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狭衣物語



その五

狭衣さまの子供を身ごもっている事を知られないうちに死んでしまおう、飛鳥井の女君がそう思い始めてから5日たった。船の上の生活が続いていたが、女君は水を見もしない。乳母を見るにつけ、こんな裏切りをするような者をいままで頼みとしてきたことよ、と情けなく思う。
道成は、「無理強いしたのは確かに自分だが、いずれは許してくれるであろう、しかし、どんな男だかわからないがこの嘆きぶり、それほどまでに愛していたのだなあ」と思っていた。女君にいろいろ尋ねるが、
「私は、あなたさまが嫌いなのではなく、もともと病気がちで気分が悪いだけなのです」
と、弱々しく答えるだけ。乳母もあれこれ女君の気をまぎらわそうと、立派な調度類などを見せたりするが、女君は死ぬ事ばかりを考えていた。


あの夢が不安で仕方がない狭衣は、夜が明けるのを待ちかねるように、飛鳥井の女君のもとへ文を遣わした。お使いの者が尋ねていったところ、鍵が閉まっていて人気もない。戸を叩いてみると、のっそりと下男が顔を出して、
「この家は某少弐が先月買いました。その方の娘が明日引っ越してこられますからそちらに聞いてはどうですか」
と言う。近所の者に聞いて回っても、はかばかしい答えは得られなかったので、そのまま主の狭衣に伝えた。
「なんということ。私を気に入らなさそうな眼で見ていたあの乳母の仕業だな。しかるべき場所を早く見つけて、あの家から連れ出せばよかった」
呆然とする狭衣だった。
『飛鳥井の女君は、たしかに高貴な身分ではないかもしれないが、私の心をさらけだしても、素直に受け入れてくれる人だった。ひかえめなしぐさが愛らしく、いつまでも守ってあげたいと思っていたのに…』
とみっともないほどに心を乱すのだった。

気持ちが塞がった毎日を過ごし、いつしか秋も末になった。
飛鳥井の女君の面影を思い浮かべては涙を袖でかくす日々を送る狭衣。
なによりも、女君が夢の中で身ごもっていたのが気になって仕方がない。
『いったいどんな男が女君を連れ出したのか。腹の子をどう思っているのか。もし、本当だとしたらその男が我が子として扱うのが口惜しい。自分の子が、どことも知れぬ賤家で育つなど』
夕暮れの空を眺めては女君を想い嘆く。狭衣のこれほどの様子をもし飛鳥井の女君が見ることができたら、入水をしようなどとは決して思いはしなかったであろうに。


船の旅が進む。飛鳥井の女君は人目のない機会をうかがっているが、なかなか一人きりになれない。
道成は早く女君と契りを結んでしまいたいが、いつも拒絶されてしまう。強いて踏み込むような無体なふるまいができない男であった。
そうこうするうちに、道成に新しい通い所が出来た。れっきとした身分の女房が船にいて、その女房のもとへ通うようになったのを女君は『姿がみえなくてせいせいする』とうれしく思うが、乳母は腹立たしい。
道成が姿を見せなくなったある夜、乳母がたまたまいない時があった。飛鳥井の女君がふと気がつくと、あたりは皆寝静まり、だれも自分に気付く者はいない。
女君は思った。今しか死ねるときはない、と。ふらふらと部屋を出て船べりに向かう。あたりをぐるりと見渡すと、夜空には雲ひとつなく、澄んだ空気に月が美しく輝いている。下を見れば、寄せ来る波が自分を誘っているようだ。
『はやくしないと、人に見つかる』
女君はふるえながら、単衣に袴だけを着て長い髪を前にたらした。その時、狭衣が道成に手渡した、あの扇を懐に入れてあったのに気がついた。
『あの方は、私がこうして死んでゆくのもご存じなくて。少しでも私のことを思い出してくださっているのだろうか。

