狭衣物語


その十六

狭衣と姫君を乗せた車は、まもなく狭衣の自邸である堀川の屋敷に到着した。狭衣がまず車を降り、通路に几帳を立てかけるように命じる。その中を、掌中の珠のごとく姫君を抱きかかえた狭衣が歩く。初めての場所で、身の置き所もなさそうにおろおろ困っている御乳母の弁の君に対しては、
「安心してください。ここを我が家だと思って。道季、姫君の御乳母の君に、ゆったりとくつろげる局をひとつ用意せよ。なにぶん急なことではあるが、万事不足のないように手配しておくれ」
と、側近の道季に指示を出す。
「承知致しました。御乳母どの、不安がることはありません。この屋敷を他人の家とは思いなさいますな。なあに、すぐに慣れますよ」
笑顔でそう言いながら、道季はてきぱきと局をしつらえて世話をする。あとのことはすべて道季に任せた狭衣は自室に姫君とふたり、御帳台の中でゆっくりと過ごした。
しばらくすると、父大殿から「帰ったのなら、こちらへ参るように」とのことづてがあり、狭衣はしぶしぶ起き上がって用意していると、部屋に狭衣の乳母である大弐の君がやってきた。
「昨夜はどちらに行っておられましたか。大殿さまにあなたさまの所在を聞かれたのですが、『乳母が狭衣の行き先を知らないとは、少しうかつ過ぎる』と、おしかりをいただいてしまいました。外出なさる際は、私に一言おっしゃっていただかないと困ります」
「入りと入りぬる人惑ふらん・・・深入りした恋路には人は誰でも迷うもの。たとえ行く先を教えたところで、探しあてられっこないだろうよ。それほどに私の行く先が知りたいのなら、いっそのこと随身の一人に加わってついてくるかね?」
ふざけながら答える狭衣は、たいそう機嫌がよさそうだ。それにつられてそばに控えていた弁の君にも笑顔が浮かぶ。几帳のほころびからのぞく狭衣はすっかりくつろいでいる気配だ。昨夜の雪がしみて、所々色があせた薄紫色の直衣に、紅の単や袙(あこめ)の色が響きあい、額より少し上げてかぶった烏帽子もひどくしどけなく優美で、男なら誰でも真似してみたいと思わせるほど清らかに見える。髪の毛の筋も乱れ、ひどく眠たそうに朝食の粥を眺めている狭衣とさしむかいの弁の君は、「狭衣さまも、みちがえるほど生き生きなさって・・・」と頼もしく感じている。
「さて、父上のもとに参るとするか」
狭衣は立ち上がって、衣装を無造作に着なして出て行こうとする。
「お待ちください。粥が冷めてしまいます。まずはともかく、お召し上がりになってください」
狭衣の御乳母の大弐の君があわてて声をかける。
「ははは。そんなに粥が心配ならば、そなたが食べればいいだろう。実はね、例の話していた姫君が、ご自分の屋敷にたった一人で心細くしておられてね、あまりにお気の毒だったから我が家にお迎えしたんだ。そこにいらっしゃるよ。なあに、問いつめられない限りは、母上にだって申し上げる必要もないだろう。一品宮に対しても、女院が崩御された直後だから姫君をここにお連れしたことはまずいと、父上も母上もいい顔はしないに決まっている。三條の新邸に移るまでは、姫君のことは内密にしておこうかと思っているんだ」
「まあ、こちらへお渡りに?・・・ですが、大殿や上におかれましても、どうしてあなたさまの思惑をとがめる様なことをなさいましょうか。あなたさまのお気に召す姫君をどうにかして探したいと、常々おっしゃっておられるのですから・・・ましてやこのたびの姫君はしかるべき家柄の御方。なんの不足がありましょう。これでようやく長年の私の頭痛の種も・・・あらまあ、これは失礼いたしました」
