狭衣物語



その四


この飛鳥井の女君は、故帥の宮の娘であった。両親は亡くなられたが、女君の乳母が主計頭(主計寮の長官)の妻で、夫が亡くなった後、不如意な生活を送っていたため、金儲けを狙って女君をあの仁和寺の威儀師に売りとばしたのだった。女君のもとに毎夜のようにやってくる公達は誰だろうか、きっとあの者が大事な威儀師を追い払ってしまったのに違いない、しかし、急に威儀師ににらまれたら、私たちの生活はどうなってしまうだろう、など乳母はいろいろ考え、女君の前に進んで、
「あの威儀師がこの家と縁を切ってしまいましたならば、これからの生活をいかがいたしましょうや。最近、東宮妃として源氏の宮が入内なさるのに、身分ある女人が『我こそ女房に』と堀川殿に参られている、と聞きましたが、あなたさまもお頼みしてはどうですか。それに、最近そばにおられる方はいったいどこの誰なのですか」
と尋ねる。
「…賤しく貧しいこの身。どこのどなたかわかるはずもありません」
小さな声で女君は答える。乳母は、
「昨夜もあのお方がいらしたんですよ。門をどんどんと家来に叩かせて。検非違使庁別当の息子さま。数少なかったこの家の召使も、検非違使関係の方と聞いて、すっかり怖れて誰もこの家に近づかなくなりました。おかげで本当に暮らし向きに困っていますよ。ちょっとばかりご身分が高くてもねえ、私も年をとって、これからこの先あなたさまのことをどうしようかと悩んでるんですけど、誰があなたさまのお世話をしてくださいましょうや。ほんとうに私の足手まといになってしまわれて」
とため息をついた。
「お願い。私を見捨てないで。どこにでもついていきますから」
女君は力なくつぶやく。その姿に乳母は多少良心が痛むが、女君を世話してくれる人もなく、生活の頼りとなる夫の主計頭も死んでしまい、陸奥にいる知人のもとに身を寄せたいが、女君をどうしようかと悩んでいる。

狭衣は、飛鳥井の女君をたいそう愛しく思うようになった。こんなに美しく可憐な人なら、行く末までも世話したいものだ、私の身分につりあうほどではないが、ここまで執着できるほどの女人に出会ったのは初めてだ。
飛鳥井の女君を引き取って世話しよう、狭衣はそう決心した。


乳母は重荷を降ろすかのようにせっせと陸奥への旅の準備をしている。飛鳥井の女君は、
「乳母がいなければ、暮らしていく事などできないわ。何もできない私なのに。私も一緒に行きたい」
と泣き続けている。乳母は、
「なにをおっしゃいます。ようやくお世話してくださる人が見つかったというのに。私は、あなたのためだけに京にいることはできないんですよ。あなたの身の上には同情しますけど、今まであの威儀師の援助があったからこそ、生活もできたのです。でも、これからはそれもなくなってしまって…。
しかしまあねぇ、あなたの身を引き受けてくださるあの方(狭衣の事)も、いつまで大切にしてくださるかしらねぇ…。ご身分も何も明かしてくれませんし。飽きてしまわれたら、あなたは今度こそ本当にひとりぽっち…。そうですねえ、それを考えるとやはり私と一緒に陸奥へいきましょうか」
などと言いながらどんどん出立の準備を進めている。飛鳥井の女君はもう途方にくれてしまっていた。確かにあの男君はご自分のことをはっきりおっしゃらないが、お会いしたときの物言いや風情・きちんとした態度などを見るにつけても、女君は、信頼できる方だと次第に感じてきている。
乳母が共に陸奥へ連れて行ってくれるときいて、ほっとする気持ちはあるものの、そうなれば男君と逢えるのはあと幾日だろうと心細くなるが、かといって男君に「いついつに出立します」などとほのめかすのも遠慮されていえない。そんな女君の物思いの態度に、狭衣は、
『こんな名も明かさないような態度だから、頼りにならないと思われているのだろうか。しかし、身分につりあわないような女人との不思議な出会いを、他人に話すわけにもいかないし』
と少し心苦しく思う。
「あなたも、自分は名もない漁師の子、とでもおっしゃってくださいな。そうしたら私も名乗りましょう。どちらが先に話すか、こうなったら根気比べですね」
狭衣はやさしく笑いながら言う。自分の好意の並々でないことを、いつか彼女はきっとわかってくれるだろう、とのんびり構えて過ごした。

