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■ 小 夜 衣 ■


<その十四>



「山里の家に姫ががおられた頃が懐かしいよ…あの人が待っている、ただそれだけで、がむしゃらに馬を走らせたものだった」
馬に揺られながら兵部卿はぼんやりと以前のことを考えていました。山里に到着すると、どうやら家の者は御堂で夕べの勤行の最中のようです。僧坊から立ち上る煙が、まるで霧が籬(まがき)を結んでいるようで、人目にさらされない慎ましやかな暮らしぶりに、「人生の終わりにはこんな暮らしも悪くない」と兵部卿宮は羨ましく思うのでした。愛しい人はもういないのに、ホトトギスは家の女主人を慕っているかのように飛び回り、卯の花は垣根に変わらぬ美しさで咲き誇っていました。


ほととぎす あるじをしたふ 垣根にも しのびねたえぬ 五月雨の空
(五月雨の空の下、ホトトギスが卯の垣根を飛び回っているよ。まるで宿の主人をさがしているように)


「まるで今の私と同じだな。姫を捜し求める私と…」
しばらく眺めた後、家の中へ案内された兵部卿宮は、すぐに尼君と対面しました。
「こんな老いた尼を忘れずにいて下さって、もったいのうもうれしゅうございます」
案内された南面の部屋もいそいそと参上した尼君の上品な挨拶も昔そのままで、兵部卿宮は涙があふれそうです。
「長からぬ我が命も宮さまの御心ざしでありがたく延びそうでございます。ところで、失礼ながら最近耳にしたお話では、宮さまは関白家の姫君の御ために喪に服しておられたとか…御心中お察し申し上げます。そんな事情の中にも、私どものことをお気遣い下さってたびたび御手紙を頂きましたこと、まことにかたじけのう存じます」
「何事につけても悲しみから逃れられないように運命づけられている私ですから、毎日嘆き暮らしていますよ。特にこちらの姫の面影は一瞬たりとも忘れることなく心配で心配で…誰か姫の居場所の見える幻術士でもいれば、と思って…」
言い終らないうちに涙のせきあげる宮と、同じく流れる涙を袖で拭こうともしない尼君でした。
「そうでなくともすっかり耄碌(もうろく)してしまっているこの身にとって、姫以外に生き甲斐など見つけられそうにありません。宮さまのありがたい御気遣いゆえに、かろうじて起き上がっていられるのですが…いまだに行方のわからぬ姫は、すでに浅茅が原の露となり果ててしまったのでしょうか。もしそうならば、亡骸なりとも見つけ出しとうございます。この私に反魂香が使えるのでしたら、姫のさまよえる魂をつかまえ、ひと目だけでも会うことができますものを。
人の命とは心憂きもの。命の長きに従って罪も重ねてゆくものです。知らず知らずに罪を貯めて、どうして私は生き長らえているのかと、たまらなく恥ずかしくなるときがあります。
世間にも実の父親にも半分忘れられたような心細い身の上の姫と、肩を寄せ合ってこれまで生きてきたのです。あの姫は、私の生き甲斐だったのです。その姫が行方知れず…私の心中はお察しいただけるでしょうか」
むせび泣く尼君の様子は哀れの一言に尽きます。
「しかしながら、尼君は長年にわたり仏に仕え、勤行に励んでこられた身。神や仏がお見捨てになるはずがありません。やはり今回のことは周囲の者が申しているように、按察使大納言殿の今北の方の謀り事ではないかと思います。今上のお情けが女御より対の御方に大きく傾いていると思い込み、どこかに隠しているのでしょう。このことについては、今上もひどく心配しておられます」
「私には後宮の暮らしぶりなぞ想像もできませんが、我が娘(=姫の母親)が生きていた頃から、大納言殿の今北の方がどれほど恐ろしいご気性の方か骨身にしみていますので、あの屋敷に関わるのはなるべく避けて参りました。その経緯は、姫の父親の大納言殿もよくご存知のはず。ですが、私が病気になり、こんな山里の小さな家で心細く過ごすより、実の父親に引き取られたほうが必ず幸せになれる…そう信じて大納言殿に姫をお任せしました。あのとき、もっと不審に思えばよかったのです。
今までずっとほったらかしにされていたのに、どうしてこんなに急かすように引き取りたいなどと…。あのとき、私が判断を誤りさえしなければ姫は…ううっ」
尽きぬ後悔に泣き崩れる尼君。宮も、意に反して関白家の姫君を妻としなければならなくなったことなど、ここ数ヶ月の近況を包み隠さず打ち明けました。
「ずっと以前から仏道に励みたいと思い続けていたのですが、両親の嘆きが目に浮かぶようで、それもまた出家の妨げになりましょう。ですから、俗世を断ち切ることを今日まで思いとどまっていたのです。今はもう、この世に未練など全くありません。誰も松の長寿にあやかれないのですから、勤行に励んで来世へ備えたいと思います」
と夜の更けるのもかまわず二人はしみじみと話し込むのでした。
その後、「老いた身に夜更かしは堪えますので」と奥で入ってしまったので、宮は一人でぼんやりと部屋を眺めていました。姫が使い馴らしていた質素な調度類、二人寄り添って月を眺めた柱…ふと部屋の奥の障子に何か書かれているのを見つけた宮が近寄ってみると、それは姫の手蹟で書かれた和歌でした。