大弐の君もうれしそうに答える。
「気に入ったかどうかは今すぐ決めつけることでもないが、この姫君はたいそう頼りなく心細そうでね。どうして見捨てておけようか。正妻(一品宮)との不愉快な毎日を、この姫君に少しでも慰めてもらおうかと思っているんだよ」
そう言い終えて、狭衣は大殿のいる母屋へ渡っていった。
狭衣が行ってしまったあと、大弐の君は帳台に近づき御帳のかたびらを引き上げて見ると、宰相中将の妹姫は、御衾の下でひっそりと寝ているようだった。衾のふくらみ具合がまるで人が居ないかのようなささやかさである。
だが、寝具から流れる髪がふさふさと豊かに重なり、その多さが容貌の美しさを物語っているかのようだ。
「お姿まではわからないけど・・・まさかあの狭衣さまが平凡な容貌の姫君を選びなさるはずがないし」
つやつやとした黒髪は長さこそ斎院(源氏の宮)には少し足りないが、これはまだまだ姫君が若いからであろう。髪をじっと見つめていると、寝ていた姫君が起きる気配がした。見慣れぬ女房がそばにいるのにひどく驚いた様子である。
「お目覚めになられましたか。狭衣さまが、乳母であるこの私がかつて見たこともないほどの上機嫌であらせられましたので、いったいどんな姫君が狭衣さまのお心をなごませたのかと、つい失礼なふるまいを・・・お許しくださいませ」
大弐は姫君を不安がらせないように、さらに続ける。
「あなたさまはご存知かどうかはわかりませんが、狭衣さまは常々出家したい、世を捨ててしまいたいと申し続け、大殿も上も心配しない日はないというくらい、明けても暮れても迷い続けておられたのです。その悩みも今日でようやく終止符が打たれるようですわ。私どもでさえこのように喜んでいるのですから、上もあなたさまの存在を知れば、どれほどお喜びなされることでしょう」
大弐の君はその後、端のほうに控えていた弁の君にもうれしそうに語りかける。あらゆることに淡白な態度をとり続けていた狭衣の話を聞きながら、弁の君は、
「本当に幸いなご宿縁だったのですね。かたくなに出家を望んでいらっしゃった狭衣さまのお心の内が、あとかたもないほどとけてしまうとは珍しいことですね。狭衣さまがこのように姫さまを大切にしてくださっていることは承っていましたが、姫さまの亡き母君が常々、その他大勢の女君の中の一人として扱われるのは本意ではないと、このお話には乗り気ではありませんでした。残念ながら、母君は姫さまを残してお亡くなりになられましたが・・・。皇后宮あたりからも、姫さまを東宮のもとに、とのお話もございましたのに、このようなわけのわからない事態になってしまい、どんな面倒なことになろうかと気も安まらない心地でいましたが、ただいまのお話などによって、私の案じていた事もなくなったような気がします」
と語る。その素直に打ち明ける様子に、大弐の君にはたいそう好感を持つ。
「まあまあ、縁起でもないことはおっしゃいますな。決していい加減な気持でそちらの姫君を引き取ったのではありませんとも。狭衣さまなりの、固いご決断があったに違いありません」
このように乳母同士のくだけた語らいは、明るく騒がしく続いていった。