いつしか、季節は変わり、暑苦しかった夏も、秋になった。


伊勢物語の業平の勢いにまかせて、狭衣が源氏の宮に思いのたけを打ち明けてから、源氏の宮は狭衣を避け続けている。「避けられてもあたりまえだ」と狭衣は思うが、表面上は努めて平静を保っていた。が、心のうちは湧き出る岩清水のように恋心があふれてどうしようもない。
思いを抑えかね、ある日の昼、狭衣は源氏の宮の住む対の屋へ行った。そこにはちょうど、狭衣の母斎宮の上がいらしていて、源氏の宮と碁を打っていた。
「ああ、審判役をおつとめすればよかったですね」
と狭衣が近づいていくと、源氏の宮はたいそうきまり悪く思い、碁を途中で止めて、ことさら狭衣の視線を避けようとする。
…ああやはりたとえようもなく美しい、あの飛鳥井の女君と和歌を詠み交わして契りを結んだことは一時の迷いだったのか。冷静に考えてみれば、我ながらあきれたことをしたものだ。この源氏の宮の比類なき美しさを前にすれば、少しでも劣っている女人(飛鳥井女君)を世話するなど、まったくばかげたことではないか。やはり行く末を誓うのは、源氏の宮以外にありえない。しかし源氏の宮はいずれ東宮妃…。
思い悩む狭衣は、情けない顔をしているのではないかと姿勢を正して、
「どちらが先手をうっていられるのですか」など二人に尋ねる。
母斎宮の上はそのことには触れないで、
「昨夜のことですが、内裏よりご使者が参りそなたをさがしておりました。だれもそなたの外出先を知らなくて、心配しましたよ。女二の宮付きの侍従の内侍のもとにお手紙を出して、そなたの気持ちをほのめかしなさい。父君は、そなたがお手紙を出さないのは間違っていると、たいそうお怒りです」
非難めいた口調で言う。
狭衣は言葉がでなかった。飛鳥井の女君の事は秘密にしているのである。そうか、最近父君の機嫌が悪いのは、このことだったのか、と涙が出そうになる。そのうつむきかげんのうれい顔は、さながら鬼神もなびくよう。母君はあわてて、
「何事もあなたの思うとおりに、と私は思うているのですけど、父君とあなたの意見が違っているのはどうしたものでしょう」
と言う。狭衣は話をそらそうと、
「そういえば、洞院の方の西の対の部屋のしつらいがなおされているようですが、どうかしたのですか」
と聞いた。母君は、
「さあ。故一条院の后の宮に仕えていた伯の君の娘がいらっしゃるそうですよ。母の伯の君がお亡くなりになったので、洞院の上が引き取られたそうですが。その方をお迎えするために、手入れし直されているのではないかしら。その伯の君には、事情のある不審な男の子もいるようですよ」
含みのある調子で答える。あるいは父君が、その伯の君とやらに産ませた子なのであろうか、と狭衣は考えた。
「そうですか。その男の子も、うちの父君の子であればいいのになあ。私には兄弟がいないから。そうしたら、私が死んでも、私のことを時々は思い出してくれる兄弟ができる」
そういうと、母君は血相を変えて「なんと不吉なことを言うのです」など言う。
「狭衣や、あなたは思い出してくれる人さえいない、と嘆くけど、異腹の姉君であられる中宮さまがいるではありませんか。それに、源氏の宮もいる。狭衣、そなたは普段からあまり源氏の宮と親しくはしていないようだけれど、源氏の宮の遠慮深さに甘えてはいませんか。もっともっと打ち解けて親しくしてもよいと思いますよ」
何も知らない母君は言葉に力を込める。狭衣は、源氏の宮との仲のことを指摘されたので、ぎくっとして顔色が変わる気持ちになる。源氏の宮はこの状況をどう思うだろうか。几帳の中に入ってしまわれた姫君。抜け殻のようにぼうっとしているに違いない。
季節は秋の始めだが、まだ暑苦しくセミが木立で鳴いている。蝉の鳴き声が増すように、源氏の宮への思いも増していく狭衣。誰にも聞こえないよう、