かき絶えし 人の心の つらさより 絶えぬ命の うさやまさらん
(あの方の心変わりよりつらいのは、この私の命がまだ続いているという情けなさなのだ)


忘られぬ 心のうちは うつつにて 契りし事は 夢になりつつ
(あの方への思いを忘れられない私の心は現実のものだが、あの方が語ってくれた愛の言葉はどうやら夢だったようだ)


悲しい歌が乱雑に書き重ねられ、それが姫の心境をそのまま表しているようで、宮は申し訳なくて申し訳なくて涙がとまりません。
「この世ならず来世までもと誓ったのに、我が本意でなかったとはいえ、長らく夜離れてしまったのは事実だ。決して姫のせいではないのにこんなに苦しめてしまった…


もしほ草 かきあつめたる あと見れば いとどしをるる 袖のうらなみ
(姫が書き残したたくさんの歌を見れば、海女の袖のように涙でしおれる我が袖よ)


なんとか誤解を解きたい。そして謝りたいのに、もう二度と姫には会えないのだろうか…」
もどかしい気持ちを持て余し、妻戸を押し開けると、澄み渡る月は夜空の果ての雲までくっきりと照らすよう。ああこんな美しい月も共に眺めたものだ…と月影も涙ににじむのでした。


 わびつつは 袂の露に やどりつる 月にとはばや 人のゆくすゑ
(涙の中に宿る月影に問うてみたいよ。姫の行方を)


かき乱される気持ちを落ち着かせようと、宮はお経をゆるゆると唱え始めました。その朗々たる美声に、寝静まっていた女房たちが目を覚まします。宮の麗しい声をほめそやす女房たちの中、なかなか寝付けられずお経を口ずさんでいた尼君は、さらに心細くなっていくのでした。夜明けが近づき宮が帰京する時刻になり、端近でお見送りする尼君の顔に押し当てた袖からは、涙のしずくが後から後から流れ落ちるのでした。
美しい曙に誘われたホトトギスがどこかで鳴いています。


ほととぎす おなじ心に ねをぞなく 昔をいかに しのぶ心ぞ
(どんな思いで鳴いているのだろう。私の心を知っているかのように鳴くほととぎすよ)


しのびねは 我もたえせぬ 我が宿に 山ほととぎす とふぞうれしき
(しのびねをもらす我が家に、ほととぎすがなぐさめに来てくれるのはうれしいことです)


出立の時刻になり、山里の家では皆が皆、二度と会えないかのように泣き叫んでいます。そのせつなさに、山を下りる足も止まりがちな宮たち。


立ちかへる 袖ぞ濡れます 白波の みるめなぎさの 浦とおもふに
(来るとき以上に涙で袖が濡れてしまう。姫と会えない場所(=みるめなき)だと思うと)