さてこちらは宰相中将ほうである。昨日は本邸の方に全く立ち寄らずに大納言の姫のもとで過ごした宰相だったが、さすがに妹のことが気がかりで消息の手紙をやると、なんと狭衣自身から返事があり、驚いて手紙を読むと、

『急に思い立ってしまい、まことに申しわけない。他に適当な吉日もなかったものだから・・・昨夜、わが屋敷に妹君をひそかにお移し申した。乳母の弁の君などは、兄君さまがお怒りになられるに違いありません、とたいそうおびえていたようだが、お屋敷を訪問して、庭の雪景色に私の足跡をつけるのも(姫を盗み出すこと)これはこれで風流ではないかと・・・。宰相、あなたがもし、私のしでかしたことを咎めるつもりがないのなら、本日夕刻に我が屋敷に立ち寄ってもらえないだろうか?私から直接、事の経緯を説明したい』

そう書かれていた。知らない間に事態が大きく動いていたことに、宰相は取り乱しそうになったが、いつかは結ばれて欲しいと願っていたことだからと、平静に心を落ち着けた。
「妹がこうも軽々しく連れて行かれたことはくやしい気持もあるが・・・こうなっては仕方あるまい。こちらがヘタに出るよりは、狭衣さまにすっかりお任せしたほうがよいだろう」
そう結論付けた宰相は、御返事に、

『つきっきりで看病しなければならない人(按察使大納言の姫)がいまして、本邸のほうを留守がちにしておりました。お立ち寄り下さったこと、全く存じ上げず失礼致しました。ひどくとり散らかしていませんでしたか』

と書き、弁の君宛てには、

『さらわれるも同然のように連れて行かれるとは、あきれるばかりだ』

と書いて、妹の着替え用の喪服と併せて堀川邸に送り届けた。それらを受け取った弁の君は、えもいわれぬほど可憐な風情で泣き濡れている姫君を着替えさせる。弁の君自身は朝方に化粧を済ませ身なりも整えていたが、生まれて初めて見るほどの豪華なお屋敷、磨き尽くされた調度品で目も眩(くら)むばかりの広い部屋、その中で暮らしている美しい容貌や才気あふれる女房たち・・・そんな人たちの前にでるのはきまりが悪く恥ずかしかった。狭衣が住んでいる部屋は、姫君が今いる建物とは別棟で、その寝殿には、狭衣の世話をしている召使いその他が大勢生活し、小造りながらもたいそう瀟洒(しょうしゃ)な御殿らしい。黄金をまき散らしたような庭の真砂(まさご)、素晴らしい枝ぶりの庭木立、吹き抜ける風の音さえこの世のものとは思えないほどの寝殿だとか。こんなに立派な堀川邸で朝夕生活して、いったい何が不満で日々思い悩んでいるのだろう、と弁の君にはまるでわからない。自分がまさに今、そのお屋敷の中で庭を眺めていると、我が身分が天女か女神に変わったようだと感じる。名の知られた僧たちが少しでもいいから狭衣大将の目に留まれ、と朝から夕方までひっきりなしに勤行に励んでいる。たった一言の声をかけてもらおうと必死になっている。
それは法師や僧だけではない。立派な身分の上達部でさえ、「内裏よりまず狭衣大将のご機嫌を」と、花に紅葉に、何かにかこつけては堀川邸におしよせているというではないか。音楽にしろ詩歌にしろ、また本格的な学問にしても、いつでも狭衣大将は尊敬の的だとか。容貌も気配も才能も、とても地上の人間とは思えないほどの御方がこの世にいらしたのだ。我が姫さまは、そんな御方に愛されるという宿命という幸いを与えられたたぐいまれなる女人であることよ・・・弁の君は我が主人の宿世を心の底から喜び、生きている限り、姫君のために自分の全てを尽くそうと誓ったのであった。


堀川邸に姫君を移してのち、狭衣は片時も姫君のそばから離れることなく世話をしていた。ごくまれに一品宮のもとを訪ねることがあっても、そこで夜を過ごすこともなく、明るい昼のうちでさえ、一品宮のもとでは落ち着いて暮らすことができない狭衣らしい。弁の君はそんな冷たい夫婦仲を聞くと、なんとも気の毒でならない。以前、「狭衣さまは移り気だ冷淡な方だ」といろいろな人たちが噂していて、弁自身もそこが気がかりだったが、我が主人である姫君への態度を見ていると狭衣は慈悲深く寛大で、心配は無用だったと胸をなでおろしている。ただ、狭衣の側近などが時折ささやいている狭衣の過去の行状などを漏れ聞くと、なんとなく不安で、心の奥底を決して人に見せようとしない、油断のならない御方とも思ったりもするのだった。