『…蝉は声をあげて鳴けるが、私はただ声を出して泣かないだけなんだよ』

と和歌をつぶやいた。
漢詩を詠うと、近くの女房たちが「まあどうなさったのかしら。めずらしいこと」と聞きほれている。狭衣がいる限りこの堀川はいついつまでも安泰だと、邸に仕える者たちはすっかり安心しきっていた。

日が暮れて、苔むす前庭に植え込まれた花のさまざまな色合いを眺めているうち、やがて虫の鳴き声が聞こえ始め、美しい鳴き声で庭が満たされていく。「私だって泣きたい思いをこらえているのに」と狭衣は思う。
月ものぼり、夜が更けた。あの狭い軒端で飛鳥井の女君はどうしているだろうか。こんな月の夜も一緒にいたものだ。やはり忘れられそうにない。
会いにいってみようか、と牛車を向かわせた。

訪問してみれば、狭衣の想像していたとおりで、飛鳥井の女君は蔀もおろさず、端近に出て月をながめていた。そのたよりなさそうな様子に狭衣は思わず強く抱きしめて、逢えなかった時のあれこれを優しく語る。が、昼に見た源氏の宮の美しさを思い出し、
『源氏の宮とのことがかなえられないならば出家を、とも考えたのに、やはり、この人を見れば可憐で愛しく手放せそうにない。どうしてこんな縁を持ってしまったのだろう』
と後悔する。
「世間並みのこともできないような私だけど、あなたに出会ってから、どんどん心ひかれていく有様ですよ。もし、私が出家でもしてしまったら、あなたはどう思いますか。あなたに飽きられないうちに離れた方がいいんでしょうかねえ」
涙を拭いた袖が少し濡れたようすが月影に浮かび、そんな狭衣の姿を見ていた飛鳥井の女君は、
『このお美しさ、まさか、この方は音に聞こえた狭衣さまではないかしら?きっとそう…。でも、もしそうなら、私は狭衣さまのご寵愛をあてにできる身などではないわ。身分がまるで違う…。飽きられないうちに離れた方がいいなんて、私こそこの方に見捨てられないうちに離れた方がいいのではないかしら』
と泣きそうになる。泣くのをはしたないと思ったのか、顔を袖で隠しながら、

『…わずかにお会いするだけでこんなに恋しく思うのに、もうお目にかかれないのでしょうか』

と歌を詠む姿がなんとも可憐で可愛らしい。狭衣も、

『あなたを愛する心は決して浅くはないのですから、私たちの縁はいついつまでも途絶える事はありませんよ』

と詠みかえす。
「あなたには本当のことを打ち明けますよ。…私はいろいろな人間関係から本意ではない結婚を強いられているのですが、たとえほかの女人と結婚しても、あなたに対する私の愛情だけは決して変わりませんから」
狭衣は、帝の娘女二の宮との結婚のことをほのめかした。
それを聞いて飛鳥井の女君は、『私も、このような理由で陸奥へ行きますと打ち明けて、この方の様子を見てみようかしら』と考えたが、泣く泣く決心した東国行き、すこしも行き甲斐のないところでもあり、何よりそのようなことを打ち明けるのはたいそうみすぼらしく恥ずかしい。『やはり黙って姿を消してしまおう、その方が、黙っていなくなるなんてあきれはてた女だなあ、くらいに思われて、すぐに忘れられてしまわれるに違いない』と考える。
しかし、涙が止まらない。狭衣はそんな女君の姿を見て、かわいそうなことを打ち明けてしまったと、少し後悔した。


