狭衣物語



その十七

桜咲き乱れるのどかな季節が過ぎ、橘の花が夏の到来を告げ、梅雨明けの陽射し照りつける暑い夏がやってきた。狭衣は、宰相中将の妹姫を自分の屋敷に迎え入れた時と同じように変わらない愛情で、朝に夕に安らかな日々を送っている。他に縁を持った女人のことを忘れるほどに。長い間、心の中に大きく存在していたあの斎院(源氏の宮)にさえ、消息を問うの面倒と感じるほど、姫にうつつを抜かしているといっても過言ではなかった。
ようやく斎院を訪問する気になったある夏の夕暮れ、狭衣は涼しくなるのを待って賀茂の社をたずねた。もともと人も少ないうえに、源氏の宮の御前にいる二、三人の女房たちもみな横になって眠っている。狭衣は足音を立てないようにそうっと宮のいる几帳に近づき中をのぞけば、宮も横になってまどろんでいた。
宮は二藍(ふたあい)の羅(ら)の薄物をしどけなく重ね着して寝ているが、引き被った衣は肌が透けてみえるほど薄く、無防備に眠っている姿がたいそうなまめかしい。髪はどこまで流れているのかわからなくなるほど豊かに重なりあっている。みんな寝ていて気づかれないとはいえ、顔も体つきも、これほど間近に宮を眺められたのは一体何年ぶりだろう・・・狭衣は珍しくもうれしい気持で宮を見つめ続ける。
これほどの美しさの持ち主は、この世のどこをさがしてもきっといまい。前世からの縁が無いばかりに、天女に勝るとも劣らないこの女人を自分の妻とすることができなかった。この方のためならば、惜しい命などないくらい恋焦がれていたというのに・・・宰相の妹姫がいくら源氏の宮に似ていても、姫と一日じゅう寄り添って語らい合っていても、結局あの姫は宮の人形(ひとがた)、ご本人ではないという事は、紛れもない事実なのだ・・・そんなせつない思いで、うっとりと眠っている斎院を眺めていると、人の気配に気づいた斎院がハッと目を覚ます。しどけない格好を見られて恥ずかしがる斎院の、頬を赤く染めた顔がたまらなく艶(なま)めかしい。そのまますべるように几帳の奥深くに入ってしまった斎院だったが、二人の様子に気づいた女房たちが起き出して、気を利かせてその場から下がっていった。
「この頃は今までにもまして、気分のすぐれない時が多くて、外出すらままなりませんでした。こちらに参内するのも本当に久しぶりの事です。あなたさまに一日でもお会いできないのはとてもつらいこと。しかしあなたさまは、私のことをそれほどには思っておられないご様子。少々寂しいことですよ」
「珍しくも長い間お会いできませんで、さみしゅうございました。ご気分がすぐれないとは存じませんでした。お許しくださいませ。そういえば、若宮にも久しくお目にかかってはおりませんが、いかがお過ごしでしょう」
自分が来るのが待ち遠しかったと暗に言われて狭衣は非常にうれしかったが、しかし来なかった理由は屋敷に引き取ったあの姫君のせいだろう、と斎院はあきれているに違いない・・・そう考えると狭衣はたまらなく苦しく味気なかった。
「若宮はこちらに来たがっていたのですが、明日にでもきちんとしたかたちでお連れします。母上に『斎院の前では礼儀正しくなさいませよ』と言い含められていました。かわいらしくも真剣な顔つきで聞いておられましたよ」
若宮の消息を伝える狭衣の顔はなごやかだ。だがそのあと、ふと思いだしたかのように続けた。
「そうそう、わたしは人知れず自分の胸ひとつに収めている恋がありますよ。この頃は、その秘密が抑えきれなくなりつつあるのが悩みのタネなのですが。荒ぶる神も、この恋ならば抑えきれないのも仕方があるまいと納得しておられるようですね」
斎院は、黙って聞いている。
「私はあなたにそっくりな姫を屋敷に引き取りました。それはもう、あなたを思い出して身もだえするくらいよく似た姫君です。世話をして一緒に居れば居るほどあなたを思い出して、つらくて苦しくてしょうがないほどにね。
どうして神様は、『あなたへの想いを忘れる心』を私に与えて下さらなかったのか。あの姫を見れば見るほど、以前にも増していっそうあなたを想う心になりがちになっていますよ。ああ、私が言っている『姫』というのは、故式部卿宮の娘でただ今の宰相中将の妹君なのですが・・・まあ一度、この姫君に対面なさって下さい。私の目がふし穴かどうか、あなたに判断していただきたい」
斎院はその姫の話を、以前堀川の上から少しだけ聞いたことはあるが、そんなあいまいな話をここでできるはずもなく、ただ黙っていると、狭衣はしびれを切らして、
「ああ、なぜこんな愚かな話をしてしまったのだろう。

『・・・おおかたは身をや投げまし見るからになぐさの浜も袖ぬらしけり
(見るだけで心が慰められる、なぐさの浜のあなた(斎院)なのに、今はただつらいだけ。私はどうしてしまったのだろう?死んでしまったのだろうか?) 』