大殿夫妻は、「狭衣もようやく出家の気持が薄らいできたらしい、少し落ち着いてきたようだ」とたいそう喜んでいた。だが一方で、一品宮のほうは全くといっていいほど疎遠になっているのを憂(うれ)えていた。しかしこの話を切り出すと、我が息子の機嫌が悪くなるのがわかっているのでなかなか言えない。
ある日、上のもとに引き取られている若宮(女二の宮と狭衣の秘密の子)が、
「大将のところに斎院(源氏の宮)にそっくりな人がいるから、ちっとも一緒にいてくれなくなったよ。さみしいよ」
と不満そうに話しているのを上は不審に思い、ある日、狭衣の乳母である大弐の君を呼んだ。
「若宮がこのように申しておられましたが、まことのことですか」
「どうか、どうかお許しくださいませ。この話に関しては、大殿や上に問いただされない限りは、こちらから打ち明ける必要はないと、狭衣さまがきつく申されたものございますゆえ」
「息子が自室にこもりきりなのはどうしたことかと気になっていましたが、いったいどんなわけがあるのですか。さ、包み隠さずお話なさい」
「狭衣さまと一品宮さまとの御夫婦仲は、上もお気づきになられているとおり、すでに愛情は冷え切っております。宮さまのもとへ参上なされるのさえ、狭衣さまはたいそう苦痛に感じておられるご様子です。夜歩きをお勧めしても、そんな風流なお気持ちさえ枯れてしまったかのような憔悴ぶりでございました。ところが、故式部卿宮の姫君をお知りになられてからというもの、それまで世を捨てることばかりしかお考えになられなかったのが、ようやく女人と愛情を交わすことの幸せを実感なされたご様子です。
おおせの通り、たしかに狭衣さまは姫君をこちらに引き取っておられます。姫君のご容貌などは、これはもうまったく狭衣さまにお似合いの素晴らしいお方で、斎院にうりふたつと言っても過言ではありませぬ」
大弐の君の話を、堀川の上はにこやかな顔で聞いていた。
「そうでしたか・・・ことさらに知らぬふりをして恨めしく思いますよ。わたくし一人だけ何も話してくださらないとは」
「上、上、決してそのような隔ての気持があったわけではございません。私の命にかけてもそれだけは信じてくださいまし」
「ほほほ。そんなにかしこまらなくともよろしいのですよ。・・・これもめぐり合わせというものなのでしょうかねえ。わたくしは、狭衣の気に入った女人であれば、取るに足らないような身分の者でもかまわないと思っていたのですが、それが故式部卿宮の忘れ形見の姫とは・・・先日、母君がお亡くなりになられて、どれほど心細くお思いになられていることでしょう。そんな事情がおありなのに、急にこのような知らない屋敷においでになって、不安で仕方ないでしょうね」
そんなふうに二人が話しているところへ、突然堀川大殿がやってきた。
「なにやら真剣に話し込んでいるご様子なので伺ってみたのだが、どうかしましたか」
「殿、よいところへお越しくださいました。たった今、大弐より思いがけない話を伺っておりましたところでございます」
大殿に少しいざり寄った上は、大弐から聞いた話を包み隠さず話し始めた。
「・・・今まで何も知らないでいたのが不思議なくらいですわ。それにしましても殿、狭衣が一人で姫をお世話しているのも、何かと物足りないこともあるのではございませんか」
「いかにも、あなたがそのように心配するのももっともなことだ。だが、姫をこの屋敷にお迎えしたことが帝の知るところになれば、世間にうわさの種をまく事になってしまうと、狭衣はそう思ったのではないだろうか。だからといって大弐、そなたまでが我々に黙って知らぬふりをするものではないですぞ。姫の御乳母も兄の宰相中将も、この中途半端な状況に今頃どんなにやきもきしていることであろうか」
大殿は難しい顔つきでそう言って、しかるべき身分の女房数名を選び、調度類や遊び道具、楽器類など新しく清らかなものを用意させ、狭衣のもとにいる姫を自分が世話しようと心に決めた。姫が堀川邸に移るときに式部卿宮家に残った女房たちもすべて呼び、並々でない格式で姫君をもてなした。その心づかいは、大殿が下にも置かずに大切にかしづいているあの斎院(源氏の宮)に勝るとも劣らない様子である。やがて、姫の兄の宰相中将も堀川邸に招かれ、正式な形で妹姫と対面することが出来た。大殿夫妻に大切に世話されている我が妹を見るにつけ、宰相は、
「我が父宮が御在世で、たとえ入内という最高の栄誉をいただいたとしても、妹は周囲からこれほどの愛情を得られなかっただろうなあ。ましてや、あんなに妹の後見を心配しながら亡くなられた母上・・・母上にも、今の妹の幸せな境遇を見ていただきたかったことだ」
とうれしくもあり、母に見届けてもらえなかったことが残念でもあった。



