狭衣物語

その三


やがて季節は変わり、暑い暑い夏がやってきた。
水を恋い慕う水恋鳥のごとく、源氏の宮に焦がれる狭衣の恋心は募ってゆく。することもない夏の昼、狭衣は源氏の宮が住む対の屋に渡った。源氏の宮は白く涼しげな紗を着て、何か赤いお文を見ていたらしく、横を向いて座っていた。頭から背中の方までよく見えて、長く豊かな黒髪のすそが華やかに削いであるのがなまめかしい。薄物の単衣を通して見える肌の美しさが狭衣の目をとらえ、抱きしめてしまいたい想いを必死で抑える。
「暑くてたまりませんね。ああ、どなたからのお手紙ですか」

「斎院さまからですわ。絵をいただきましたの」
斎院とは帝の第一皇女で、先日の天人来臨事件の際、狭衣に賜る話のあった女二の宮の姉君である。
狭衣はくったくなく言う源氏の宮の、花の盛りのその笑顔を見るのが少し苦しくて、目をそらして絵をとりあげた。
「ああ、これは『伊勢物語』ですね。いい出来だ」

絵の中に、自分と同じように苦しい恋に身を焦がす在原業平がいる。業平の傍らの散らし書きの部分を読んでいくと、まるで自分と対峙しているような気になってくる。恋日記に惑わされたように、狭衣は源氏の宮に向かって和歌をつぶやいた。

『…業平の恋物語を見ていると、私だけが迷っている恋の道とも思えません。私は、あなたが…』

おしまいまで言えず、狭衣は源氏の宮の白い手をつかまえた。源氏の宮は突然の出来事にびっくりしてものも言えず、自分をとらえている狭衣の腕に突っ伏した。近くで見た源氏の宮は、いいようもなく柔らかで可愛らしい。ええままよ、どうなってもかまわないと、日ごろ抑えかねていた忍び心を打ち明けようとも思ったのだが、あまりに思いつめすぎていたので言葉がなかなか出てこない。出てくるのは涙ばかり。
「…あなたがまだ幼くていらした頃からずっとずっと見つめ続けていたのですよ。あんまり長い間思い続けていたので、もう抑えられなくなりました。

『思い続けた長年と、長い間煙続けているという室の八島の煙とどちらが長いでしょうか』

あなたはご存知ではなかったようですけどね」
あふれる想いを訴える狭衣に、源氏の宮はあきれて悪夢を見る思いがする。
「そのような目でわたしを見るのですね。まるで他人事のように。ご安心ください。あなたが恐ろしく思うことは何もしません。このことを両親が知ったら、嘆く事はわかってます。もうあなたに逢うことはないと思いますが、こんなにも、あなたのことを恋い慕う者がいたのだということだけ、覚えていてくれればよいのです。あなたの愛情が今までどおりならば、私が死ぬ時の、この世のよい思い出になるでしょう」
急に人の気配がして女房がやってきた。ハッと我に返った狭衣は、何気なく絵を見るような手付きをしながらその場から離れて対の屋を出て行ってしまった。
源氏の宮は、急な出来事にあきれて身動きもとれず、ずっとそのままの姿勢で突っ伏していた。乳母の大納言が「いかがなさいました」と驚き、そばにかけよる音に、近くで昼寝をしていた女房たちが気付いて起きだした。
「あまりに暑くて、少しうたた寝を」「もうしわけございません」などと口々に言う。源氏の宮は、何も言わず転がるように奥に入ってしまったが、しばらくしてようやく正気に戻った。
『何と思いもかけないことを言う人を、今の今まで頼りとしていたことよ。こんなめにあうのも生みの親に死に別れてしまった不運さからだわ』
などと、生まれて初めて世の中の男女の現実を思うのだった。そんな、物思いに沈む源氏の宮の様子を乳母たちは、「ご様子がおかしい。どうなさったのかしら」と心配する。源氏の宮は、
『これからこの先、こんな気持ちで狭衣のお兄さまにお会いするなんて、恥ずかしい事だわ。こんな気持ちで生きてゆかねばならないなんて』
と、つらい憂き世をいまさらながら思い知らされるのだった。