…あの女は海の藻屑となり果ててしまいましたと、この扇の風よ、都のあの方に伝えておくれ』

扇に歌を書きつける。向こうで人の気配がする。早く飛び込まなくては、ぐずぐずして引き止められでもしたら、こんなに恥ずかしいことはない。女君が船べりから身を投げようとしたその瞬間、誰かの手が女君を引っ張り戻して、すばやく他の船に移らせた。女君はびっくりして現実のこととも思えず、されるがままになっていたが、やがて、ああ私は死ぬ事に失敗したんだわ、と口惜しさと恥ずかしさでいっぱいになった。
「恐がることはない。わたしはそなたの兄だ。この数年間、そなたの行方をずっと捜していたのだが、最近になってようやく住まいがわかった、というわけだ。ようやく会えた。これも仏のお導きだ。しかし、なぜ身を投げようなどとバカなまねをしたのだ」
と兄と名乗る男がやさしく尋ねた。確かにこの声は幼いときに聞き覚えがある。当時、兄は目が不自由になり、両親に見捨てられ、そのまま行方知れずになってしまったので、出家して世を捨ててしまわれたかと、女君はずっと思っていた。こんな状況で再会できるなど、うつつの事とも思われないが、とりあえず心が少し落ち着く気がした。
二人が乗り移った船は、そのまま京に向かう。道中、兄は妹をこと細かく慰めた。しかし、妹の心を乱れさせるような、入水のことには触れなかった。
やがて京に着いた。兄は妹を、常磐の里に住んでいる親戚の伯母の尼君のもとへ連れて行って言った。
「さて。詳しくきかせてもらおう。一体どんなつらいことがあって、入水などということを考えたのか。はじめから詳しく教えてくれないか」
「…どうしてもこの世には生きていけない、と感じるようになりました。船に乗ってからは、さらにその思いが強くなって…。いい加減な気持ちではありません、決して。でも今はお兄さまにお会いできました。どうか私を尼にしてくださいませ」
女君は泣きながら訴えた。伯母の尼君ももらい泣きして、
「なにか深い事情があるようですね。あなたはどうやら身ごもっているご様子。どうして尼になどさせられましょうか。とにかく、お産をすませて身を軽くしてから、どうにでも決意なされては」
と言う。兄ももっともなことだと賛成した。とりあえず、人目につかないように妹をここに隠して、兄は修行のための参籠に出かけていった。


冬が近づいた。
源氏の宮への想いは相変わらずだが、飛鳥井の女君が気がかりで仕方ない狭衣は、毎日袖を濡らす思いで過ごしている。
道成の弟で道季という雑色がいた。兄の道成が筑紫へ下ったあと、狭衣の従者としてお忍び歩きにも加わっている。狭衣の日ごろの嘆きを見ている道季は、「どうか仏様、あの女君の行方を狭衣さまにお教えください」
と毎日念仏を唱えていた。
ある日、筑紫に向かう道成の父から手紙がきた。『道中、息子の妻が亡くなりました。そのため、備前国に逗留しています。めでたい赴任だというに、このような縁起の悪い事になりまして』とある。
「道成は秘密裡に女を連れていったが、女は死んでしまったのか。あっけないものであるな」
とつぶやいた。狭衣は、ひとり脇息にもたれていると、道季がやってきて、
「不審な事を聞きました。兄の妻は海に身を投げたのだそうです。女の乳母が泣く泣く申していたとのこと。
…私が思うに、兄はあの女君を筑紫に連れて行ったのではないでしょうか。兄が女君を見初めたころに話してくれた様子と、狭衣さまがお通いになっていた女君の様子が同じように思われます。しかし、兄はあなたさまが女君のもとへお通いになっていたとは知ってはいなかったようです。もし、このことが本当のことであれば、なんともはや」
と言う。狭衣は、
「そういこともあるかも知れないな。あの道成は相当色好みだ。私と女の関係をもし知っていたとしても、それくらい平気でやるだろうよ」
と言葉少なにつぶやく。道季なそんな狭衣を気の毒に思った。
『もしこのことが真実ならば、行方知れずで心配していた時よりつらいことだ。一晩二晩の関係じゃなかったからなあ。道季はああ言っていたが、あの道成のことだ、女に通っている男が誰か、知らないはずはないだろう。返す返すも口惜しい』
狭衣はそんなふうに侮られたことがいまいましかった。