このように大殿は、姫君を大切に世話していたが、かたや一品宮のことも決しておろそかにはならないように気配りしていた。
「この上ない身分の一品宮のもとに参上しないということは、大変おそれ多いことであり、宮をないがしろにしていると世間に指をさされても言い訳できないことだ」
と、我が息子にたえず忠告している。狭衣はその都度、
「やれやれまたか。言われるまでもなくわかっていますよ。本当に気苦労の多い我が宿世だ」
と不機嫌な顔つきになる。殿はそんな息子の顔を見るにつけ、
「また出家のことでも考えているのだろうか・・・しかし、神の御加護がなかったら、今頃はこんな在俗の姿も見られなかったわけだ。それなら、たとえ狭衣がよからぬ事を考えていてもそっとしておかねば。少しでも不愉快に思って、出家出家と言い出すのはたまらん」
と、ため息をつく。それでも、かの姫君がそばにいるおかげか、狭衣が癒されているような穏やかな顔でいるのが、大殿にはうれしかった。もともと、狭衣が一品宮のもとへ通う夜数は、宰相の妹君を迎える前と後ではなんら変わることなく、見苦しくないように表向きは気配りしている狭衣だったから、一品宮の方でもいつもどおりに、引き取った姫君のことは何も知らないというふうに上品に振舞うしかなかった。
さすがの狭衣も、そんな宮が気の毒に思われるが、心の底で「狭衣さまは薄情者」と思い込んでいる一品宮は、あきれるほど打ち解けようとせず、狭衣のちょっとしたひと言にさえいちいち気を回し、身のすくむような冷たい目つきで、不愉快そうに彼を見る。こんな調子では、とてもあの姫君の話など出来そうにない・・・狭衣はすっかりひねくれてしまって無言のままだ。宮のほうも同じく、薄情で見るのもつらいお方と思っているが、さりとて、狭衣があからさまに失礼な態度を見せたことはないし、あれもこれもすべてこの方の性格なのだと考えていた。けれど、私を嫌うがゆえにこのようなあしらわれ方をなさるなど、それほど私は情けなく恨めしい存在なのだろうか・・・と、一品宮は自分自身が生きているのさえつらくなる。
(もう、狭衣の薄情さは非難すまい、このお方は、今まで出会った中で一番仲睦まじく暮らせる女人に出会ったことでもあるし・・・女院の喪が明けたらすぐに尼になって狭衣さまの目の前から隠れてしまおう。他人も恨み、自分も恨み続けるなんてもうしたくない。世間の物笑いになることを怖れずに、喪が明けても鈍色(にびいろ)はそのままに、出家してしまおう)
宮の決意は固かった。


このように、一品宮が姿を見せない夜などは、宮のもとで養われている姫君(飛鳥井の姫君との間の子)と共に過ごすのが常だった。この屋敷にはたいして心ひかれる女房もいなかったので、姫とお付きの若い侍女達と、たわいもない世間話をしながら時間をつぶすほかにすることがない。心に思うのは、自邸で花のような美しさをあたりに振りまいている我が姫君のことばかり。姫君会いたさに、そそくさと体裁もさして取り繕わずに帰ってしまう狭衣の様子を聞くたびに、一品宮は、
「なんて無礼な態度だろう」
と今上の妹宮としての誇りをひどく傷つけられた思いで、二、三日ほど起き上がれないほど嘆き続けるのだった。


