狭衣物語


その六


女二の宮の宮中退出の話を聞いた狭衣大将は、いてもたってもいられず、中納言内侍典侍のもとへ出向いた。
「とにかく一度でいいからお会いしたいんだ」
という狭衣の真剣な様子に内侍は、
「いまにも消えてしまわれそうな弱りようですので、母大宮さまが夜も昼もつきっきりで看病されておいでです。手引きできるようなスキなど・・・。大宮さまは、二の宮さまのお相手が誰なのか、不安に思っておられます。
原因はあなたさまにあるとそれとなく匂わせれば、状況も変わってくると思いますが」
と言ってみたが、狭衣はそれでもあいまいな態度を崩そうとしない。しかし、思い乱れているさまをみかねた
内侍典侍は、狭衣はいいかげんな気持ちで二の宮に近づいたのではないのだと強いて自分に言い聞かせた。
「女二の宮さまのご病気は、ひとえにあなたさまゆえのご心痛からです。それなのにあなたさまは、真実をあいまいにして、真面目に向き合おうとなさらない。とても悲しゅうございます。こんなことであれば、お渡しくださったお手紙を人目にさらしてしまえばよかったと、心底思います」
激励するつもりでそう言うと、狭衣は、
「頼むよ、手紙を暴露するなどおどかさないでおくれ。後生だから。
でもね、あの懐紙を落としたのが私だと大宮さまに思われたら、さらに私のことを気に入らなく思われるだろうなあ。そうなったら、結婚の望みもなくなりはすまいか。とにかく頼むよ。私は二の宮を恋うているのだから、どうしてお目にかかれないことがあろうか」
最後の言葉はゴリ押しとも取れた。内侍典侍は、複雑な気持ちだった。

大宮と二の宮一行は、実家の邸に到着した。
長年、手入れされていないその邸は、たいそう荒れており、池も水草が生えて、すっかり古びてしまっていた。
とりあえず人が生活できる程度に邸の中を片付け、落ち着くことはできたが、しばらくすると大宮も心痛から倒れてしまった。娘の二の宮と同じように気分がたいそう苦しくなり、柑子さえも喉を通らなくなった。娘を見捨てるかのようにもし私が死んでしまったら、だれが娘を守るのか…そう思いつめながらも大宮はどんどん弱っていく。そんな母宮の様子を見て、二の宮は、
「私のせいでお母様までこのようなありさまになってしまわれた。先に私が死んでしまいたい」
と自分を責める。

邸の中はこのように思い嘆く毎日であったが、乳母の一人がたいそうよい知恵を思いついた。
「まだ独身であられる姫宮さまの醜聞が漏れ出るよりは、いっそのこと、大宮さまが帝の御子を身ごもられた、という事にしてはいかがでしょうか」
この提案にはたいそう驚いたが、大宮のお体も弱りきっていることでもあるし、今はどんな小さな可能性にもすがりたい。さっそく内裏にそのように報告すると、帝はたいそう驚いたようである。大宮は今年四十三歳になろうか。御子の生めない年ではないが。
ともかく、冬頃出産予定だと報告した。大宮と二の宮は、乳母たちとごく一部の女房たち以外、姿を見せることなく看病されている。
女二の宮は、この計画がもし公に知られてしまったらと、たいそう恐ろしく思う。そんな娘の様子を見て、母大宮は、
「いったいどのような卑劣な男が、高貴な我が娘をここまで苦しめて知らん顔しているのか。娘を少しでも愛しいと思うなら、ここまで無視してよいものか」
と前世からの因縁をあさましく口惜しく思っていた。


