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■ 小 夜 衣 ■


<その十>


さて、こちらは後宮の対の御方の局です。
少納言の乳母(対の御方の乳母)は、自分の娘(小侍従)を御方に付き添わせ、自分は後宮に残ったのですが、尼君が危篤と聞いて一晩中まんじりともせず、夜が明けるのが早いか、胸のつぶれる思いで大急ぎで山里の家へ参上したのでした。
ところが家の中へ入ってみると尼君は何の変わりもなく、いつものように仏間で勤行に励んでいます。
(なんだか様子がおかしいわ。昨日のお使いは「最早これまで」と、今にもお亡くなりになりそうな勢いで御方の局へ飛び込んで来たのに、目の前の尼君は至極落ち着いて座っておられる。いったいこれはどういうことなのだろう。それに、肝心の姫君や付き添っているはずの我が娘(小侍従)や右近の君はいったいどこにおられるのだろう?)
乳母は不審に思い、昨夜の出来事を尼君に申し上げますと、
「まあ、どういうことですか?最近の私は特に具合の悪くなる事もなく、平穏無事に暮らしておりますよ。夜更けに牛車を内裏に寄越すなんてとんでもない。ハッもしや、具合の悪くなったのは父君の按察使大納言さまでは?それなら牛車で迎えに上がったのもうなずけますが。私の名と大納言さまの名を聞き間違えたのでしょう」
と尼君は答えます。
「もし大納言さまがご発病ならば、まず先に梅壺女御に連絡が行くはずですし、何よりも今北の方さまが大騒ぎするはずでございます。梅壺の様子は至って静か。確かに山里からの迎えだと使いの者は申しました」
と乳母は断言しましたが、念のため、按察使大納言邸に参上して、昨夜から今朝にかけての一件を大納言に申し上げることにしました。
大納言邸に到着すると、まず今北の方が対面しました。
「それは思いがけない報告ですわねえ。対の御方はあのとおりの美人ですから、宮中でお顔を見せているうちに、どこかの殿方に懸想されたのでは?おおかたそんな殿方が、思いつめた挙げ句に
連れ去ってしまったのかもしれませんねえ。
男が女を盗み出すなんて、昔からよくあることですのよ」
そんな推測をする今北の方。乳母は目の前でとぼけた顔をしている今北の方を見て、
(何かおかしい。山里の姫君を母代にと、女御に無理矢理付き添わせたのは今北の方なのに。これが、腹心の侍女が失踪などという事態だとしたら、「侍女がかどわかされたですって?女御の周辺警備がこんな手薄では!」とまっ先に私達が叱られるはず。それが、報告をこんなに面倒くさそうに聞いてるなんて)
と乳母はあきれてしまいました。