やがて年も改まり正月も十五日になった。七草粥の膳をお供えする日である。
堀川邸はたいそうにぎやかだ。狭衣の御殿のそばに住んでいる姫君は、まだ母君の喪が明けないために落ち着いた色合いの衣装をまとっているが、大殿夫妻にお仕えしている女房たちは、美しい春向きの衣装を重ねて着飾っている。新春を祝うさまざまな行事が続いた果ての十五日、粥杖の祝いで全て締めくくられる。若い女房たちが邸内のあちこちで、美しい杖をうしろ手に隠しつつ、どうにかして「相手を杖で打ってやろう」「打たれないよう用心しよう」など身がまえている様子はこっけいで楽しい。狭衣大将も、女房たちのはしゃぐ姿を上機嫌に眺めながらたわむれている。
「さあさあ、皆まずこの私を打ってごらん。そうすれば、おまえたちも私の子を生めるだろう。本当にその杖が霊験あらたかならね」
「まあ、狭衣さまにはすでにお似合いの御方がおそばにいらっしゃるではありませんか」
「お二人の間に割って入り込むなんて無粋な者は、ここにはおりませんわ」
美しい杖を手に、軽やかに動き回る女房たちは実に華やかだ。そのうちに、堀川邸に引き取られている若宮(女二の宮と狭衣の子。表向きは嵯峨院と女二の宮の母である大宮との御子になっている)が狭衣の方へそうっとやってきて、ふところから可愛らしい小ぶりな杖を持ち出して、狭衣をとん、と打つ。
「おお、してやられた・・・若宮にこんなふうに打たれるとは、もったいなくも、なんとうれしいことでしょう」
狭衣はうれしくてたまらない。ふと、何か思いついたように若宮をそうっと呼び、小さな手に持っている粥杖をあずかり、自分のふところに隠した。そしてそのまま宰相中将の妹姫がいる几帳のほうに寄って上からのぞく。「みんな、気づかれないように静かにしておくれよ」と茶目っ気たっぷりにささやく姿があんまりおかしくて、女房たちは笑をこらえるのに必死だ。姫の乳母である弁の君だけが、ただ一人はらはらして見守っている。母君の喪が明けていないとはいえ、新年であるからあまりに黒々しい喪服は避けて、浅葱色(あさぎいろ)の濃い薄い袿(うちき)に、表着にも同じ色の無紋の織物を着て、姫は手習いをしていた。地味な喪服の生地なのに、そんなことを感じさせないほど姫の着こなしはじゅうぶん華やかで美しさがいっそう引き立つようだ。脇息にもたれているその後姿があまりに可憐で、狭衣は手にしている粥杖を差し出すこともためらわれるほどだ。
「姫。これをごらんなさい。この杖はね、我が孫欲しさに父大殿が若宮に託した粥杖なのですよ。これで私を打てとね。息子が父親にそんな心配をかけているなんていいようもなくつらいことです。ですが、もしこの迷信が本当にかなうのなら姫、あなたの御身にはこれから大変なことが起こるに違いありません」
あからさまには言わないが、身ごもって欲しいという狭衣の願いをさりげなく聞かされ、姫は恥ずかしさで顔を赤くしてますますうつむいてしまう。その若々しく可憐なしぐさを見ると、まるで目の前に源氏の宮がいるかのような錯覚を覚えてしまう。狭衣の、姫に対する愛情は日に日に勝っていくものの、ふとしたことで源氏の宮への恋慕が思い出されて仕方がない。だが、源氏の宮は神に仕える斎院となった身。あきらめねばならない恋のかわりに、神がこの姫を自分に与えたもうたのだろうか・・・狭衣は筆をとって、


『尋(たず)ね見るしるしの杉もまがひつつなほ神山に身やまどひなん
(・・・神杉を探して賀茂の神山に入ってみたが、みんなよく似ていて目印の杉がどれだかわからない。源氏の宮によく似た方を手に入れたが、あんまり似ているから、やはり私は迷ってしまうことだ) 』