「こんなに愛し合っているのに、いったいどんな前世の因縁が、涙ばかりの二人にさせているのだろう」
こうして、兵部卿宮は山を下りたのでした。



さて、対の御方(山里の姫)の周囲の人たちが嘆いている間にも、御方を軟禁している民部少輔は恋心を悶々と募らせています。一言でもよいから恋心を訴えたいのですが、何と言っても相手は後宮女房。そう簡単に気持ちを打ち明けられるような女人ではありません。
「ううむ。問題は我が妻だ。何とかして追い出してしまいたいが、下手に出ると大納言家に駆けこんで『お探しの姫君がいらっしゃいます!』と告げ口されてしまう。それだけはまずい」
こんなことばかりを考えて過ごしているので、いつもぼうっとしています。妻の方では、そんな夫の内心が手に取るようにわかっているのでとても不愉快なのですが、表面上は知らんふりを装っています。
ところでこの民部少輔には五歳くらいの男の子がいました。民部少輔と先妻との間の子で、閉じ込められている姫の心を少しでも慰めようと、時々は朝夕の食事の膳を運んだりしている子です。ある日民部少輔はその子を呼んで、
「この手紙をあのお姫さまに渡しておくれ。お母さんには内緒だ」
と言いつけました。子供は素直に結び文を対の御方のもとへ持って参りました。
子供から結び文を受け取った対の御方が手紙を広げてみると、
「おもひあまり今書き流す水茎の流れあふ瀬の契りともがな…
想いがつのるあまり、こうして書き流しております。この水茎の筆の先で契る機会があれば…と。
あなたさまを想う心に堪えきれず、ぬけぬけと手紙を差し上げたことをお許しください」
なんともぎこちなげな手蹟の手紙に、
「何が言いたいのかしら。気味悪いわ」
そう言って対の御方は手紙を遠くへ押しやってしまいました。
侍従の君が手紙を拾い上げて見てみると、内容にびっくりして、
「まあ。これは誰が書いた手紙なの?姫さまに差し上げなさいと言ったのは誰?」
と男の子に訊ねました。男の子はもじもじして、
「お父さんが、『お母さんには内緒で持って行け』って…」
と返事しました。女房たちはあきれてしまいました。特に御方は、
「生き永らえているばかりに、こんな情けない目に…」
と突っ伏してしまいました。
「このお手紙は、残念ながらここの姫さま宛てではないようね。
持ってお帰りなさい」
「でも、お父さんが…」
「早く持って帰りなさいと言っているでしょう」
女房にぴしゃりと断られ、男の子はうなだれて帰りました。


せっかく書いた手紙を突っ返され、民部少輔はイライラしています。
「わずかな時間でもいいから妻が出かけてくれれば、こっそりあのお姫さまに会うことができるのにな。それでもし妻がカンづいたら、即刻お姫さまを逃がそうか」
妻が家を留守にして、首尾よくお姫さまに会えて、なおかつ妻が
           そのことに気付かない…そんなうまい計画ができるだろうか、民部少輔はそればかり考えています。
「たとへばや 君が心は 池水に おもひ入るより 袖の濡るれば


(姫さまの心は池の水のよう。姫さまのことを思い浮かべるだけで、袖が濡れてしまうから)


