■ 小 夜 衣 ■


<その十七>


幽閉状態からようやく自由の身になれたとはいえ、いまだショックから立ち上がれない山里の姫君は、几帳をするりと割って入ってきた殿方が誰なのか、初めはわかりませんでした。が、殿方の影がそばに寄り添うと、幽閉されていたときにつきまとわれていた民部少輔を思い出し、恐ろしかった出来事が今さらのように思い出され、がくがく震え出しました。
「ようやくおそばに上がれたというのに、それほどまでに嫌われているとは…私は以前と何ら変わらぬ身ですのに、逢わない間にあなたのお気持ちはすっかり変わってしまったのですか?あなたにとって、もはや私は過去の人間かもしれないと思うとたまらなくつらくて…。今さらお逢いしても何がどうなるわけでもないでしょうが、あなたが行方知れずの間あまりにも心配で心配で、そのぶん一刻も早く逢いたいと思い、とるものもとりあえずこちらに参った次第なのです」
それから兵部卿宮は、姫君がいなくなってから今日までのつらかった胸の内をやさしく打ち明け、
「本当に、もう二度と逢えないと覚悟していたのですよ。だからこそ、今こうして逢っているのが夢のようで…。


うき事に ならひぬる身の 袖なれば うれしきにさへ かわかざりけり
(悲しい涙でいつも袖を濡らしている私だから、うれし涙でも袖が乾かないのです)


もう一度お逢いできてよかった…!」
と感極まって涙が止まらないのでした。けれど姫君は、間遠だった逢瀬やつらかった後宮での生活、死にかけた幽閉生活、それらの何もかもの原因は、身分が不釣り合い過ぎのこの宮と出会ってしまったからだわ…そう思っていました。姫は泣きながら、


いかならん 世にかは袖の かわくべき うかりしことの 忘れやはせん
(いつかこの袖が乾くときがくるのでしょうか。つらかった出来事を忘れられるはずもないのに)


とだけつぶやいて、あとは黙ってしまいました。これほど恐ろしい経験をしたのですから恨まれるのも道理、宮は姫君を一晩中かけて慰め、変わらぬ愛情を訴えました。そのうち東の空が次第に明るくなりはじめ、宮の従者たちが帰京を催促し始めました。小侍従の君も困ってしまい、几帳の中にいる二人に向かって、
「これ以上のご滞在は、いくらなんでも見苦しゅうございます」
と訴えますと、
「さっさとと帰れと言うんだね。ああまったくあなたの言うとおりだとも。でもそんなに私のことを嫌わなくてもいいじゃないか」
とやんわりかわし、なかなか出て行こうとしません。
こうして毎晩でも通いたいものだが、両親にこのことを知られて大げさに騒がれたり、ああだこうだと干渉されるのも面倒だし、万が一、今上に姫君(対の御方)の居場所が伝わりでもしたら、あのご執着ぶりからして私の手の届かぬところへ隠されるかもしれない…兵部卿宮はそれが気がかりでした。ようやく再会を果たしたのに、どうして再び離れられようか、いっそのこと連れ出してしまいたい。頭の中はその願いでいっぱいです。
「昨夜、夜更けまでなかなかこの家に入れてもらえなかったのでずうっと立ちっぱなしだったんだ。そのせいか気分が悪くて起き上がれそうにないんだ。けれどあなたがたに恥をかかせないようになんとかがんばって帰るから、部屋の戸のところまで牛車をつけてくれないかい」
兵部卿宮は几帳の向こうにいる小侍従の君に向かって言いました。すぐに車が部屋の外に寄せられました。兵部卿宮は車の用意が出来たとわかると、問答無用で姫君を抱き上げ、何にも言わずにそのまま車に乗り込んでしまいました。
「まあ、何をなさいます!?」
小侍従が叫びました。
「そなたも乗るのだ。来なさい」
「急にそのようなことをおっしゃられましても困ります。どなたのお許しもいただいておりませんのに。姫君が落ち着かれましてから、後日改めてお迎えくださればよろしいではありませんか」
「私のそばに引き取りたいとずっと前から思っていたんだ。残念ながら、愛しの姫君は華やかな御所へ上ってしまわれたわけだが、数ならぬ身の私と雲上人を束ねる帝とを比べれば、姫君の判断は賢明だったかもしれないね」
おろおろする小侍従に、楽しげな愚痴を向けてしまう兵部卿宮。気の毒なのは山里の姫君です。幼い頃からなじんだ家で、心身ともにようやく落ち着けると思った矢先に、兵部卿宮のこの非常識なふるまい。
(こんなことになって…お祖母さまは今頃どれほど驚いていることかしら。宮さまの無体な要求に、私の方から喜んでついて行ったと思われていたらどうしよう)
と姫君は恥ずかしくてたまりません。けれど面と向かって兵部卿宮に拒否できるはずもなく、ただただ涙を流しながら衣を引き被ることしかできないのでした。