と書いてはみたものの、人に気付かれないようにすぐさま墨で書き汚してしまう。姫がてすさびに書いた文字を見れば、これからの成長が楽しみなほどの優美な筆跡。これでよかったのだ、源氏の宮は、最初から到底叶うはずのない恋だったのだ・・・狭衣は自分にそう言い聞かせながら、ふと文机に目をやると、梅かさねのたいそう華やかな文が置いてあった。見ると皇后宮(東宮の母。狭衣の異母姉)からのもので、


『急にお姿が見えなくなり、心配申しあげておりましたが、近く(堀川邸)にお渡りでしたのね。川の柳は誘い水の方へなびくと申しますが、あなたさまも、狭衣さまの誘い水になびき伏すとは。同じなびくのならば東宮に・・・残念ですわ。


同じくは木高き枝に木づたはで下枝(しづえ)の梅に来居るうぐいす
(・・・うぐいすよ、同じ留まるならどうして高い枝ではなく低い枝に留まって鳴くのですか。同じ鳴くのなら、なぜ東宮ではなく狭衣なのですか) 』


とある。狭衣は文を見ながら、
「異母弟のこの私を、下枝などとおっしゃるとはひどい言われようだ。さて、このお文の御返事はどうされますか?」
と笑って姫君に問いかけるが、姫は黙ってうつむいたままだ。
「東宮も、あなたにお心を動かされているご様子。それに東宮の望んでいることを私は知っている。本来ならば、あなたを東宮にお譲り申しあげるのがすじなのでしょうね。先日東宮に参上したおり、あなたの庭たづみ・・・『私を頼みにしないで・・・なかなかお逢いできるはずもありませんのに』の歌を見ましたよ。そのときも東宮は、かなりあなたにご執心だとお見受けしました。たしかに東宮は格別な存在です、この私よりもね。こんな結果になってしまって、あなたにとっては不本意かもしれないでしょうけど、これもまた宿世です。もう東宮のことは、頭の中から追い払ってくださいな。こんな私と一緒でも、甲斐のないものではなかったことよ、と思える日がいつか必ずやって来ますから」
そばに寄って、こまごまと打ち解けて語りかける狭衣と、慕わしそうに微笑む姫君。まことに仲睦まじく、愛情深い絆(きずな)で結ばれた二人であった。


このように、生涯愛し続けられる姫君をようやく探し当てられた狭衣は、日々深まってゆく愛情に、世の中をひたすらうとましく感じていた気持も少しずつ解けてゆくのであった。ただ、二人の仲が睦まじくなればなるほど若宮(女二の宮と狭衣の子。表向きは嵯峨院と女二の宮の母である大宮との御子になっている)がさみしそうで、夜は狭衣と一緒に寝たがり、姫君と共に過ごしたい狭衣を困らせる。狭衣も若宮がいとしくてならないが、この幼な子を見ていると、女二の宮の面影や耐えがたいほどつらかった記憶が思い起こされてしまう。一品宮との不仲、宰相中将の妹姫を引き取ったこと、取りつくろってばかりで本気で女人に打ち込めなかった心の浅さを、自分を見つめる若宮の瞳をとおして女二の宮に見透かされている気持になる。言い訳をするつもりはないが、それでも自分の消息を少しでも宮に知ってもらいたいと思う。だが長い間、自分の便りを受け取る事を拒否し続けている宮のこと、いくつ文を送ったとしても、とても見ていただけるとは思えない・・・狭衣は、若宮を見ているうちにたまらなくせつなくなり、独り夕暮れの空を眺める。きっと返事など来やしない、文を広げてもらえるとも思ってない、それでも、ほんのわずかな可能性をたのみに、


『眺むらん夕べの空にたなびかで思ひのほかに煙たつ頃
(・・・あなたを恋しく慕う私から立ちのぼる煙は、あなたが見ている夕暮れの空にはたなびかないで、思いもよらない方向に立ってしまいました。私の心中をあなたにわかってもらえず、独り悩むこの頃です) 』