このように心細い毎日を大宮たちは送っていたが、ある日、門の外が騒がしいのを聞いていると、なんと狭衣大将の訪問であった。大宮方の従者を通じて、狭衣は中に案内された。
大宮は、心細く寂しい里邸住まいを気遣ってくださった堀川大殿の気持ちをうれしく思い、わざわざ御座近い御簾の前に敷物を差し出して、病身ながら狭衣に直接声をかけた。
「ようこそお越しくださいました」
狭衣が身じろぎすると、さっとよい匂いがあたりに漂う。焦げるばかりに真紅で艶々した紅葉重ねの直衣に、竜胆の二重織物の指貫という容姿、まるで龍田姫が自ら染め出したような美しさである。
中納言内侍典侍が対面を取り次ぐ。
「今までご無沙汰しておりました。父大殿にいつも参上せよと言われていたのですが、私も体の調子が良くなかったものでして。
大宮さまはご懐妊ということで、当然案じられるお身体でありますが、女二の宮さまのご病気こそは何とも申しようもなく心配しております」
「娘の二の宮より先に身まかりたいと気はあせっていますが、どういうわけか、今までこうして生き長らえておりますのも、堀川殿のありがたいご親切のおかげでございましょうか。
私の死んだ後、もしこの世にとどまる者(生まれる御子)がございましたら、どうか見捨てずお世話ください、と堀川の上にお伝えくださいませ」
あの逢瀬依頼、この親子をずいぶん長い間苦しませてしまった、と狭衣は居ても立ってもいられないくらい女二の宮に逢いたくなった。
しばらくすると空模様が急に悪くなり時雨が降りだした。木枯らしに色とりどりの紅葉が散っていくのを見ながら狭衣が、

『・・・時雨と共に降るような、おびただしい涙であることよ』
と詠むと、内侍典侍は、

『・・・因果応報ですわ、時雨と共に袖を濡らせば秘密も漏れてしまうのでは?』
と答えた。

乳母の一人が、この内侍典侍の和歌を聞きとがめていた。

狭衣はしばらく女房たちと話した後帰っていった。女房たちは、「まあ、ほんとうに天人御子が誘ってもおかしくないお美しさですこと」などなど、口々に狭衣をほめたたえた。


大宮の出産予定日が近づいてきた。しかし女二の宮のお産の兆候はまだない。帝からのお使いが矢のようにやってくる。緊迫した帝のご心情と、妊娠騒動の秘密とで、大宮は命の火も消えそうなほどの弱りよう。しかし数日後、ようやく女二の宮にお産の兆候が現れ、ほどなく男御子が生まれた。心配に気も動転していた乳母たちだが、とにかく、
「大宮の、男皇子ご出産」
と宮中に連絡する。祈祷の効験があったのか、後産なども無事すみ、乳母たちもほっとした頃、内裏や堀川大殿からのお祝いのお使いがどっとやってきて、大変な騒ぎになった。大宮がいかにも皇子を生んだように仕立て、女二の宮を屋敷の奥深く隠す。
大宮の様子を聞いた帝は安堵し、慣例通りの儀式がおごそかに行われた。
大宮側もこの数ヶ月もの間悩ませていた心配事がとりあえず消えて、ようやく気が晴れる思いだった。大宮の具合も快方に向かう。
生まれた御子の顔立ちが、どう見ても狭衣の大将に似ている…大宮は、
「まあなんと思いがけない事よ。この御子の顔立ちは狭衣の大将そっくりですねえ。これほどまでに私たちを苦しませて知らん顔をしていた男が、あの大将だったとは…なんて薄情な」
と心の底からいまいましく思う。以前お見舞いにやってきたときの、狭衣と内侍典侍の和歌のやりとりが思い出される。乳母も「ますますあの歌を口ずさんだわけがわかりましたわ」とつぶやいている。大宮は、
内侍典侍が手引きしたのがそもそもの発端かもしれない。きっと二の宮が懐妊していたことも知っていたはず。私たちの画策も知られているに違いない」
と、他の誰に知られるよりも恥ずかしく口惜しく思う。この何ヶ月かの間、幾たびも親切に見舞った堀川家の好意が、狭衣の薄情さに消えてしまった。