年が改まって、狭衣中納言は大納言になり近衛大将を兼任する身となった。
官位は年毎に積もり、何事につけても際立ち勝ってゆくので、周りの人々も「すばらしすぎて恐いくらいだ」とささやきあっている。狭衣の両親も天人来臨の出来事が頭を離れず、またあのようなことが起こりはしないかと胸を痛めていた。
以前、右大臣が娘を入内させようと、東宮の御内意を伺った事があったが、『まず源氏の宮を』という返事をいただいて、ひどくがっかりしたという。堀川大殿はこれを聞いて、
「うれしいお心ですが、源氏の宮はもう少し成長してから、と考えておりますので、右大臣の御娘をまず入内させてはいかがでしょうか」
と東宮に申し上げる。それで右大臣は大急ぎで入内の準備にとりかかっていた。
帝は、女二の宮がすばらしく美しく成長されたのを御覧になるにつけ、女二の宮の母君である大宮のことが気になっていた。堀川大殿の北の方の一人である坊門上の娘が中宮としてときめいている宮中で、大宮は圧倒されひっそりと暮らしている。大宮は競争がましい性格ではないので、中宮と親しくするのも遠慮している。そこで、愛娘女二の宮と狭衣を結婚させることにより、女二の宮の後見に狭衣を、という考えはたいへん良い思いつきだと帝は満足していたのだが、一向に狭衣から反応がない。
ついに、大殿が参内した際に帝は、
「かの天人来臨の際の私からの授け物(女二の宮)は、狭衣の気に入らなかったようであるが」
と切り出した。大殿は、
「御降嫁の御意向に対して、気が向かないなどということがありましょうか。御内意ということで、正式なお言葉もございませんでしたので、ご遠慮申し上げておりました。すぐに準備いたします」
とあわてて返事する。それでは四月に、と帝は言った。

内裏から自邸に戻り、大殿は狭衣の大将に、
「帝から、しかじかの仰せをいただいた。そなたが気が進まないのは知っているが、帝にどうしてそのようなことが言えるかね?なにがそれほど気に入らないかは知らないが、これ以上の身分の女人がどこにいる?女二の宮をお迎えする準備をしなさい」
と伝えた。狭衣は心を殺して、
「何も不服はございません。気が進まないと申し上げたのは、常日頃、気ままに暮らしていますので、女二の宮と結婚すれば何かと窮屈なことでもあろうかと思いまして。今しばらくは自由でいたい、そんなつまらない気持ちから出た言葉なのです。しかし、女二の宮の母宮であられる大宮が、降嫁などあるまじきこと、と仰せになってるようですが」
と言った。
「気にすることはない。全ては帝の御心次第だ。あちらは一応我が中宮とは敵対関係ともいえるからな、それでそなたに降嫁するのを抵抗しておられるのだろう。帝は賢明な方だ。母方に後見がなくて、いずれ将来の後ろだてを捜さねばならない。そなたに女二の宮をたくすのは最善であるよ」
大殿がそう言うにつけ、狭衣は父君のいうことももっともな事と思われた。しかし源氏の宮への想いをどうして断ち切ることができようか。女二の宮を格別愛してもいないのに。あいまいな態度でいれば、降嫁の話はそのうちうやむやに消えてしまうだろうと思っていたが、そうはいかなくなったことを狭衣はひどく嘆いた。


