり萎えてしまった衣裳を着替えさせ、汗と涙で乱れた髪を梳(くしけず)ると、また姫君は床に突っ伏してしまい、今度も衣裳に埋もれたまま、乳母たちを見ようともしません。
やがて姫君の部屋に案内された東雲の宮が、几帳の中の姫の傍に寄り添いました。
着替えたらしい衣裳はさっぱりとした夏の色で、姫の顔を自分の方に向けさせると、なるほど、うつむきがちではあるけれど、まわりの若女房たちとは似ても似つかぬ際立った美しさだ、と東雲の宮はうれしくなります。
恥ずかしそうに身をよじるその姿は、清純で上品な人柄が滲み出ているようで、宮の恋心はますますつのります。
「弱ったな。ここはなにしろ遠い道のり。心配性の両親がこのことを耳にされたらどれほどお叱りを受けるかな。もっと都に近い場所にお移し出来ないものか。そうすれば心置きなくいつでも逢えるが…」
もっと気軽な場所で、愛を交わしたいと思う東雲の宮でした。


本願叶って、一晩を山里の姫君と共に過ごした東雲の宮。翌朝は少し寝坊をしてしまい、ほんのり明るくなった部屋の外に、姫をひょいと抱き上げて連れ出します。昨日までずっと降り続いていた雨はすっかり止み、晴れ上がった夜明けの空が見えます。西の山に沈みかけている月と、東の山際の明けゆく風情が二人の恋を祝福しているようで、宮は、
「ご覧なさい、このすばらしい空の景色を。私たちの恋が、神仏からも認められた証(あかし)ではありませんか?」
とささやきます。顔によりかかった姫君の髪をそうっとかき分け顔を自分の方に向かせると、夜明け間近の明るさにさらされるのを大そう恥ずかしがって、姫君は身をよじらせてうつむこうとします。東雲の宮は、腕の中の姫君のそんなしぐさがたまらないほどいじらしく、絵に描き留めておきたいくらいです。
それもこれも、父母が毎日毎日神仏に手を合わせていた効験なのかな、と思うにつけ、この姫君が天も認める前世からの縁で結ばれた運命の姫なのだと確信し始めています。
ますます深まる愛情は、嵯峨野への遠い道のりをものともしません。通う夜が続くにつれ、山里の姫君も少しづつ親しみ慣れてきました。東雲の宮の優美きわまりない風情と、訪れるたび耳にささやかれる愛の誓いに、姫君の心も次第にほぐれてきます。しかし一方で姫君は、
(…宮さまの訪れが絶えてしまったら、お逢いしなかった頃に戻るだけなのに、前以上にさみしくなってしまうわ。殿方に慣れてしまうなんて、なんて見苦しい女になってしまったんだろう)
と自分の心の変化を情けなく感じているようです。
尼君はといえば、懸念していた東雲の宮の誠意が真実であったと安心したせいか、病状は少し快方に向かっているようです。
姫の将来も尼君の病気ももう大丈夫、と周りの女房たちは安堵したのでした。


さて、こうした毎夜毎夜の息子の夜歩きを心配したのが父院と母大宮です。謎の夜歩き先が洛外だと家来の者から聞き出し、それはそれは驚きました。
「ほんのひとときでもそなたが見えないと気がかりなのに、遥か洛外まで夜歩きとは、私たちが心配していないとでも思っているのか?」
「道中が心配でならないのですよ。それほどお気に召した女人がいるのなら、この屋敷に引き取ればいいではありませんか。それなら、はるばる危険な洛外まで出かけずに済むでしょうに」
呼び出しをくらってくどくど説教されます。この過保護ぶりがうっとうしくて仕方ないのですが、面と向かって反論することも、父母の心配を考えるとなかなかできません。
顔を見ればくどくど説教、出かけようとすると説教、あれこれ理由をつけて引き留めたがる両親。相手をするのも面倒で、自然と嵯峨野へのお出かけも減ってしまいました。
夜離れの日数が重なり、山里の家でも東雲の宮のことを、
「やっぱり単なる興味本位だったのかしら。当てにならないお気持だったこと」
と嘆いています。宮は、
「神仏に誓ってそんなことはありません。両親が心配するのが申しわけなくて、なかなか出かける事ができないのです。決して心変わりなど。それだけはご安心ください」
と言い訳めいた弁解の手紙をひっきりなしに送るしかないのでした。