 ・・・おろかな話をしました。忘れてください」
忍耐も限界と言わんばかりのせつない顔で部屋から出て行ってしまった。
そういえばそんな事情の姫君のことを、狭衣兄さまの乳母の大弐の君が話していたと、堀川のお母上からお聞きしたかしら・・・と何のことだかわからない斎院は、ひとり取り残されてすっかりしらけてしまった。その内、先ほどの眠気が襲って来たので横になってみたが、狭衣の苦しくも切なそうにゆがんだ顔がまぶたに焼き付いてなかなか離れなかった。


それからほどなく、たちの悪い流行り病が都をおそい始めた。市中はおろか宮中にさえも悪疫が忍び入り、大宮人たちも次々とたおれて行く。庶民などは手当ての方法もわからないまま次々と道端に捨てられ、都大路は言葉にするのも恐ろしいありさまとなった。人々が不安におののいているのが伝わるのか、帝も近頃はすっかりご不例となり、そのうえ合点のゆかない夢をしきりに見るようになった。政(まつりごと)に神がお怒りなのか、それともまもなく寿命が尽きようとしているのか・・・帝はたいそう心細かったが、未だに後継ぎが生まれていないのが悔やまれる。堀川大殿などが参上して色々と気を紛らわせようとするが、
「私の命もそろそろ尽きようとしているのだと思う。にもかかわらず、譲位もせずにのうのうとこのままでいいものだろうか。出家せずに御位にとどまっているのは罪深いことだと思う。
そこでだ、そなたのもとに預けている若宮をば臣下にするという話を耳にしたのだが」
「は」
「まだ赤子でいらした応神天皇を女帝がお世話申した例(ためし)もある。また、一度臣籍に下った御方が即位(宇多天皇)した先例もある。そなたは故院の御子であり、かつ先帝であられた嵯峨院の御兄弟でもあるという、由緒正しき貴人中の貴人・・・いかがか?若宮の後見人として、そなた以上の適任者はいまい。世継ぎがまだ生まれていないという理由で御位にしがみついているよりは、一日でも早く出家して、この世の平安を仏に祈りたいのだが」
譲位したいと言う帝の申し出を、どうしてすぐにうなづけようか。大殿は、
「たしかに、穏やかならぬ世の中になってはいますが、おそれながら、十善の君(=帝。前世の十善の果報によって、天子になれるという)としての資質がどうのこうのといったことではありませぬ。自然の成り行きでございましょう。横行する悪疫に多くの都人がたおれたとしても、それは前世から決められていた寿命が尽きたという、ただそれだけのことでございます。それを今上がいちいち気になさることなど全く不要なこと。ご祈祷などなされて当分はご静養なされてはいかがでしょう。ただ今すぐに御譲位のことをおもらしになるのは、あまりに穏やかでないようにお見受け致します」
そのように奏上するが、一方胸の内では、「なるほどお言葉どおり、東宮が不在なのは困ったことになりそうだ」と心配する。


「若宮は東宮にお立ちなさるという、大変な御宿世だったのだよ。その若宮をご後見させていただく。畏れ多くもありがたいことではあるな」
自邸に戻った堀川大殿は、満足そうにしているが、狭衣は内心、
(とんでもない!あの若宮は、真実の若宮の素性は、嵯峨院と故大宮の御子ではなく、この私と嵯峨院の息女である女二の宮との子・・・東宮に立つなど、ありえない!)
と冷や汗を流しながら聞いていた。いったいこれから運命はどう転がり始めるのか。もしも、もしも私の息子が東宮に立つような事が叶うならば、あの冷淡な女二の宮も、自分との前世からの縁を、もうおろそかにはなさらないはず・・・女二の宮とのこじれきった関係が修復できる可能性に狭衣は胸をふくらませる。一度でいい、たった一度でいいから宮と差し向かいで話し合ってみたい、ずうっと溜めてきた心のオリを宮にすべて聞いてもらいたい、宮の心の内も知りたい。子まで為したほどの宿縁なのに、語り合う・・・それすら許されないとは、なんという辛いことだろうか。女二の宮にお仕えしている中納言内侍典侍は主人に忠実なる女房かもしれないが、それでもわずかに油断して、狭衣の乳母である大弐に若宮の出生の秘密を漏らしたかもしれない。まあ大弐が、お仕えする主人の秘密を外部に漏らすなど、まず考えられないが、若宮の出生に関することは、故大宮が文字どおり命を賭けて守り通そうとした秘密であり、このことが外部に知れるということは、狭衣も女二の宮も、故大宮の名や嵯峨院の名までもが汚れるということだ。それだけは絶対に避けねばならぬ。それとも、この不安定な事実、すなわち、世継ぎの宮が正統な身分の者ではなく、かつ、その者しか適当なのが見当たらないという事実が天を怒らせ、悪疫を流行らせているのだろうか。
狭衣はそのように考える。