それからしばらくして、堀川大殿は故伯の君の娘を洞院の西の対の屋に迎えた。洞院の上はたいそう華やかに、この今姫君にかしづいている。
この今姫君は御年二十歳で、ずいぶんおおらかでおっとりとしており、洞院の上は、『よい方をお迎えした』と喜んだ。
今姫君は年の割にはあまりにおっとりとしすぎていて少し思慮分別が足りないのでは、と思わせるところがあった。この頼りなさそうな性質を心配していた実母の故伯の君も乳母も相次いで亡くなり、呆然としていたところを、母代わりの女と共に、洞院の上に引き取られたのだった。この母代わりの女というのは、実母の遠縁にあたる女である。
あまりの急な環境の変化に今姫君はどうしてよいかわからず、ただ毎日ぼんやりしていたが、母代の女はそんな今姫君を大げさすぎるほど派手に世話し、そばにお仕えする女房がこっけいに思うほどもてなす。
長年、子供のいる坊門の上や斎宮の上をうらやましく思っていた洞院の上は、今姫君のことをそれは喜んだが、この母代の女の欠点が気になっていた。
堀川大殿のご機嫌伺いにやってくる公達が、今姫君の噂を聞きつけて、ここ洞院にも来る。ところが、このおかしな母代のおかげで、この西の対の屋は乱痴気騒ぎのめちゃくちゃになった。引き倒された几帳の向こうで今姫君は、このようなあさましい環境におかれたわが身がつらく、これも実の母君や乳母に死に別れたからだわ、と隠れて泣くようになった。が、表面上は何事も考えてはいないようにおっとりとすごしている。それを母代の女はバカにするようになった。


秋の除目の直しの公事で、狭衣の中将は中納言に昇進した。めでたい昇進ではあったが、父大殿は以前の天人来臨の事件を思い出し、これ以上の加官は不吉なことでもありはしないかと恐れ、中納言昇進をいったんは辞退したのだが、帝の「他の若公達に混じって、いつまでも同じ官にばかりおられようか」との意向により、昇進したのであった。
狭衣は、昇進の挨拶をするべく、まず母斎宮の上のもとに出向いた。
「どうして今上さまは、そなたの昇進を急がせようとなさるのかしらねえ」
と母宮はためいき顔だ。
次に、洞院の上に出向く途中、噂の今姫君の住んでいる西の対の屋の前を通り過ぎた。狭衣は興味をそそられ渡殿から少しのぞくと、西の対は御簾が大きく膨らんで、はみ出た女房たちが丸見えで狭衣を見ている。狭衣はその様子に少しあきれていたが、やがて、狭衣が対の屋をながめているのに女房たちは気付いて、おおあわてで几帳をひっぱりだしてきて、ガタガタと音も大きく整えはじめた。いだし衣も乱雑で色目も合わず見苦しい。
几帳のほころんだ所からのぞく女房たちが「まあ、ほんものよ。やっぱりほんものはいいわねえ」「だれそれの少将やなにがしの兵衛督よりよっぽどいいわ」などと下品に騒ぎ立てている。狭衣は顔が青くなりそうだった。一応挨拶すると、女房たちにたしなみがないのか、まともに口上できる者がいそうにない。だれひとり満足な挨拶の応対もできずにきゃあきゃあとやかましく騒ぎまくっている。あまりの狂態ぶりに狭衣は、もう今姫君には会わないで立ち去ってしまおう、と考えていると、奥のほうから、
「静かになさい。お付の女房のたしなみで、姫君の人柄が判断されるのです。こんな女房たちは、うちには必要ありませんね」
と女房たちをにらみながら、母代の女が出てきた。
「狭衣さま。こちらにおでましとは珍しいご様子ですこと」
早口でてきぱきと口上する。
「いえ…。どなたも私の相手をして下さらないので困っておりましたよ」
狭衣が柔らかくつぶやくと、母代の女は勝ち誇ったように、
「相手にされずに困るのならば、これからはこちらの姫君への対面を、まじめにお勤めなさることね」
と声も高らかに言う。
「今日は、日ごろの無礼を謝し、昇進を今姫君に見ていただこうと思って、こちらにやってまいりましたが、このように扱われるとは思いませんでした。
次も同じですと、私にも考えがありますね」
狭衣は冷たく言い放って立ち上がった。その時急に、御簾を吹き上げるような強い風が吹いて、几帳が倒れた。それを直すほど気のきく女房もいないので、その奥で寝ていた今姫君が丸見えになった。実母が亡くなっため、香染の内着のうえに鈍色の喪服を着ている。騒ぎで起きたらしい。狭衣と顔をまともに合わせてしまった。ぼおっとこちらを見ている様子に狭衣は、
『うわさどおり、ぼんやりした人なんだなあ。まあでも、女房たちに比べたらまだましか。しかし、父君には少しも似ていないな』
と、まともに顔を合わせられたことに、悪い気はしなかった。