何日かして、狭衣は女二の宮付きの上臈女房である中納言内侍典侍のもとを訪れた。帝の御内意を知ってから、女二の宮の住んでおられる弘徽殿には近づきもしなかったが、こうなれば仕方がない。しかし、かんじんの内侍は所用で不在とのこと。出鼻をくじかれた狭衣は、本意ではなかったが、清涼殿のあたりをウロウロしていると、筝の琴がほのかに聞こえてくる。盤渉調がたいそう忍びやかにあたりに洩れて、狭衣が心ひかれて戸口にもたれて聞いていると、その戸が少し開いた。開けて中に入れば、琴の音がすぐ近くに聞こえる。夜も更けて、人の声もほとんどしない。
狭衣は障子をそっと開けて、几帳の間を通り、母屋に入った。中には姫君が二人寄り臥している。どちらが女二の宮だかわからない。多分、筝の琴のそばにいる、あのお方が女二の宮であろう、と判断した。髪が絹のように衣装によりかかっているのがすばらしく美しい。
離れたところに2,3人の女房が侍っていた。何か話しているのを聞いてみると、狭衣自信のことだった。「あのときの天人御子のめでたさったら」「狭衣様が、笛をもてあそびながら悩んでいる様子のなまめかしかったこと」
など言いあっている。
「あの時の様子をなんとかして絵に残そうとした人がいたんですが、天人御子はともかく、狭衣様の光輝く様子がどうしても描けなくて、とうとう破ってしまったそうですわ」
女房の言葉に起き上がる姫君がいた。こちらが女三の宮であろうと思われる。
「まあ、残念だわ。とても見たかったのに」
など、たいそうかわいらしく愛敬のある声だ。女二の宮はといえば、なにも話してはいなかったが、他の女房たちの語らいを微笑みながら聞いている。その口元や笑みがあまりに美しいので、狭衣は、
『ああ、これこそ比類ないといわれる女二の宮だ。お姿をこんなに真近で拝めるなんて。関心がないとずっと思い続けてきたが、これは離れられそうにない美貌だ』
と、夢を見ているようである。
夜がさらに更けていくにつれ、女房が減り、中将と呼ばれる女房が女三の宮のそばで寝た。少し離れたところで筝の琴を弾いていた女二の宮も、やがて横になって寝た。その様子を隠れて見ていた狭衣は、女二の宮の、息も止まりそうな美しさに圧倒されていた。あれほど女二の宮のことが面倒でずっと敬遠していたのに、これほどの心の変わりようはどうだろうか、と狭衣は自分の気持ちが我ながら憎らしい。急に何かに憑かれたような気持ちになって、狭衣は女二の宮を抱き上げ、奥の御座に引き入れた。男に抱き上げられたのに気がついた女二の宮が、「あなたは誰」と震えているのがたいそう上品だ。

『あなたを下さるという帝の仰せに、その日を待ち焦がれて、私はもう焦がれ死んでしまいそうです』

とつぶやいたので、女二の宮には、この男が狭衣だとようやくわかった。恥ずかしさのあまり、わけもわからず泣いている女二の宮は、近くで見れば見るほどいっそう美しさが増すようだ。とてもこれきりでは立ち去れそうにない。
「ご安心ください。帝のお許しもないうちに、決して無礼はいたしません」
となだめても、女二の宮は衣装を引き被って困惑している。その一重の衣装も透間が多くて、宮の身体の柔らかい肌触りが直接伝わってくる。その肌に、以前源氏の宮に恋心を打ち明けたときの、彼女の腕を思い出した。
『こんなところを女房にでも見られたら…源氏の宮への積年の想いは終わってしまうのだろうなあ。禁じれらた恋に絶望して出家したいといつも思っていたが…美しい女二の宮のご様子を目の当たりにすると惑わされてしまう』

不埒な心に憑りつかれた狭衣は、そのまま女二の宮に覆いかぶさっていった。

 

