狭衣物語


その十五

狭衣は悪夢でも見ているのかと思った。使いの者の報告が頭の中で空回りしているかのような感覚に襲われる。長い患いに、先は遠くないと覚悟してはいたが、あれだけ熱心な家族の看護、少しだけでもこの世に居られる時間が延びてくれたら、と願っていたのに・・・狭衣は、世の無常感に打ちのめされそうだった。
お気の毒な姫君・・・そうだ、今すぐにでも結婚しようと気が急いていたのに、これから喪中に入るということは、当分は姫君のもとへ訪ねることもできなくなるということじゃないか・・・狭衣はそう考えると、情けないほど狼狽してしまう。とにかく宰相中将のもとへ、並々ならぬ気配りのこもったお見舞いを申しあげた。宰相中将からの返事には、
「亡き母のことは仕方のないこととして、それより妹が大変なのです。母に死に遅れまいとして・・・ちょっとでも目を離すと何をする気やら。世話をもてあましております」とあった。
「おいたわしいことだ、あれほど仲の良かった母娘なのだから。どれほど嘆いておられるか・・・。まったく、名前程度しか知らない姫君ならば、ここまで同情することもないだろうが、まだ幼さの抜けきれないような姫君にこんなに心を奪われるとはね、この私が」
姫君の絶望を思いやりながら、狭衣は、ほのかに触れた姫の肌ざわり、月の光の下で感じた姫の気配を思い出していた。隠し切れないほどの恋心をいだかせたお方(姫の母君)を喪(うしな)った今、あの姫君まで喪うことになったら・・・それを考えると、狭衣はぞっとするような不安に襲われる。


『越えもせぬ関のこなたに惑(まど)いしや逢坂山のかぎりなるべき
(逢坂の関を越えもしないで(何の契りも結ばないで)こちらで悩んでいた・・・あれが姫君に逢う最期になるはずがない、生きぬいてほしい) 』


姫の悲しみを少しでも癒そうと、狭衣はねんごろな祈祷をあちこちに頼み、また自分も神仏に祈りはじめる。姫と宰相中将の母君の葬送は、宰相中将が一人で采配した。人目は避けたが、狭衣も信頼のおける家人たちを野辺の送りに参列させた。葬送の手配など、狭衣の心配りも並みひととおりではなく、宰相中将はたいそう感謝したことであった。


葬送や法事などひととおりの雑事が済むと、狭衣は「かの有明の月影(姫のこと)はいかがお過ごしか」と心配でならず、悲しみにくれる姫を思いやると、いつもの忍び歩きさえする気になれない。夜ごとに着ている衣を裏返しては、


『片敷きに重ねし衣うちかえし思えば何を恋ふる心ぞ
(裏返しにした衣を下に敷いて寝ているこの私は、一体何をここまで慕っているのかと、自分で自分が不思議に思うほどだ) 』


夜着を裏返して眠ると夢の中で想う人に逢える・・・そんな俗信に頼りたくなるほど狭衣は姫君のことが恋しくてならない。そのうち宰相中将から、
「妹が明日をも知れぬほど弱ってしまいました」
という手紙が来るやいなや、狭衣はもう居ても立ってもいられず、忌みが明けるのが待ちきれずに、宰相たち兄妹の住む屋敷に駆けつけた。
「親を敬愛する心は世間並みではないと自負していたつもりです。なのに、少しでも出世した姿を母君に見られることもなく死におくれました」
「中将、君の嘆きに私の嘆きも劣らないつもりだよ・・・御母君のご臨終間際にちょうどお伺いしたからね。妹君に対する私の真心も、十分お見せ申しあげられなかったことが悔やまれるよ。亡き御母君に、頼み甲斐のない男よと思われたくないからね・・・妹君はどうしておられる?たいそう不安になるような手紙をいただいたが」
「ええ・・・あまりに子供っぽいほど母を慕って妹は育ちましたから、その母を喪(うしな)って、生きた心地もしないほどに嘆き悲しんでいる毎日です」
がっくりと肩を落としながらため息をつく宰相中将の話を聞いて、狭衣はますます妹姫のことが気がかりになる。いっそのこと、「ならばこの私に看病させてもらえないだろうか」と言ってみたいところだが、身分柄、さすがに切り出すこともできず、後ろ髪をひかれる思いで屋敷をあとにしたのであった。