次の日、父大殿のところに出向いたおり、
「そなたはまだ、今姫君の御簾の内外に出入りはしていないのか?洞院の上に『狭衣さまは、いまだにうちの今姫君をものの数には加えてくださらない』と泣きつかれたぞ」
と問われた。
「昨日お伺いしましたよ」
返事しながら狭衣は、昨日の西の対の女房たちの様子を思い出し、顔が笑ってしまいそうになる。そんな狭衣を見て父君は、
『どうやら洞院側がつまらぬことをしでかしたようだな。以前から、今姫君は私の子だという噂があったが、そのようなことは身に覚えがないものを、どこから聞きつけたのか、洞院が私の実子と間違えて…』
とため息をつく。狭衣は、父君に全く似ていない今姫君をみているので、
「まあまあ。洞院の上も子供がいらっしゃらないので、おさびしかったのでしょう。しかし、世間のあちこちで父君の子と名指しで言われているのも、不憫なことでございます」
と言う。
「いや。私の子と言われ始めたのも、はっきりとした理由がないのだ。顔立ちは中務の宮の少将に似ているぞ。今姫君の痴れ者の兄は、『今姫君は中務宮の少将の子』と言っているが、かんじんの今姫君はおっとりしすぎた性質で、どっちだろうがかまわんのだろう。たまたま自分を迎えに来たのが洞院だったから、洞院の許に行ったのだろう」
父君はなげやりに言うのであった。


変わって飛鳥井の女君の家である。
こちらでは乳母も従者もすべて出立するのに忙しく、誰も飛鳥井の女君にかまっていられない。しくしく泣き続けている女君に乳母は、
「そんなに泣いて京に未練があるのでしたら、ここにひとり残ればいいでしょう。身寄りも無く、たったひとりぼっちになるのがかわいそうだからと思ってあげてるのに。あなたには通ってくる男君だっているではありませんか。
それを黙って京から離れてしまうなんて、男君もかわいそうというものですよ」
などともっともらしいことを言う。が、実は、女君が一緒に陸奥についてくるのが乳母にはうっとうしくてたまらないのだった。乳母は常日頃狭衣の来訪がいやで、来訪のたびにやれ門の鍵を見当たらないとか何とかで、なかなか開けようとしない。狭衣は、このような態度をとる家の者たちのことはイヤだったが、女君の魅力にはかなわず、宵に暁にと通う。
『この女君の今後をどうしようか、父大殿に仕える女房として部屋を与えようか、いやしかし、もしこのことが源氏の宮に知られてしまったら。そうだな、しょうがない、飛鳥井の女君が隠れ住む事のできる場所が見つかったら、そこに移らせよう』
など考えあぐねている。狭衣はまだ、女君の陸奥への出立を知らないのだ。
「乳母殿、私をそんなに憎まないでくれ。実は私には口うるさい正妻がいてね。その妻に知られたくないからこそ、こうやって素性がわからないように来ているのだよ。でなきゃとっくに素顔をさらしているとも。飛鳥井の君、あなたを心の底から愛しているのに、こんな私を見捨てるというのですか。ひどいなあ」
狭衣のそんな言葉に女君は、
『本心で言ってくださるのかしら。ああでも、乳母と離れて暮らしてゆくのもとても恐いことだわ』
と、以前よりもさらに思い悩むようになった。そんな女君の様子を、家の者たちは「ただ出立を嘆いているのだろう」と軽く見ていたが、やがてその沈みようが、実は妊娠していたからだ、とわかってしまった。乳母は、
「まあ、なんてことでしょう。一刻も早くあの男君に連絡して、今後の処置を決めてもらってくださいな。あなたが一言言えば、いくらなんでもあの男君も、このままほったらかしにすることはありますまい」
とあわてた。身重の女君を陸奥に連れて行くなんて、と、迷惑そうな顔がありありとわかる。が、女君は、自分の口から妊娠しました、などと恥ずかしくて言えそうも無い。このまま陸奥の山道にまぎれて姿を消してしまおう、と思う。でも、子を授かったことを知らせないまま消えてしまうのは、いかにも口惜しいことだ、と女君は悲しかった。