中納言の内侍典侍は、
「あのお二人は御子をもうけるほど深いご宿世なのに、狭衣さまのほうはどうしてひたすら隠し続けて、あまつさえ帝の皇子にしようとしておられるのか。堀川大殿が、どのような賤女でもよいから狭衣の子がほしいと仰っておられて、このことを聞けばどれほどお喜びになることか」
と、狭衣そっくりの御子をお湯に入れながらため息をつく。乳母に、
「他人の空似でしょうか。この皇子さまは、だたもう狭衣の大将さまにそっくりにお見えあそばします」
と言えば、乳母は、(まさか内侍典侍が事情を知らないはずあるまい)と、とぼけたフリをする内侍典侍を情なく思う。乳母は「さあ。高貴なお方同士は直接血筋がつながらなくとも品格が似るといいますから」とあいまいに答えた。

お産の終わった女二の宮はだんだん快方に向かっていた。しかし心の内は、口惜しさと恥ずかしさで命も絶えそうな心地であった。そんな女二の宮を世話する母大宮の容態は、産養いの頃はごく普通に見えたのに、ある夕暮れ、突然はかなくお亡くなりになってしまった。娘の二の宮のお産を見届けようと、そればかりを念じて執念で生きておられたようなものだから、その願いがかなった今、ぷっつりと糸が切れるように命の火も消えてしまわれたのだろう、と乳母たちは嘆き悲しむ。娘の二の宮は、「自分も遅れ申さず死にたい」と念じたが、かなわぬことだった。悲しみの知らせが内裏に伝えられる。
他の后や女御より早く入内なさった大宮の訃報に、帝の嘆き悲しみようは並みひと通りではなかった。女二の宮をなぐさめるために、帝自らの御乳母である三位を使いとして差し出す。後を追いたいほどの嘆きようだった二の宮であったが、やがて大宮の四十九日である追善供養の日になった。

その日、内侍典侍のもとに狭衣大将がやってきた。大宮崩御の前後の事など語りつつ、内侍典侍は皇子の真相をほのめかした。すると狭衣は顔色を変え、
「女二の宮が私との子を生んだとは何と言う事だ。どうして今まで懐妊のことを私に話してくださらなかったのか。あなたは知っていたのだろう」
と言う。
「薄情なあなたさまのお心のせいで、どなたさまにとっても非常に残念な事になってしまいました。大宮さまは、ご心労から亡くなられたのでございます。二の宮さまも、後を追いたがっておられます。こうした全ての原因をつくったあなたさまをお恨みいたします」
と、泣きながら内侍典侍は語った。
「あなたは味方だと思ってたのに…確かに、私は身の程をわきまえない不心得ものだったかもしれない。内親王に近づいた恐れ多い行為は私の罪だろう。しかし、大宮が私のことを軽んじておられたとしても、私が大宮を空しく死なせようとしただなんて思わないでくれ。女二の宮降嫁の正式な勅許がない間は、私の焦燥を隠しておこうと思っただけなんだ。その間も、二の宮に逢わせて欲しいとあなたに何度もお願いしたのに、あなたが私の願いを無視せず聞いてくれていたら、懐妊のことにも気がつくことができたのに。あなたのよそよそしさが情ないよ」
責任を他人に押し付ける、狭衣のそんな物言いが内侍典侍は腹立たしい。
「ご自分だけがうまいことを仰って責任逃れでございますか。他人のことはおかまいなしなのですね。…でも今日の対面で、あなたさまが二の宮さまのことをおろそかに思っていないことがわかりました。ご降嫁に反対していた大宮さまもお亡くなりになられたので、今上はご降嫁の件にさらに積極的になられることと思います」
そんなふうに言う内侍典侍の様子を見ながら、内心、
『降嫁の話が具体化すればするほど、源氏の宮への想いが絶望的になっていってしまう』
と、かえって物思いが加わる狭衣であった。