狭衣の中将は、源氏の宮に今まで抑えていた想いを告げてから、前よりいっそう恋慕に耐え難くなり、うつうつとした日を過ごすようになった。自分を受け入れてはくれなかった源氏の宮の事を考えると、もうこれ以上生きていけそうにない、そんなふうにただぼんやりと無気力に過ごしていたある日、父大殿のお召しがあった。本当は会うのがいやだったが、気分が悪くて引きこもっているなどと知られたら、また騒がれるのも面倒だ、と思いながら父のもとに出向いた。
「おお来たか、狭衣。実は今宵、中宮(狭衣の異腹の姉)が宮中を退出なさる。お前、お迎えに参内しておくれ。お前をあまりに家に閉じ込めるな、と先日の事件来、帝も仰せられておる。源氏の宮の東宮妃入内の件もあるしな。右大臣が『娘がようやく入内できる年になった』と喜んでおったが、八月に東宮のもとに入内するそうだ。いや別に、うちの源氏の宮と競うわけではないがな。そうだな、この冬…いや、新年早々でもよいかな。右大臣の邪魔をするのも気の毒なことだからな。まあ、源氏の宮の入内の話はずっと以前から決まっていたことなので、冗談にも言い寄る男や不埒な手紙がないのが安心だ。多少遅くなったところで心配あるまい。かえって、源氏の宮の美しさが増すであろうよ」
狭衣は父大殿のこの言葉を努めて平気な素振りで聞いてはいたが、内心、胸のつぶれる思いだった。右大臣の娘は態度が尊大で高慢で、容貌もそれほどではないと聞いている。右大臣や北の方は、娘を几帳の外にも出さず人も寄せず、大事に育てているという話だ。
「狭衣。よく聞きなさい。貴公子というものは、若い時から押しも押されぬ立派な北の方が早くから決まっていると、重々しく見えて結構なことなのだ。確かに私も若い頃は、行かないところがないほどたくさんの女人を見てきたものだが、いつまでも独身でいるのは行動が軽率になりがちになるものだよ。帝からご内意のあった女二の宮ご降嫁の話だが、あれ以降、そなた女二の宮にお便りのひとつ出していないそうだな。吉日を選んで、女二の宮付きの女房にお手紙を出すようにしなさい」
父大殿のこの言葉に狭衣は、生きている甲斐さえ見つからないというのにさらに重荷を背負わされる思いがしてうんざりする。
「帝はそこまではお考えにはなってはおられないでしょう。ことおおげさに考えて、馴れ馴れしく女二の宮さまに近づくのもどうかと思われます」
と暗に全く興味のないことをほのめかし、父の御前を下がっていった。

父君は私のこととなると、とかく盲目的になられる。女二の宮の件だって、御母君であられる大宮がたいそう心外なことだとおどろいておられるそうではないか。帝にしても、あの天人来臨の夜、ご自分が強く強く私の笛を求められたことを反省なさって、つい、あんなご降嫁の話がお口からすべってしまわれたに違いないのだ。しかし帝の口からでた言葉は取り消しができない、ともいう。いったい、私はどうしたらよいのだ。

日が暮れて、狭衣は宮中へ参内に向かう途中、以前宮中からの帰途に往来で歌を交わした蓬の女を思い出し、随身に尋ねた。
「あの翌日に私がその家を見ましたら、蔀(しとみ)が固くおろされていました。隣の家人に聞いてみましたところ、宮仕え人がしょっちゅう出入りしている家だそうで。もともとあの家は長門の守の持ち物でして、その妻の一族に中務卿の姫君の御乳母がいまして、方違えなどによく使っているそうですよ。その乳母の名前は少将と申しまして、少将の子が五節の舞姫に選ばれたそうで」
と答える。狭衣は、「五節の舞姫に選ばれるくらいなら、身分に反してずいぶん可愛らしいのだろう。その女が私に文をくれたのだろうか」と考える。

狭衣に迎えられ、中宮は実家に戻った。母君である坊門の上は大変な喜びようである。内裏からの御使者が次々やってくる。中宮にお仕えする女房たちも威勢がよい。だが主人である中宮は物腰など慎み深く思慮深く、中宮方の全体の雰囲気は主人に似て落ち着いていた。大殿も大変満足げにあれこれ世話している。
洞院の上は大殿の三人の北の方の中では一番年上で、一番早くからの夫人でもあったが、中宮のような娘がいないからか、自分の容姿に気を使い、ことさら派手に現代風にふるまって、他の北の方に劣るまい、と自分自身を自慢している。しかし、陽気な性質からか、少し変わった物好きも、人には憎まれないようである。


狭衣の中将は、源氏の宮に恋心を打ち明けて以来、心晴れることもなく、忍び歩きでもすれば立ち直ることもあろうかと、いろいろ気をまぎらわせようとしてはみるものの、やはりあの、源氏の宮の手をとらえた感触が忘れられそうにない。