狭衣の乳母の子に、道成という、式部の大夫でなかなかの色好みがいた。次の除目でどこかの国の守になる予定で、世間でも評判がよい人物である。この道成自身、常に「美しく、すぐれた女人をさがし出してみたいものだ」と言って、彼をぜひ婿にという声には耳を貸さず、いつも我が君狭衣のマネをして、狭衣の夜歩きにもまめに付き添い、宿下がり中の女房にちょっかいを出したりしていた。この道成が、あるとき飛鳥井の女君の姿を覗いてしまい、あまりの可憐さにすっかり心を奪われ、手紙などを時々出していたが、この手紙の内容を飛鳥井の女君の乳母がたいそう気に入ってしまい、
『あなたさまが、除目でどこかの国司になってくだされば、喜んでお婿さまにお迎えしてもよいのですけど』
など返事を書いていた。道成が、
「自分の父親の大宰大弐を任地まで送るのに、筑紫まで行きます。その際に、妻として一緒に筑紫に来てくださいませんか。来年どこかの国司となりましたらば、そのまま任国へ連れて行きたいのですが」
と提案すると、乳母は大喜びで、
「それはたいへん結構なお話で。あんな頼りにもならないような男君のかくし妻になるよりは、きちんとした妻として扱われた方がずっといいに決まってます。では、さっそく女君にこのことをお知らせいたしましょう。筑紫に行かれる際に、女君を迎えに来てくださいな」
と返事をした。乳母は陸奥への出立のただ一つの悩みだった女君の処遇が決まって大満足である。腹の子など、どうとでもなるだろう。女君はそんな乳母のたくらみにまるで気がつかない。
道成が迎えに来る直前、乳母は女君に言った。
「陸奥への出立はとりやめました。身重のあなたの体にたいそう負担がかかるのがお気の毒ですから」
乳母がいやな顔ひとつせずに言うのが、女君には不思議といえば不思議であったが、体の苦しさと陸奥への旅を思うつらさで、もう死んでしまいたいなどと考えていたのが、『とりやめ』の一言で、すこし楽になったような気がする。おなかの子をすこしはいたわろう、という余裕も生まれた。


野分の雨風がたいそう強いある日、狭衣は飛鳥井の女君のもとへ出かけた。いつも女君のもとへ忍んで行くときの衣装は、素性がわかってしまわないような質素な目立たないものであったのに、今日はまた雨風にたたられて一段とみすぼらしく濡れている。が、香りだけは隠せないもので、高貴なる薫物の芳香が狭衣のまわりに立ち込めていた。
「こんなにひどい雨風の中を歩く事になろうとは思わなかったな」
狭衣は濡れた衣装を脱ぎ捨てて、飛鳥井の女君をかき抱く。
「ながいこと来れなくてすまなかったね。恨んでいるの?ああ、こんなにじれったい気持ちになるのは初めてだよ」
など睦言を交わしながら夜を過ごす。女君は、まだ自分の素性や将来のことを狭衣に言おうとしない。『まだ私に心を許してくれないのか』とため息をつきたくなるが、このように逢瀬の最中はどうしようもないほど可憐にすがってくる。こんな姿を見ると、源氏の宮への恋慕はともかく、この女君はおろそかにはできないな、と思った。

夜もすっかり更けてから自邸に戻った狭衣は、うとうとまどろみながら夢を見た。悲しげな飛鳥井の女君のおなかがはっきりとふくらんでいる夢。
『このようなことをどうして今まで知らせてくれなかったのですか。これほど深い縁があるのに、あなたは私のことがそれほど頼りにならないのですか』
夢の中でそう言うと、女君は心細げに笑って、
『私は行方不明になります。私が死んだら、あなたと私の子をどうか探して面倒を見てください』
と和歌を詠む。

そこで、目が醒めた。
遠くから、父大殿の声が近づいてくる。
「今日と明日は重い物忌みであったのを、すっかり忘れていた。ああ大変なことだ。家の外からやってくる手紙などは、決して見てはいかんぞ」
物忌み…狭衣は胸騒ぎがした。
どうして飛鳥井の女君の夢など見たのだろう。懐妊のことなども、考えてみるといろいろ思い当たるふしがある。どうして昨夜、気がつかなかった。ああ、女君に今すぐにでも会いたい。
狭衣は大急ぎで女君のもとへ手紙を書く。
『今すぐあなたに会って話したいことがありますが、今日と明日、物忌みで動けそうにありません。とても不思議な夢を見ました』
返事の手紙が、誰にもわからないようにこっそりと届けられた。
『…はやくおいでくださいませ。わたくしもとても不安です』
という歌がある。思いのままに書いたようで、特に上手とはいえないが、若々しく、可愛らしい手蹟である。