堀川大殿が、かねてより狭衣のために用意していた屋敷が三條わたりにあって、「いつの日か我が息子のために」と手入れをしていたのだが、かんじんの狭衣は「出家を志している自分に、この屋敷など何の意味もない」とまるで興味を示さなかった。しかしここにきて狭衣は、
「このように庭のひらけた美しい場所、宰相中将の妹姫のために造り直したら、きっと住み甲斐のある屋敷になるに違いない」
と思い、さっそく造営にかかりはじめた。
東宮の母宮であり狭衣の異母姉である皇后宮に、宰相中将の妹姫を引取るなどということが知れたら、非常に困ったことになるだろうと思ったが、しかし今はもうあの有明の月影で見た姫君を誰にも渡すつもりはないし、誰にも邪魔されるつもりもない。四十九日の法要が済み次第、姫君を三条の新居に引き取って共に暮らそうと狭衣は決心していた。ところがその頃女院(帝と、狭衣の北の方である一品宮の母君)に物の怪が憑くという騒ぎがあり、ひどく苦しむ女院の容態を世間の人はたいそう心配して、落ち着かない日々が続いた。狭衣にとっても、女院は義母にあたる御方なので、女院の周辺を離れることがなかなかできそうにない。そのせいで宰相中将の妹姫の様子がはっきりわからず、気をもむ毎日である。


『憂かりける我中山の契りかな越えずば何に逢ひ見初めけん
(せっかくお逢いしたのに隔てを越えることも出来なかった・・・隔てを越えて契りを結ぶ事が出来ないのなら、いっそのことお逢いしないほうがマシだったと思います)
あまりに消息がなくってお恨み申しますよ。亡き母君のことを思い出されるのならば、この私を冷淡に扱われるはずはないのでは・・・? 』


こんな手紙を姫に贈る。宰相中将も、
「狭衣さまのおっしゃるとおりだ。物の道理がわからぬ年でもないでしょう。ここまで想ってくださる殿方のありがたい御心を、知らぬふりをよそおうものではありませんよ」
とさりげなく非難する。しかし姫君は、狭衣のことをありがたいと感じていても、片時も離れず世話をやいてくれた母君を喪った気持でいっぱいで、一行たりとも返事が書けず、衣を引き被って泣き伏し、周囲の女房たちも忠告に困るほどの様子である。亡き母君の魂がとどまっているという四十九日の間は、毎日仏壇の間の経文や仏像を見て心を慰め、四十九日が過ぎて室内の飾りつけなどもすっかりもとの明るさを取り戻すと、姫は今度は喪中にも増して一段と悲嘆にくれるになり、どんどん気分がすぐれないようになっていく。こんな妹の様子を見守りながら、宰相中将は、
「もしもこのまま妹が弱りつづけて死んでしまったら、狭衣さまは、一体誰にかこつけて喪服をお召しになられるのだろうか・・・表向きは妹とは何の関係もないことになっているんだし」
と胸を痛めていた。
ある日の夕暮れ、姫君は亡き母への恋しさが万が一にも慰められるかもしれないと、母君が存命中にいつも念仏を唱えていたお堂に渡り、安置されている仏像たちをながめた。薬師仏と見たとき、
(この仏さまにはね、あなたのことばかりを祈願しているのですよ)
と常々語ってくれた母君の言葉がふと思い出された。
「仏さまの御利益(ごりやく)など何の役にもたちそうにない私の身の上、何もいらない、ただ一刻も早く死出の旅路に私を送り出してください、仏さまならこんなことはたやすいはず。

・・・夢さむるあかつき方を待ちし間に四十九日(なななぬか)にもやや過ぎにけり
(母を喪った悲嘆から覚める暁を待っているうちに、四十九日ももう過ぎてしまったことよ) 」
そんなふうに死にたい死にたいと思いつめながら毎日が過ぎていく。喪服に包まれたその姿は、手のしなやかさも髪の流れるような美しさも、絵に描きあらわしようもないくらいで、誰かが見たらいつまでも見飽きぬ心地がしただろう。