大納言にも申し上げますと、
「いかなる者が姫を迎えにきたのだ、どんなわずかなことでも良いから思い出すのだ!」
とさすがに顔を青くして心配します。
「申し訳ありません。夜が更けておりましたので、顔や様子を確かめることができませんでした。ただひたすら「急いで急いで」の一点張りで、考える間もなく…何かの罠なのでしょうか」
と言って乳母が泣くので、大納言は何が何やら、茫然自失です。
「尼君に何とお詫びしたらよいか…姫を手放すのにあれほど悩んでおいでだったものを。お迎えした姫にしても、山里の家から移されて、ここで幸せだったとはとても思えない。その上行方知れずになってしまうとは…返す返すも尼君に顔を向けられぬ」
責任を感じて泣く大納言をよそに、今北の方は、
「まあまあ、あんなに美しい人だったのですから、懸想する殿方も大勢いらしたのではないですか?その中に、けしからぬ事を思いつく方がいらして盗み去った…というのがまず考えられますわねえ。ああでも、やんごとない身分の殿方ならともかく、地下人ごときの者に連れ去られたのなら、あの人はどうなってしまうのでしょうねえ。おお、想像するだけでもおそろしいこと」
とわざとらしくつぶやきます。
大納言の息子たち(先妻との間の子)の侍従と弁少将も、姫が行方知れずと聞き、どれほど驚いたことでしょう。小夜衣の姫が対の御方と呼ばれ、後宮で暮らすようになってから、親しくお話しする機会もでき、仲の良い異母兄妹としてつれづれをお慰めしていたのに、と心を痛めています。
大納言邸でも手がかりがつかめなかった乳母は、これ以上長居しても何も得られないし、何より尼君が心配しているだろうと、早々にお屋敷を下がり、山里の家へ戻りました。尼君は乳母の帰りを今か今かと待ちわびていましたが、乳母の報告を聞き、
「なんですって?大納言家が差し向けた車ではなかったと?いったい、どこの誰が姫を連れ去ったというのですか。今北の方がおっしゃったように、日頃から姫に言い寄る殿方でもいたのですか?」
と乳母を問い詰めます。
「いいえいいえ、そのような事実はございません。誰かが手紙を寄越したこともございません。今北の方が勝手にそう思い込んで話しているだけでございます。
実は先日、姫さまのご気分がすぐれず臥せっていらしたとき、畏れ多くも今上さまがわざわざ局までお見舞いにお越し下さったのです。その時、たまたま梅壺女御の乳母子の弁の君と鉢合わせになってしまい、弁の君が顔色を変えて出て行かれたという事がございました。あの後、弁の君がどのように女御に報告したかは存じませんが、以来後宮の空気がすっかりおかしくなり、女房たちが陰でこそこそと姫さまの悪口を…もともと気の進まなかった後宮暮らしに、追い討ちをかけるような朋輩たちのいじめややっかみ。姫さまは本当にお悩みでした。いつも、『山里の家へ帰りたい』と泣いておられましたのに、もっと早く決心なさっていればこんなことにならなかったのに、と悔やまれてなりません。
きっと今北の方の仕業ですわ。弁の君が継母(今北の方)に告げ口したに決まっています。姫さまに怪しい殿方の影なぞ誓ってありません。今上さまの御心が少しでも女御から離れないように、今北の方が何かをたくらんだに決まっていますわ!」
声を上げて怒りにふるえる乳母でした。乳母の推測がもし真実だとしたら、今頃姫はどこに…もしやすでに殺されて…尼君は考えてだけで胸がつぶれそうです。
「実の父君に如何に勧められようとも、やはり姫を山里から移すべきではありませんでした。昔から言うように、なさぬ仲の継母とは、努力しても思うようには行かないのですね。華やかで贅沢な後宮暮らしができるとはいえ、人目にさらされる生活に気苦労を重ねていたことでしょう。姫の平穏な暮らしを毎日祈り続けていたというのに、怪しいたくらみに巻き込まれ、生きているのか死んでいるのかすらわからなくなってしまうなんて…長生きすると、我が身が死ぬよりつらい知らせも聞かねばならないのですね」
と声を限りに泣くのでした。
乳母の報告に、家中の者が悲しみに打ちひしがれ、山里の家から泣き声が途切れることはありませんでした。


泣き疲れ、少し落ち着いたころ、乳母がふっと思いつきました。
「もしかすると、東雲の宮さまのしわざでは?宮さまと姫さまは、内裏では一度も対面する機会がなかったはずでございます。逢いたい逢いたいと思い詰められた宮さまが、姫をさらってどこかへ隠してしまわれたかもしれません」
「まさか、あんな立派な方が、そんなけしからぬ事を思いつかれるかしら」
尼君はそう思いましたが、とにかくどんな可能性でもいい、姫の居所を捜して、わらにもすがる思いで宰相の君(宮と姫を最初に取り持った女房。宮の姉君中宮付き女房)に連絡を取りました。宰相の君は連絡を聞いて、あたふたと山里の家へやってきました。姫の失踪を知り、驚いて言いました。
「姫が行方不明など、にわかには信じられないことですわ。宮さまのご様子ですか?宮さまは何もお変わりありませんわ。毎日毎日、逢えない姫さまを想ってため息をついておられます」
とは言うものの、実は裏でこっそり何か細工して、表面上のみ泣いて取り繕っておられるのではないか…万が一ということもあるので、宰相の君は東雲の宮の住む院邸へ戻りました。もちろん東雲の宮にとって、姫君失踪など寝耳に水です。
「この私がそんな浅ましくも愚かな行為をするはずないだろう!あの可憐で華奢な姫に、無分別なふるまいをするほど私は落ちぶれていないぞ。愛しい姫のいやがる無礼が働けるものか。それに第一、私は姫に見捨てられた身なのだよ。今さら姫と、どうこうできるものでもない」
と声を荒げて驚いています。しかし、心の中では、
(ひょっとすると、宮中で情をかわし合う人ができたのか?ああ、ついにこの身は完全に見捨てられたらしい)
とすっかり自信を失ってしまいました。
「姫が行方不明になって、尼君はどれほどお嘆きか。お見舞いに伺ったほうが良いね。だが姫の居ない家を訪ねたところで、私にとっては何のなぐさめにもならないよ」
あれこれ思っても、なすべき手立てがないのですから、とにかく詳しい事情を聞くべく、夕暮れを待って、東雲の宮は山里の家へ出かけました。