酔いが醒めたように正気に戻った狭衣が女二の宮を見ると、やはり正気もない有様でひどく泣いていた。ああ、憂き身にまた重い契りを結んでしまったことよ、と浅ましく胸が苦しくなる。こんなことになったって、急に心を入れかえて帝の仰せのとおりに女二の宮と結婚しようなどという気にもなれず、そうかといって、契りを結んだ事が帝に知れでもしたら、なんと思慮のない男だと、そう思われるのも恐れ多い。
「誰にもお話にならないように。公式にお許しのない間は、普通以上にお目にかかったりできないものですから。お手紙は中納言の内侍にお渡します。どうか私を不安にさせず、お心にない愛情でもかけてください」
冷たい慰め方だ、と女二の宮は思った。しかも、中納言の内侍にも言ってはいけないなどという狭衣に、宮は失望を感じた。
もうすぐ夜が明ける。どうして契るようなことをしてしまったのだろう、と狭衣は後悔した。あの戸が開いていたのが悪いのだ。なにもかもわずらわしくなった狭衣は、そそくさと帰って行った。


翌朝、女二の宮のもとに、母君である大宮がおでましになった。ふと見ると、そばに見たこともない上品な白い懐紙が落ちている。これは一体誰のものか。誰かが落としていったのか。手にとると、えもいわれぬ香りがあり、それと同じ香りが我が娘にも移っていた。明らかに娘の様子がおかしい。衣装などがわずかに乱れ、泣き明かした後もある。昨晩のうちに誰か男がやって来たに違いない、と大宮は確信した。誰か手引きした女房でもいるのだろうか、これほど尊い身分の娘のもとへ男が忍び込むことなど信じられない事だった。
女二の宮は、母君のただならぬ様子を見て、ああ気付かれてしまったと、恥ずかしさのあまり顔も上げられない。

女二の宮のもとを逃げるように辞した狭衣の大将は、そのまま異腹の姉である中宮のところに行った。とにかく、後朝の手紙を書かなければならない。

『…昨夜の仮寝を、かえって夢と思いたいものです』

われながらなんというよそよそしい和歌。しかしこれしか思い浮かばない。狭衣は、この手紙を持って、中納言内侍典侍のところへ行った。

「おまたせいたしました。少々風邪をひきまして、今まで休んでおりました」
「昨日の晩も、君に会いに行ったんだけどね。見放されたかと思ったよ」
「申し訳ございません。でも狭衣さま、御降嫁の件もだんだんと具体的になってきておりますのに、いつになったらお気持ちをはっきりとしてくださるのですか。これ以上理想的な縁談はございませんよ」
「さあてね。私はこの世にこれ以上生き長らえそうになくてね。とても現実的な話とも思えないよ。もっとも、父君などは私のこんな考え方を、ひねくれものと見ているようだがね」
「あなたさまのお心次第ではございませんか。どうぞお気持ちをしっかりと持たれて、御降嫁の話、前向きにお願いしますわ」
昨夜の出来事を何も知らない内侍は、狭衣が、ただ己の人生が短い予感のことを考え降嫁をしぶっている、と思っていた。
「行く先のはかなさなど、そんな聖僧のような言葉はおっしゃいますな。女二の宮さまのお姿をご覧になったら、そのような鉄のお心も溶けてしまいますとも」
「君にそんなふうに吹き込まれると、意固地な私も心変わりしてしまいそうだなあ」
そういいながら狭衣は、懐から手紙を取り出した。
「…本当はね、この手紙を持ってきたんだ。ごく内密に差し上げてくれないか。母君には見せないように。私の手蹟をあなどられるのが怖くてね」
「ま。ご冗談を。でも大宮さまにもお見せしても、具合の悪い事は何もないと思いますけれど」
「いやいや母君になんと思われるか考えただけでも恐ろしい。どうかこっそり女二の宮さまにだけ渡しておくれ。見終わった後は破り捨ててほしい。頼むよ」
内侍は、どうして狭衣がここまでこだわるのか不思議だった。
「…実を言うとね、君がいつもいつも私に女二の宮さまの美しさを宣伝するものだから、ほんのちょっとの垣間見でもできたらと思ってね。お会いしたらこの世にもう少し長くいてもいいんじゃないか、と希望がわくかも知れない。もし不都合がなければ、今夜にでもお逢いしたいのだけど」
狭衣がいつになくあせって言うので、内侍はとうとう結婚する気になったかと、うれしく思ったが、
「困りますわ。ご結婚もなさらないうちに、顔なじみになられるなんて。それにお相手は皇女さま。垣間見など身分上、不可能でございます」
と言う。