ある日、宮中へ出仕したおり、東宮のもとへ出向いてお話し相手をしたとき、東宮が狭衣に尋ねた。
「あなたをめったに宮中で見かけないが、もう少し姿をみせてくれてもいいんだがねえ。あなたは始終、家の中で源氏の宮と会っている。たまには私にだって様子を聞かせてくれても、バチは当たるまいに」
「は。ここのところの暑さで少々まいっておりまして、ついつい出仕も怠りがちになったこと、申し訳ありません」
「暑いだけが原因とも見えないがね。あなたが年を追うごとにだんだん物悲しそうになってゆくさまが、私には、どうにも合点がゆかないのだよ。一体どうしたんだね。あなたなら、たとえかぐや姫に求婚したって、相手が断るとも思えないがね。ふふん、なんとなく見当はついているよ。あなたは、宇津保物語の仲澄の侍従よろしく、妹分の源氏の宮に恋しているんだろう。
皆そう言っている。堀川大殿も、だから心配して源氏の宮の入内について私に冷淡にしているとみえる。どうだい。当たりだろう?」
狭衣は、この東宮の言葉にびっくりした。人々がそのようにうわさするまでになっていたとは。いや、これは東宮のハッタリではないか。
「そんなとんでもない恋ではありませんよ。私は、普通の恋愛さえ好みませんね。東宮のもとへ入内する姫君に懸想するなどというような、ややこしい恋をあえてする、そこまでの色好みではありませんね」
狭衣は、興味なさそうに言い捨てたが、東宮は、
「隠すのかい?君のかたい態度でバレバレだよ」
からかうように言う。
「ははは。ひどいことをおっしゃいますね。あなたさまこそ、いつも女人のことばかりお考えになっているから、私のこともそんなふうに決めつけるのですよ」
と狭衣の乾いた笑い声がひびく。しかし心のうちは、急所をつかれたな、と収拾がつかなくなっていた。
そののち、東宮は女御である宣耀殿のほうへ渡っていった。狭衣はあとで宣耀殿の女御のもとに忍んでいこうと思っていたのだが、これでは仕方がないな、とがっかりして内裏をあとにした。

夕暮れの中、狭衣の牛車は二条大路と大宮大路の交差あたりを歩いていた。そのとき、女車が牛を新しいのに交替させようとしているのが見えた。
「遠方からの旅人であろうか」と狭衣が眺めていると、女車の窓が少し開いて、中に僧がいるのが見えた。「どう見ても女車なのに、僧が乗っているとはおかしなことだ。見間違いか?」みるみる女車は狭衣の牛車を追い越そうとしていく。狭衣の随身たちが女車を止めさせて声も荒らかに問いただした。
「こちらには堀川大殿の息子の狭衣中将が乗っておられる。牛車を見ればわかるであろう。さっさと道をあけぬか」
「もうしわけございませぬ。荒牛が慣れておりませぬゆえ、失礼を致しました」
僧は顔を隠しながら答える。そのまま車を降りて逃げようとしたので、随身が捕らえようとするのを、狭衣が「追いつめるな」と声をかけたので、逃がしてしまった。が、女車のそばについていた牛飼い童を問いつめると、
「あの人は、仁和寺で威儀師をつとめております僧です。長年懸想していた女人が、太秦にお参りにやってきましたので、そのままこっそりその女人を盗み出したんです。私だってこんな手伝いしたくないんですけど、逆らうとひどいめにあうので仕方なく」
と悲しげに答える。随身が、
「狭衣さま。いかが致しましょう。このような状態で女を車の中に放置しておくのはかわいそうではないでしょうか」
と聞くので、
「おまえたちはいつも私の止める声も聞かないで、勝手な事をするからこういうことになるのだ。しかし、たしかにこんな所にほってはおけないな。牛飼い童に聞いて、車の中の女人を家まで送ってあげるように」
といった。
牛飼い童に聞いたところ、女の家は二条大路のすぐ近くだったようだ。日もすっかり暮れ、女はおびえて泣いているらしい。さきほどの僧はどこかに隠れていて、私たちが女を置いていってしまったら、きっと取り戻しにやってくるに違いない。女の様子を見てみたいが、もし、ここまでくる途中ですでに車の中で手ごめにでもされていようものなら、話を聞くのも気の毒なことだ。さてどうしたものか。『飛鳥井の宿り』の例えもある。我が家に泊めるのもどんなものだろう。
いろいろ考えたあげく、結局狭衣は、その女の車に乗り移って事情を聞くことにした。やはり顔は見てみたい。
「こんなところにあなた一人置いて逃げてしまって、ひどい奴ですね。でも、私が帰ったとみたら、またここに戻ってくるかもしれない。
本当に、あなたの意思でここまできたのではないのですね?」
狭衣は、努めて優しく女に声をかけた。女は、これほど親切に仰ってくださるのは一体どなただろうと思うが、気が動転していてろくに話すこともできない。そのうえ、めったに外に出た事がないので、自分の家の場所すらすぐには思い出せないのだった。
狭衣は、自分が想像していたよりは、女がずっとずっと可愛らしいので、親身になってやろうと思った。
「ああ。そんなに泣かないで下さい。まるで私があなたのお心にそぐわないことをしてしまったような気がしてなりません」
そんな試すようなふうに言うと、女はいよいよどうしてよいかわからず、ただおろおろと泣くばかり。それでも、
「…大宮通りと堀川大路のあたりと申しますか。某大納言さまのお向かいに、竹の多い家がございます。…恐れ入りますが、お送りくださいますか」
とだけ返事をした。
狭衣は、この声の美しさ、気配の柔らかさに心ひかれた。一体どういう身分の人だろう。このまま同乗して家までお送りしてしまおう、と決めた。
女の家の近くまで来た。なるほど、確かに竹林の近くに入り口の細い家がある。門から人が出てきた。
「さて。着きました。おうちの方になんと申し上げましょうか」
狭衣は女に問うたが、女は何も言わず泣いている。仕方がないので随身に、
「太秦より参りました」と言わせた。
家人は、「ヘンですね。つい今しがたまで、女君が寺からお戻りにならないと、乳母殿がさがしておられましたよ」と答える。門番の部屋のあたりから蚊遣り火が煙る気配がして、なかなか風情がある。