ああ、妻をあの部屋に閉じ込めて、かわりにあの部屋から姫さまをこちらへ連れてきて、思う存分お世話申し上げてみたい。
しかしなあ、一緒にいる女房たちが何をしでかすかわからないし、逃げられても困る」
恋に浮かれた男の妄想は果てしなく続くのでした。
一方で妻は、そんな夫の惚けた顔を横目に、対の御方たちのいる部屋にせっせと参上しています。夫の出した手紙の内容も妻にはとっくに筒抜けなのでした。
部屋に参上した妻は、生きる気力をすっかりなくしている対の御方に同情の言葉も見つからず、側にいる女房たちも水を勧める言葉をかけることさえためらっている様子でした。
「ご心中お察しいたします。ですがどうかお気を確かにお持ちくださいましな。微力ながら、この私もなんとかして夫のスキを見つけ、お姫さまがたをお逃がしできたら、と毎日考えています。ですが、今北の方さまなどは、
『そのまま命尽きるまで捨て置いてもかまわないわよ』
そんなひどいことを仰っておられるとか」
今北の方のむごさに右近の君は震え上がり、
「そなただけが頼みの綱なのです。どうか私たちを見捨てずに外に逃がしてくださいな」
と言います。小侍従の君も、
「ああ恐ろしい。今北の方さまは、何をどう捻じ曲げてそんなお考えをお持ちなのでしょう。たしかに御方さまは、今上さまの御前で何度か楽器をお弾きになられたこともありましたが、人目に立つほどのものでもございませんでした。ありもしないことを誰かがでっち上げて、悪意に満ちたうわさ話を今北の方さまに申し上げたに違いありません」
と泣きます。右近の君はさらに続けます。
「姫さまはもとからこんな後宮暮らしなど望んではおりません。鄙びた山里の小さな家に、世捨て人の老いた尼君と共にひっそりと暮らしていたのです。そこへ、実の父君であられる按察使大納言のお迎えが参り、尼君は姫さまを泣く泣く手放されたのです。そこへ思いもよらない御所での生活を強いられ…すべてが慣れないことばかりの毎日に、姫さまはどれほどお疲れだったことでしょう。ところが今度はどなたかのたくらみ事にかかり、こんな暗い部屋に閉じ込められ…。前世のいかなる報いだろうかと嘆いておりましたところに、あなたの心温かい言葉。もしや、まだ希望が残っているのではと元気が出てきますわ。どうかお願いします。なんとか脱出する方法を考えてくださいましな」
「私も、自分の身と引き換えにしてもよいから何とかこの美しいお姫さまをお逃がしできる方法を…と考えているのですが。できればこの私も一緒に逃げたいと思います。と言いますのも、もう夫にほとほと愛想が尽きまして…。私、両親は幼い頃に死別したのですが、その後伯母に引き取られました。その伯母は、中宮さまにお仕えしている宰相の君と申し上げる女房のもとにおり、名前は中務と申します。その中務のおもとに育てられたのですが、五年ほど前にこの家の主人である民部少輔と結婚しまして、誠意のある夫だとずっと思っておりましたが、今は薄情な面ばかりが目につきまして。もうすっかり愛情も冷めてしまいました。心にかかる子供もいるでなし、私もお姫さまと一緒にこの屋敷から逃げてしまいたいと存じます」
と妻は言うのです。
「あら、先ほど手紙を持ってきた子はあなたの子供ではないのですか?」
「はい。夫の先妻の子です」
「まあ、そうだったのですか。それにしても、あなたの身の上話から、あなたがまったくの赤の他人だと思えなくなりましたよ。宰相の君という女房は、こちらにいる姫さまを大変心配しておられる御身内の方々のおひとり…ひょっとしたら私たちも、あなたの伯母上に何度か会ったことがあるかもしれません。ああ、何とかしてそちらの方面から姫さまの居場所をお教えすることができないかしら。何とか、宰相の君にこの事をお知らせできたら、脱出の道がきっと開けますわ!よもやあなたが宰相の君の縁続きの人だったなんて、これこそ毎日お祈りしている神仏のお導きですわ」
右近の君はとてもうれしくなりました。民部少輔の妻に、「宰相の君は、姫さまの恋人である兵部卿の宮の姉君(中宮)付き女房」だなどという突っ込んだ話こそできませんが、宰相に君にさえ知らせることができれば、必ずや兵部卿の宮や父親の按察使大納言に連絡がとれると確信したからです。
「何という偶然でございましょう。まことに、神仏のお導きに違いありません。ですが、何とか大納言さまにお知らせすることができたとしても、この私が「姫さまの居場所を告げ口した」と夫に責められるのだけはご勘弁を…雲の上の方々に関係する事件の責任をとらされるのはごめんこうむります。どうすればよいでしょうか…。大納言さまは方違えの際、この屋敷にお渡りになられることがあります。その方面から何か良い案が浮かべば…ハッそうですわ、あの子を使えばよいですわ!先妻の子は大納言さまがこちらへお寄りの際、親しく御前に伺っております。今度大納言さまがお立ち寄りになられたときにあの子に顔を出させて、お姫さまのお書きになったお手紙を見せればよいのですわ。事前に、
『お父さんにもお母さんにも内緒で、この手紙を大納言さまにお見せなさい』
とあの子に言いつけてください。私は、大納言さまが手紙を読んだあとに、
『この子はなんてコトを!あれほど黙ってなさいと言っておいたものを!』
と怒るマネでもいたしましょう。夫は、自分の実の子ですから怒るに怒れないでしょうし。何も知らないあの子には少々可哀想な計画ですが、このくらいしか思いつきませず…」
と妻が言いますと、右近の君や小侍従の君は顔を紅潮させて、
「確かに、幼い子に責任を押し付けるのは心が痛みますが、今は手段を選んでいる場合ではございませんもの。すばらしい計画ですわ。ああ、うまくゆけば自由になれるのね!」
「どうかあなた、お願いです!一刻も早く宰相の君のところに行って、事の次第をすべて申し上げて下さいな。」
と妻にすがりつくのでした。女房たちは姫君に、宰相の君に宛てた手紙を大急ぎで書くように勧め、民部少輔の妻に持たせました。手紙をふところに納めた妻は、夫の留守を狙って、屋敷の誰にも自分の訪問先を夫に教えないように緘口令をしき、宰相の君のもとへ向かいました。