『逢坂をなおゆきかへりまどへとや関の戸ざしも堅からなくに』
もうとっくに逢っているんだけどな、と狭衣は内心手薄な警備を侮る。


「まあ、機会があったらでいいから」そういいながら狭衣は帰っていった。
内侍は、『関の戸ざし』ってなんだろう、おかしなお歌だわと、不思議に思った。





女二の宮はまだ放心状態でいた。そばで母君が呆然と娘を見ている。
その異様な光景を几帳のほころびからのぞいた内侍は、「おかしいわ、なにかあったのかしら」と不審に思う。
今まであれほどいやがっていたのに、急にお手紙をくださった狭衣さま。それにあの『関の戸ざし』のお歌。ひょっとしたら。ああ、お手紙の中味を見ることが出来たら。
こんな沈んだ雰囲気の中で、何も考えずに先ほどのお手紙を渡したら、不都合なことが起こるかもしれない。それに、手引きしたのが私だと大宮さまに誤解されるのも困る。とにかく今はこのお手紙を見せてはいけない。そう自分に言い聞かせて、内侍は二人の前にすすんだ。

「…昨夜までなんともない様子でしたのに、にわかにご気分が悪くなられたようなのです。気分がもとに戻られたら、私の部屋までおいでになるように」
そういい残して、大宮は帰っていった。
二の宮はおし黙ったままである。そばには狭衣の香りが移った懐紙が置いてある。この様子を見た内侍は、昨夜何が起きたのか、すっかりわかってしまった。
手引きもなしにどうして逢えようか。しかし、手引きの者がいれば、こうして私に手紙を託すなどしないはず。

「二の宮さま。今朝狭衣さまが、このお手紙を差し上げよと、お渡しくださいました。お断りすることもできませんで…」
とそばに手紙を置いた。
「…見たくありません」
昨夜のことを、狭衣はこの内侍にすっかり話して聞かせているだろうと、二の宮は恥ずかしさのあまり死にたい気持ちになる。
この手紙さえ大宮に見せれば、少なくとも忍び込んだ男の素性で、大宮が頭を悩ます事はなくなる。でも…。
と内侍は、この事件が自分の責任のように思えて仕方がないのだった。


『あれほどうとましく思っていた女二の宮との話なのに、どうして自ら危ない橋を渡るようなマネをしてしまったのか』
自業自得とはいえ、狭衣はくよくよと悩み続けていた。
いても立ってもいられず、中納言内侍典侍のもとへ手紙を書く。
『今朝頼んだ手紙の一件はどうなりましたか?そのことばかりが気になって。今宵、二の宮にお逢いできるでしょうか』

中納言内侍典侍から返しがきた。
『お手紙の事は申し上げましたが、さあ、どうなりましたことやら。どうやら、あなたさまは恋の道は知らないとおっしゃりながら、逢坂の関までも尋ね入ってしまわれたようですね。実は・・・』

それを見て、言い訳の出来ぬことを知られたものよ、と苦笑いする。
女二の宮がどうなっているのか気になるが、内侍にバレてしまった以上は、強いて逢わせろ、とも言えない。
源氏の宮のことをいくら愛していても、しょせん結ばれるはずもなく、かといって女二の宮に気持ちをすりかえられるはずもない。狭衣自身、あの仮寝はかえすがえすもまずかった、とひどく後悔していた。その気持ちから逃れるように、飛鳥井の女君のことを思い浮かべる。あの女君はいったいどこへ行ってしまったのだろう。思いがけない突然の別れ。さよならを言う事も出来なかった女君の姿が鮮やかによみがえる。
そんな想いにひたっていても、降嫁の件からは逃れる事は出来ない。あの仮寝のとき、白い懐紙を取り落とした事に気がつかなかったとは、せめて落としてさえいなければ、どうとでもごまかす事ができたのに。