『…この蚊遣り火の煙のように、あなたへの恋心もどんどん広がっていってしまいそうだ』

と女に歌で問う。女は、ようやく人心地ついて、今更ながらに狭衣の立派さに気が付いて、恥ずかしい心地がする。
「このようなみすぼらしい家に案内させてしまい、本当に消え入りたい思いでございます。さきほどの法師のことがありましたので、何も考えずにただひたすら家に帰ることだけを思っておりました。今となっては、こんな貧しい家の下に住むのをお教えしたこと、恥ずかしい限りでございます」
と弱々しい声で返事する。
車を母屋に寄せると、五十くらいの婦人が、
「まあまあ、今までどちらにいらしたのですか。侍女の大輔の君がお迎えに参りましたのが、遅すぎましたか」
とドヤドヤやってきた。狭衣にとっては、見た事もないような下品さである。とりあえず、「起きてください。迎えの人が参りましたよ。」と女に声をかけると、女は何かにつけてきまりが悪くて動けそうにない。狭衣が無理に引き起こさせると、女の薄紫色の衣も、額髪も涙に濡れて美しい。ひどく恥ずかしく切ないと思っている気配は普通の女の比ではなく、たいそう品があり可愛らしい。狭衣は、
『なんとも不思議な縁だな。こんな美しい女人に逢おうとは。いやしかし、あの法師がすでに手ごめにしてしまってたら。ああ気にくわない』
など思い乱れている。
「さて。無事お帰りになられましたね。用事が済めば私のことなどお忘れになるでしょうね。どうですか?できればお見捨てにならないで下さいよ」
と狭衣は笑うが、女の方は恥ずかしさのあまり大急ぎで車を降りようとする。狭衣はそれを制して、
「まだ答えを聞いてはいませんよ。いずれまた、あなたの家を訪れてもかまいませんか?」
と再度尋ねると、女は、

『…飛鳥井の私の家は泊りもできないようなせまい家なので、どうしておいでくださいと言えましょうか』

と歌で返した。狭衣はこのまま帰ってしまうのが惜しく、

『…飛鳥井にうつる美しい木陰のようなあなたに逢いにきたら、あの法師が出てきて文句を言うでしょうか』

と詠む。
「もうすぐ、最初に私の乗っていた牛車がやってきます。それまでの短い間だけ、あなたと一緒にいたいのですが」
と言い、女が「まあなんて見苦しい」と思っているのも狭衣は楽しく思う。家の女たちが「あんた誰なの?」と問う声も無視した。そのまま端近に出て、十六夜の月を眺めながら女の髪をかきやる。女の、月に照り映える容貌は不思議なほど美しい。妖しい心地に誘われるほどの気品がある。
まもなく、牛車が到着したが、こんな程度で帰れるはずもなく、「もし法師が来たら、また面倒な事になるでしょう」とか言い訳しながら、ずるずると居続けた。
これも前世からの因縁の深さか、狭衣は、こうして女君…飛鳥井の姫君と契りを結んだ。飛鳥井の姫君は法師に手ごめにされてはいなかったこともわかった。狭衣は、今までつきあってきた高貴な女人よりは、こういう女のほうがよほど素直で可愛らしい、となにもかもがたいそう新鮮に目にうつり、毎夜、人目を避けて飛鳥井の姫のもとへ通うようになった。