兵部卿宮一行が自邸に到着しました。
宮は姫君を牛車から抱き下ろし、抱きかかえたまま自室に向かいました。ようやく山里の姫を我がものとした宮は、心の底から安堵して姫のそばに寄り臥しました。ますます愛しく、ああ私たちの縁は決して浅いものではなかったのだ、と深く思い知らされるのでした。
夜明けからずいぶん時間が経つというのにちっとも起きる気配のない宮の様子に、お付きの女房たちが、
「朝寝とはまた珍しいことですわね。朝食のお粥が冷めてしまいますわ」
と心配しています。
日がすっかり昇って、やっと宮が起きる気配がしました。
「宰相の君、参れ」
と呼ぶ声がします。宰相の君が急いで参りますと几帳の中に通されました。
「どうだい宰相の君。とても珍しい方をこっそりお連れしたよ。大変戸惑っておられるようなので、落ち着かせてくれたらうれしいのだが」
兵部卿宮は満足そうに言って、そばの衣装のふくらみを引き退けました。
中に居る女人は頭から袿をかぶっていましたが、顔は見えずとも宰相の君にはひと目で山里の姫君だとわかりました。
(まあ、兵部卿宮さまったら…やっとご自分の意思を通すお気持ちになられたのですね)
正しい迎え方とはとても言えないのですが、恋人の存在を言い出せないまま望みもしない結婚を無理強いさせられたことや、後宮の奥深くで今上に言い寄られているのではないかという嫉妬、行方不明になったときの絶望感。それらをもう二度と味わいたくないのでしょう。一途な恋心ゆえの宮の行動に、宰相の君は思わず笑みがこぼれたのでした。
「私はもう我慢したくなかったんだ。だが、父上や母上がどう思うかな。驚くに決まっている。だから当分の間この事は他言無用だ。女房たちにもきつく言い含めておいてくれないか」
「ですが、今はご遠慮なさらねばならないような大殿の姫君(故二の姫)もおられぬことでございますし…宮さまのはかなげで心細そうなご様子を、院も大宮もそれはそれはご心配なさっておいでです。『息子の心に留まるような女人はどこかにおらぬのか』と始終つぶやいておられますのに。何もお知らせしないのは、少しお気の毒というものでございますよ」
姫君を間に二人で話した後、姫君付きの女房たちも対面を許されました。広々とした邸内、磨きぬかれた室内、由緒ある調度類に囲まれて寄り添う宮と姫君の図。管弦の妙なる音色が流れ、山里の小さな家からやってきた女房たちは「こんな暮らしがあったなんて」と目もくらむ思いがするのでした。


さて、兵部卿宮に姫君を連れさられてしまった山里の家では、気の毒な尼君が按察使大納言に怒りを訴えていました。
「数ヶ月も行方不明だったのがようやく戻ってきてくれたと安堵しておりましたのに、宰相の君が『山里の姫はたいそうお美しいらしくて』と噂していたのを、どこから宮さまがお聞きになられたのでございましょうか。わざわざこちらまでお越しになられ、垣間見ついでにさらって行ってしまわれたのです」
もちろん大納言には姫と宮の本当の出逢いの経緯など説明できるはずもありません。宰相の君の「神隠しにあった薄幸の美少女が奇跡的に見つかったそうですわ」という噂話に興味を持たれた宮がはるばる訪ねてきて、気に入ったついでに連れて行ってしまった…という筋書きをつくったのでした。けれど自分になんの相談もなく勝手に姫君を連れていかれ、祖母として平気でいられるはずがありません。尼君の憤慨している様子に大納言は、
「尼上のおっしゃる通り、姫にこんな軽々しい扱いをされて黙っていることなどできませんね。兵部卿宮は、大きな後ろ盾を持つ新妻を亡くされたばかり。こちらとしても気を使う必要はなくなりましたが、だからと言って私の娘に軽率な振る舞いをしてもよいというわけではありません。同じ迎えて下さるなら、きちんとした段取りを踏んでもらうべきでした。特に院はどうお思いになるでしょうか。家柄の釣り合いのとれた格式高い姫を望んでおられるはず。ものの数にも入らぬ姫を、さてどう受け止めてくださるか…。万が一、黙って見て見ぬふりをして下さるなら、もしかしたら姫にも明るい将来が開けるかもしれませんよ。なんと言ってもあの宮は、東宮の地位が約束されている素晴らしいご身分なのですから」
そう言って、その後兵部卿宮のもとに引き取られた姫の暮らしぶりなど何かと気を使い、衣装も美しいものを整えられる限り整え、父親として、大納言家の姫がお屋敷でちゃんと体面を保てるようにしてあげたのでした。


一方、宮中で対の御方の安否を気遣い悶々とした日々を送っている今上は、あまりに長い期間悶々とし過ぎたせいか、帝としての窮屈きわまる生活にすっかり嫌気がさしていました。大好きな対の御方はとうに無事保護されていたのですが、その知らせも今上に届く事はなく、対の御方を失った失意の果てに、とうとう帝の位を降りたいと強く思い込むようになってしまいました。
「対の御方は今頃どこでどう過ごしているのだろうか。誰かからとやかく言われたわけでもないのに、ひたすら対の御方への想いだけでどん底の毎日を送っている。それもこれも、体裁を気にして、ためらってばかりいた私自身が悪いのだ。
私は何をしても許される身なのに、対の御方への愛を押し殺した結果、すべてを失った気がする。


 心から おもひ入りぬる こひぢかな 露うちはらひ 袖はぬれぬれ
(みずから進んで迷い入った恋の道。袖を濡らさずには歩けない、難儀なことだ)


前世から約束された縁ではなかった、と今さらながら思い知らされることだな」
恋の悩みを打ち明けられる気楽な臣下でもいれば、ストレスもそれほどではなかったでしょうが、誰にも言えずひとり悩み続ける今上でしたので、いつしか本当の病人のように身体の具合が悪くなってしまいました。
今上は、気が向いた時いつでも勤行できる場所が欲しくなり、嵯峨あたりにもとからあった山荘を仏堂に改築しました。そして、たった独りで何をどう決断なさったのか、突然退位してしまったのです。皆どれほど驚いたことでしょう。気力体力ともに充実しているはずの30代後半に、帝としての限界を感じるようなことがおありなのか皆がそういぶかしんだのでした。