と、今は尼になっている女二の宮のもとへ送ってみたが、やはり覚悟していたとおり、宮の方からは側近の女房である中納言内侍典侍の代筆だけであった。いつものことには違いないが、どこまで行っても決して交わることのない二人の宿縁を見せつけられるようで、このたびの代筆の返事がひどくせつない。
こんなふうに、女二の宮との思い出で眠れない夜などは、一晩中思い明かしてただ独りで耐えるよりほかなかった。



一品宮のもとで養われている飛鳥井腹の姫君は、大きくなるにつれて次第に美しさが増していった。隠しているとはいえ、実の父に狭衣、実の母に帥平中納言の娘の飛鳥井の姫を持つのだから、並みの人とも思えないような気品がある。それにだんだんと狭衣の顔立ちが似てきて、狭衣自身、この姫をおろそかな扱いなどとてもできそうにないと考えている。だが一品宮は、この姫が自分の嫌いな狭衣の縁者だと思うと、優しい言葉ひとつかけるのさえうっとうしい。
「狭衣さまがこの屋敷に時折顔を見せるのも、この姫がいるからで、ただそれだけなのだ」
と宮は考える。
「自分が出家したのちまでも、「この姫がいる」ということだけで狭衣さまはこの屋敷を訪れるだろう。出家してまでも、名ばかりの夫がやってくるのはつらすぎる・・・そうだ、この姫が、狭衣さまと飛鳥井の女君腹の御子であることを世間に公表してしまえばよい。そして、あの姫を狭衣さまに引き渡してしまおう」
とも思う。自分の身の上を何にも知らない無垢な姫君にとっては、少々かわいそうな決断だろうか・・・とも悩む。ひとり考えている一品宮の様子を、ただ御乳母だけが心配しているが、宮の心中を夫の狭衣にはなかなか申しあげることができない。姫君の日々の暮らしやさみしそうな様子などを伝えるのがせいいっぱいであった。一方、狭衣は日頃の宮の様子から、姫の存在がうとましそうだと薄々察していたので、
「さて・・・どうしたものだろうか。今さら宮が、姫を本気でどこかへ追い出すなど思えないが。表向きはそれなりに大事に扱っておられるではないか。
このままここに置いていれば、姫の将来は何も心配することはないだろう。ただ、私と宮の仲は、普通の夫婦のような仲睦まじさが望めないから、その点では姫がおいたわしいことだな」
と気に病んでいる。姫のことでも、お互い心のもやもやが取れず、面白くない。もし飛鳥井の女君が生きていれば・・・と狭衣は思う。仲睦まじい父と母の愛情に包まれて幸せに成長できるだろう。飛鳥井の女君をつまらぬ身分の女と軽蔑した事もあったが、私の子を産んだのだから、私たちは深い縁で結ばれていたのに・・・と狭衣はここでも後悔する。女二の宮のことにしても、飛鳥井の女君のことにしても、もはや習慣のようになってしまった狭衣の厭世癖である。実際は、不満に思うことなど何ひとつなく、宰相中将の妹姫を心ゆくまでお世話できるにもかかわらず。この後悔する癖、そして心を隔てては涙する性質を、宰相中将の妹姫もうっすら見抜いたようだ。
「心のうちをお見せにならず、隠し隔てのある御方」
と。こう感じるのも無理はない。未だに父大殿にさえも姫を対面させていないのだから。大殿の方でも、
「お会いしたいのに、残念なことだ」
とため息をついているが、我が息子の機嫌を損ねるのが恐くてなかなか言い出せない。狭衣は、
「あの姫君には少々事情がありまして。今しばらくお待ちください。近いうちには結局お目にかけられることでしょう」
と繰り返すばかり。
心から愛せる姫を手に入れたからとて、他人と距離を置きたがる冷めた性質はなかなか治りそうにないようである。