そのとき飛鳥井の女君の家には、筑紫へ下る道成がいた。
「さあ、約束どおりやってきましたよ」
乳母は、いつもやってくるやっかいなあの男君(狭衣)がいないので、なんと都合がよいこととうれしく思う。女君のもとへ行って、
「明日の早朝に出発することになりました。この家の西側に井戸を掘るらしいので、土忌みになるそうですよ。すぐに出て行かなくてはなりません。あなたはどうするつもりですか」
と、突然った。
「さあさあ急いで。あなたをぜひ妻に、と仰る方が来てらっしゃるんですよ。ぐずぐずとお待たせしてはお気の毒をいうものです」
女君に美しい色合いの衣装を強引に着せる。化粧箱など一式を牛車に乗せて、呆然としていた女君を無理矢理車に押し込んだ。女君は何が何だか事情がまったくわからない。が、胸騒ぎがして落ち着かない。
やがて、暁を告げる鶏の声がした。
乳母ともうひとり女房が女君の車の後部に付いた。
車が家をでるとすぐ、矢をしたがえた武士たちに囲まれた。「夜が明けないうちに、はやくはやく」などわめいている。女君はこれからこの先一体どうなることやらさっぱりわからず、衣をかぶって震えている。
しばらくすると、淀川のほとりに辿り着いた。舟に乗せられるようだ。女君はここでようやく陸奥などではない、私はだまされたのだ、と気がついた。外には二十歳すぎの、みめよい男が笑顔で立っている。道成であった。しかし女君は、得意げになっているこの若者がとても憎らしい。私はどこへ連れられていくのだろうか。このような事態になったことを、どうやって男君に伝えられようか。

やがて飛鳥井の女君は、舟に乗せられた。乳母は肩の荷が降りたように、すっかり満足な顔をしている。
女君は絶望で死んでしまいたくなった。この川に飛び込んではかなくなってしまいたい。
あの若い男が、飛鳥井の女君の心を何とか和らげようと添い伏してあれこれ慰める。しかし、女君の泣き声は止むはずもない。
「いつまでも泣いていても、もはやどうにもなりませんよ。どうか私に従って下さい。私は身分は決して高くはありませんが、あなたを愛する気持ちは誰にも負けないつもりです。いまはこんなですが、私は来年には殿上人になれる予定です。どうか私の言葉を信じてください」
と道成は言いながら、女君がひき被っていた衣装をそっと下げると、たとえようもなく美しく可憐な泣き顔がのぞく。道成はうれしくて、何としてでもこの女君の心を我がものにしたい、と思う。
しかし、いつまでたっても泣き止まない女君に道成はしびれをきらし、乳母に、
「ここまで嫌われているとは思わなかった。乳母殿、なんとかしてくださいよ」
と泣きつくが、
「あなただって、これが女君の本意ではないことくらい、わかっているでしょう」
と乳母に言われる始末。
困った道成は、
「この衣装は、わが主人、狭衣中納言さまより餞別にいただいたものです。とりあえず、女君の衣装が涙でぐっしょりなので、着替えてはいかがですか。主人の使っていた扇も別れの形見にといただきましたので、これもお使いください」
と、衣装を差し出すと、乳母は大喜びで、
「まあなんて美しいのでしょう。さ、男君のおっしゃるとおりになさいませ」
といそいそと着替えさせようとする。飛鳥井の女君は、ここでようやくこの男が、以前からしつこく求婚していて乳母に気に入られている男だ、と気がついた。しかも、狭衣さまの家来だったとは。他の人ならまだしも。扇にとても美しい手蹟が見える。道成が自分の主人を自慢する言葉に、涙がさらにあふれてくる。この男は、自分の主人の狭衣が飛鳥井の女君のもとへ通い続けていることを知らないのだ。
女君は絶望でいっぱいになった。もうお会いできない。ご自分の家来が連れていく女が私だということをご存知なのか。見れば扇に『行方も知らぬ恋の道かな』と書き散らしてある。これがあの方の真実の心なのか。私は退屈しのぎのなぐさみものだったのか。
目の前の海のうねりが、正気を失いそうになる女君の眼を誘う。
もうこれ以上は生きていけそうにない。