早春の野辺の道を、枯れ草を踏み踏み進んでゆく東雲の宮の一行。春とはいえまだまだ寒い山路ですが、草木から芽吹く緑が目を和ませ、あちこちに見える梅の木にも鮮やかな花が咲き乱れています。鶯がさえずりながら枝から枝へと飛び回り、山里の家へ道案内してくれるかのよう。鶯の初音につられて宮の涙もこみ上げて来ます。
姫が居た頃と何ら変わりのない、なつかしい家へ到着しました。尼君に対面しても、まず涙、涙で互いに言葉を詰まらせるのでした。
「すっかり老いで呆けてしまいましたのに、身を切られるような悲しみを味わっております。姫が行方不明になって以来、ずっと臥せっておりましたが、宮さまのお越しと聞き、そのお志もありがたく、ようやく起き上がることができるように…ううっ」
東雲の宮の顔を見た途端、張り詰めていた糸が切れたように、声を震わせて泣き始めた尼君でした。
「夢であって欲しいと願うような信じられない出来事を耳にしましたので、尼君のご心痛は如何ばかりかと…言葉をかわす事こそできませんでしたが、同じ内裏に暮らしているのですから、いつの日か必ずやとゆったり構えていたのが浅はかだったのでしょうか。こんな事態となって、何も考える余裕などありません。片時も忘れる事のできない姫ですのに」
と姫が対の御方として後宮に入った頃からの出来事を、少しずつ話し始める宮でした。宮の話を聞きながら、尼君は、
(こんなに真剣に愛してくださっているのに、どうしてこの家から姫を手放してしまったのだろう。悲しい事件に巻き込まれるくらいなら、身分が体裁がと言い訳せずに、この宮さまに姫の全てを託してしまえばよかった)
と後悔する事しきりです。
「命が永らえたばかりに、こうも悲しい目に遭ってしまいました。姫は今、どこで何をしているのでしょう。それを考えると、居ても立ってもいられず…」
とむせび泣きする尼君でした。
「尼君、まったく心当たりはないのでしょうか?どんな些細な手がかりでもいいのです」
「乳母たちとも話したのですが、まったく見当もつきません。出た話といえば、昔話にありがちな『なさぬ仲の継母のしわざ』くらいしか…」
あれこれ話しているうちに、月もしだいに傾いて夜も更けてきましたので、宮はお帰りになります。家を出ると、紅梅の匂いがあたり一面に満ち、鶯のように立ち去り難い心地です。家の中では女房たちが、外から吹き込んでくる梅の香と宮の薫物の香の混じった夜風に、悲しいながらもうっとりするのでした。
まだ夜明けには少し間がありますが、かつて姫と共に過ごした夜明けを思い出し、じっと空を眺めていると、涙がとめどなく流れます。


行きかへり 幾度(いくたび)袖を 濡らすらん はかなくむすぶ 露の契りに
(この家に何度来て、そして何度袖を涙で濡らしたか。露のように儚い契りのために)


姫への想いをこめて詠む東雲の宮。自邸へ到着しても、とてもまどろむ気になれず、端つ方に座って呆然としたままです。万感胸に迫り、ただひとえに、
(姫の失踪は覚悟の上の出奔…かけおちだ。私は姫に捨てられた、私は姫に完全に見限られたのだ)
とばかり思い込んでしまっているのでした。
(同じ内裏に居る者同士、いつかはきっと再会できることだけを信じて今日まで生きてきたのに、その望みも絶たれた。どんな男だって姫をひと目見たら我がものにしたくなる。不埒な輩が姫を隠したに決まってる)
もう姫には二度と逢えないかもしれないと想像するだけで、生きる希望も何もかもが消える宮なのでした。


さりともと また逢坂を たのみにし おもひたえぬる 関の関守
(いつかきっと逢える、そのことだけを生きがいにしてきたのに、逢坂の関の番人に打ち砕かれてしまった)


いつかきっと逢える、再び心が通じ合う日が来る…淡い期待で過ごした日々が、まさしくつぶやいた歌のとおり、何者かの手によって無残にも断たれてしまったのでした。


対の御方(山里の姫)の身辺が大騒ぎになっている頃、何も知らされていない今上も嘆いていました。
対の御方の姿が見当たらないので退屈でどうしようもなく、耐え切れずに、
「御方はどうなされたのか。姿が見えぬが何かあったか?」
と側近の者に訊ねます。
「ご実家の祖母君の病状の悪化で、昨夜あわただしく退出なされました、との事でございます」
側近の返事に、「ああ、おいたわしい事だ」とは思うものの、自分の目の届くこの内裏から、ほんの少しでも御方の気配が消えることが今上にはつらくてなりません。初めて逢ったその日から、恋に堕ちた今上なのです。朝起きれば逢うのを心待ちし、夜は寝苦しいほどの想いを抱えて眠れないというのに、実家の都合とはいえ、宿下がりでしばらく逢えないとは…と、心底がっかりしてため息をつく今上なのでした。