これほどまでに身勝手な想いを抱きながら、狭衣は仮寝の誘惑に勝てず、ときおり幽霊のように弘徽殿に現れては、女二の宮のもとで一夜を過ごして行く。

そんな狭衣の思惑とは関係無しに、女二の宮との婚儀は進められていった。
帝も、
「婚儀の準備に、あなたが心忙しくされないのはいったいどういうことですか」
と大宮を暗に責める。大宮は、あの夜忍び入ったのが狭衣だとは知らない。知っているのは中納言の内侍典侍のみ。大宮は、この事件で娘の二の宮が狭衣に隔て心をおくのではないか、と心配している。だからどうにかして、この結婚がとりやめになってくれれば、と思っていた。


冬が去り、やがて三月になった。悩みがちに泣き暮らしていた女二の宮がひどく苦しむようになり、日に日に食が細り弱っていった。いったいいかなるご病気かと、大宮や帝はたいそう心配する。すっかりやせ衰えてしまった二の宮であるが、乱れた毛筋もなく、ぬけるような肌の白さがかえって上品に見える。
苦しそうにあえいでいる二の宮を看病しながら、大宮は、ふと二の宮の乳が黒ずんでいるのに気がついた。
まさか、これは妊娠しているのでは?ああそれならすべて合点がいく。
忍び込んだ男の話は、大宮が自分の胸ひとつにおさめていたのだが、妊娠ともなれば、もはや黙っているわけにはいかない。
二の宮の乳母たちを呼びつけて言った。
「このような事情になって。
おまえたち、いったいどこに目をつけていたのです。どうして今まで私に知らせなかったのですか。男が忍びこんだことを、よもやおまえたちが知らないはずはありますまい!」
突然告げられた事実に、乳母たちは驚き乱れ、ただ何も申し上げられずに泣き入っている。
「このところのご病気の様子を、物の怪のしわざとばかり…」
「宮さまは、よく月のものが狂うことがございましたので」
「女房たちに、なにか事情を知っている者がいるかもしれません。思慮の浅い下級女房などが手引きしたのではございますまいか」
など言い訳するのも聞き苦しい。
「これほどの尊い身分で、相手が誰とさえ分からないなんて、なんというなさけないこと。しかも腹の中に子までできようとは」
と嘆く大宮の顔に押し当てられた袖口がみるみる濡れていく。
「こうなれば、なんとしても今上さまに知られるより先に、宮さまを宮中からお出し申し上げてしまいましょう」
と乳母が言う。

母の大宮や乳母らが思案していると、なんとも間の悪い事に、帝のお渡りが告げられた。二の宮はつわりで息も絶え絶えであるが、なんとか帝に気付かれてはならぬ、と大急ぎで厚めの衣装をお着せになって腹の異常を隠す。
「よろしいですか。間違っても身ごもっていることをお気づかせにならないように」
と母宮は娘にささやいた。
まもなく帝がお渡りになった。

「御気分はいかがか。ずいぶん具合がよろしくないように見受けられるが。祈祷などはきちんとしていますか」
など、たいそう心配して、我が娘二の宮にやさしく問いかける。
ぐったりとしている二の宮であるが、よりかかる黒髪の光沢がたとえようもなく美しく見える。
これほど心配してくださるのに、もし娘の懐妊など聞こうものならどのようにお怒りになるだろうか、と大宮は考えるだけで悪寒が走った。ともかく今は二の宮の懐妊を知られてはならない。
「効き目が確かではないようですので、もう少し広くゆったりした所で養生させてみてはいかがでしょうか。きっとご気分もよくなると思うのですが」
と大宮が言うと、帝は、
「退出などすれば、しばらくお会いできなくなるではないか」
とため息をついたが、やはり二の宮の健康にはかえられず、母大宮の実家に移ることになった。