夏も盛りになるにつれ、流行り病はますます猛威をふるい、天変地異の前兆のような妖しい星やおかしな雲が天にかかる。都の人々は心落ち着かず、いったいいつまで流行り病は続くのか、いつになったら恵みの雨が降るのかと、おびえながら暮らしている。帝も
「我が世は天から見放された」
とすっかり気弱になり、譲位のことばかり考えている。だが、世継ぎがいない上に、帝の御年は譲位するには及ばないほどの男盛り。今譲位することは世の人々の気持に反する事であり、道理にはずれた事でもある。もっと政(まつりごと)に励んでいただき、そして世継ぎの御子をつくっていただかねばならぬ。従って、いかに嵯峨院と故大宮との御子だとはいえ、一度臣下に降ろした若宮を皇族に引き上げて東宮に据えるなど、ただいまの帝の御血筋をないがしろにすることではないか・・・そのように世間は思っている。堀川大殿も、
「お世継ぎは今上の皇子から」
そう願っているが、後見している若宮が東宮にお立ちになることは、わが堀川家の今後の繁栄の為にたいそう魅力的な提案ととらえていた。
だが、ふとしたことから、とうとう若宮の出生の秘密が大殿の耳に入ってしまった。嵯峨院を父に持ち大宮を母に持ち、これほど高貴なお生まれだと公表され、大殿もそれをすっかり信じていたのに、真実はそうではなかったと、どこからか噂が流れてきて、大殿はあわてて屋敷じゅうの者に緘口令(かんこうれい)をしく。狭衣に大殿はただ一言、
「若宮の出生に秘密が隠されていた事を、愚かにも知らせないとは」
と伝えるのみ。もしこのまま帝に世継ぎの皇子が生まれず、若宮が皇族に引き上げられ東宮に置かれ、いずれ即位するようなことになれば、若宮は自分の実父である狭衣大将を臣下として使うことになってしまう。天の眼が、そんな事態をお許しになるはずがない。近頃の世の中の乱れや天変地異は、そんな近い将来への警鐘なのか。斎宮である女三の宮も、怪しい神託や病気に苦しむようになった。宮の身に、天照神が憑依しているような兆候がたびたび現われ、

『・・・かの大将は、生まれも美貌もその才も、この世には過ぎるほどの御身であるにもかかわらず臣下に甘んじている。それは帝が、かの大将の真の価値を存じておらぬからである。そのうえ、(父である)大将を臣下のまま、若宮を帝位に据えるなど、許されないこと。順次がまちがっておろう。
天の認める正当なる手続きで譲位をなされば、当帝の寿命はのび、世の中も安泰になるであろう』

とのお告げがあり、非常に重大なお告げゆえ、ごくごく内密に内裏と堀川大殿に伝えられる。神託の内容に驚愕した大殿らであったが、大殿夫妻以外、宮中に若宮の出生の秘密を知る者などだれ一人おらず、お告げの言葉を不思議がるばかりであった。ありがたい御神意とはいえ、我が息子が帝位につくなどありえない身の程であることよ、と大殿夫妻はたいそう恐ろしい思いでおののいている。このお告げを聞いて以来、頭からこのことが離れないせいだろうか、大殿の夢にも今上の夢にも毎夜毎夜、

『大将を帝位に据えれば、世の乱れも天変地異もおさまるであろう』

と不思議な声が聞こえてくる。
とうとう今上は、
「神託どおりにすすめること・・・これが天の御意思なのだ」
と覚悟を決め、まず狭衣を皇子にし、そのうえで次代の帝に即位させると決定した。
即位の儀は八月と定められた。


「いかに(狭衣大将が)末法の世には過ぎるほどの人物とはいえ、臣下である人物が帝の御養子となり御国が譲られるなど、近世そのような先例は聞いたことがない」
と表立って帝を非難する声はなかったが、狭衣が皇子に、そして次代の帝に即位する理由がまったくわからないというのが世間の思惑である。それも道理、将来の帝の父親が狭衣で、その父親が臣下のままでいることに、天の眼が警告を発しているからこその天変地異であり、悪疫の流行なのである。真実を何も知らない世間の人々、特に宮中の女房や有力貴族の女房などは、
「奥ゆかしいお方でめったにお姿を拝見できないのに、帝になられては今以上にお目にかかれなくなってしまいますわ」
とまるで狭衣が死んだような嘆きぶりである。狭衣本人はといえば、いつも出家したいと世の無常をいつも感じていたのに、寝耳に水、自分の意思とは違い、話が思わぬ方向へどんどん進んで行き、
「ありえない、帝位など自分の宿世ではない。こんな自分が帝位を長く持ちこたえられることなど出来そうにない」
と毎日不安で落ち着かない気持でいる。それに帝位につくということは、あの若宮・・・次代に即位する予定の若宮が、私と皇女のどなたかとの密通の果てにできた御子だという事実を世間に披露してしまうことと同じ事であり、私がいかに愚かで間抜けか知られてしまうということではないか・・・と狭衣は悩みに悩んでいる。
そうこうしているうちに、今上の病状が深刻な状態になり、狭衣はいよいよ運命から逃れられない立場に立たされた。苦悩の果てに、狭衣は斎院・・・帝位帝位と騒がれて混乱の極みにあってもなお忘れることがなかった斎院のもとを、足元をふらつかせながら訪ねた。蒸し暑い夏の宵のことであった。