故大宮の四十九日も終えてしばらくたつと、内裏の帝より「一日もはやく宮中へ戻られるように」と女二の宮のもとへお使いがくるようになった。しかし二の宮はいまだ母宮を思って起き上がることすらできない。帝は、母宮の死という不幸な出来事があったが、娘の二の宮と狭衣の婚儀をなるべく早く年明けにでも、と思っているので準備を急がせている。女二の宮の乳母たちは、あの若宮の父親が狭衣ではないかと、大宮の存命中から疑っていたが、二の宮は、故母宮や乳母たちに知られていたことなどまったく気づいていない。二の宮は、このような親不孝をしでかした自分、おのれの不始末から心労をおこして亡くなった母宮へのつぐないばかりを考えており、どうかして婚儀前に死んでしまいたいものだ、でなければ出家して母宮へのつぐないを生涯続けたい、と思っていた。だが宮ひとりだけでは何もできない。宮にできるたったひとつの抵抗は、湯も飲まず食べ物にも見向きもせず…そんなことだけであった。
父帝からは心配のあまり、ひっきりなしにお使いがくるが、二の宮は父に会うことはもう考えていないのだった。帝や乳母たちの心配をよそに、二の宮は日に日に弱っていく。
もう今日が最期ではないか、というくらい弱々しくなったある日の夕方、内裏より少将の内侍というお使いがやってきた。もうほんとうに明日までは生きてはいられないだろうという具合だったので、二の宮は少将の内侍を近くに召し寄せ、
「もうこのようになっては明日まで生きてはいられそうにありませんので、仏におすがりしとうございます。父帝に出家のお許しを、どうか…」
とつぶやいた。少将の内侍はたいそう驚いたが、内裏に戻り帝にその旨を伝えると、帝も驚きのあまりものも言えないくらいであったがやがて、
「頭も上げられないくらいの重態ではあっても、あれほどお美しいご様子をどうしてむざむざ出家姿に変えることができようか。私の亡き後ならばどのように自由になさるのもよい。だが、私の命のある間は在俗の姿でいておくれ。どうか、気をしっかり持つように」
との言葉を二の宮に使わした。
父帝のお言葉はもっともなことではあるけれど、母宮に苦悩をもたらした罪深いこの身、生きる甲斐など何もないのにどうしたらいいのか、と気を落とした女二の宮は、さらに一層弱まっていった。弱々しい息の下で、
「…私を少しでも哀れに思うなら、…どうか出家のお許しを…」
と繰り返している。この様子を聞いた帝は、
「なるほど。最期のご遺志にそむいて出家を妨げたとしたら、宮の来世のためにどうであろうか。私としては、させかねる思いだが」
とついに帝は出家の許しを与えた。しかるべき筋の高僧に作法どおりの出家の手続きをさせる。剃髪、その後の読経の鐘の音を聞く女房たちの気持は現実のこととも思えない。横川の僧都が二の宮の髪を自分の手元にかき出して削ぎ申すのも、乳母たちはわが身が削がれていく思いで見ている。剃髪は、お亡くなりになるのを見届けるよりも悲しく、心を押し静めることもできずに乳母や女房たちは、声をあげて泣くのだった。
受戒の儀が終わり、内裏にその様子が伝えられると、帝は大宮が薨去なされたときにも劣らないほどの落胆ぶりであった。
しかし、仏の功徳があったのか、受戒の儀式を終えてからの女二の宮の容態は持ち直し、少しずつ快方に向かっていった。尼となられてからは気持も安定し、なんとかして生き長らえて生涯仏道勤行したいと、このうえなくさっぱりとした心持で過ごせるようになった。


狭衣大将は、女二の宮の一連の話を聞き、ひどく残念で悲しく思うのだった。たしかに思いのほか気に入るようなところはなかったが、二の宮のご身分や事情を考えればどうしておろそかにできようか。たわいもないお心癖で、大勢の人を破局にいたらせてしまった事について、狭衣はたいそう自分自身を責めたが、それでも、もう一度女二の宮に逢ってみたいというけしからぬ気持を捨てられないのだった。以前狭衣が忍び込んだ時の、二の宮のご容貌、髪のつや、肌触りを今も目の前にみる心地がして、出家なさったとはいえ心が妖しく騒ぐ。出家して、もう二度と逢う事はできないのだと思えば思うほど、女二の宮のことがしみじみと思い出され、口惜しくてたまらない。恋しい女人と別れた後朝の朝のような気持に惑わされる狭衣だった。