狭衣が造営していた三條の屋敷が立派にできあがったので、宰相中将の妹姫を迎えるためのしかるべき吉日を選び、「あとは万事滞りなくお移しするのみ」とひそかに、だが限りない喜びの気持で指折り数えてその日を待っていた。しかし、かねてより病床に臥していた女院がここへきてついに崩御され、狭衣も引き続き喪に服さねばならない状況になった。このような予定外の事態になり、計画通りに事が運ばないことに狭衣はひどくあせった。
さらに、姫の容態が気がかりなために日に二度三度と文を届けても、何の返事もないことも狭衣の気を増々もませることとなった。宰相中将が、
「服喪・・・こればかりは仕方ありません。どのような事態になっても、私どもはあなたさまを信じています」
と快活に言ってくれたので、狭衣は女院の喪が明け次第すぐにでも姫君を三條に移す計画を打ち明けた。宰相中将は、「では仰せのままに」と、ここ亀山の里の宮家ゆかりの寺から、本邸である故式部卿宮邸へ戻る手はずを整えたが、かんじんの姫君が、
「ここは母上が死の直前まで仏さまに祈り続けていた思い出の場所。とても離れることなど」
と本邸に戻るのをためらっている。宰相中将自身も、この春ごろから通い始めた按察使(あぜち)大納言の姫がめでたく懐妊したのが、このたびの母君の喪で通えなくなり、亀山の里に閉じこもっていなければならないつらさを早くなんとかせねばと、いろいろ思案していたのだが、母君の喪も明けた今、一緒に落ち着いた暮らしをしたいと、近い将来、大納言の姫を宰相中将の本邸に引き取る決心をした。


その年の暮れになって、やっと妹姫はかつて住んでいた本邸に戻ることとなった。屋敷の中は、調度類などもすべて母君の生前と同じままそこにあり、それがかえって姫の悲しみをさそう。何にも変わってはいないのに、明け暮れ共に過ごした母君はもうこの世にはいない・・・そんな限りない心細さでしおれきっている妹のことを宰相中将は気の毒に思っているが、自分が通っている大納言の姫をまだこの本邸に引き取っていないので、妹のことが気にはなりつつも、夜などは本邸よりも大納言家に泊まる事の方が多かった。


雪が降っては消えを繰り返し、残り少ない師走の日が一日また一日と過ぎてゆく。とけ残った雪が白み渡る、清らかな景色を眺めながら、宰相中将の妹姫は、


『・・・ことはりの年の暮れとは見えながら積もるに消えぬ雪もこそあれ
(雪が降るのもあたりまえな年の暮れだが、積もるばかりで消えない雪もある・・・それなのに、私の母は消えてしまわれた) 』


などとりとめもない歌を口ずさみながら、思い出に浸って日々を慰めて過ごしていた。ある日の夕暮れ、日の入りと共に風が急に荒れてきて、霰(あられ)もひどい音をたてながら、屋敷内に吹き付けてきた。女房たちがあわてて御格子を下ろし、不安がる姫君のそばに伺候する。母君が存命だった頃は、こんな雨風の強い日には母だけを頼りにして、何にも考えずに安心してそばにいるだけでよかったのに、今では母君はもちろんのこと、兄上さまもいらっしゃらないなんて・・・姫君が心細がるのももっともなことであった。そばに控えている女房たちも、
「こんな嵐の夜くらい、宰相中将さまもご自分の屋敷で過ごしてくださればいいものをねえ」
と誰もがうらめしく思っている。
狭衣はといえば、姫君が自邸へ戻ったと聞いて、駆けつけたい気持は山々なのだが、暦の日和が悪くて、ほんのちょっとの間でもしばらくは行けそうにないのだった。相変わらず姫君のことは気が気でなかったが、イライラと気を揉みながらもようやく女院の喪も明け、やっと姫君のもとを訪問できる日を作ることが出来た。
その日、夕暮れの風に紛れるようにして、ひっそりと故式部卿宮邸へ向かった狭衣だが、姫君へのさまざまな物思いで道中の足も止まりがちになった。雪で閑散とした中、狭衣大将がここを歩いていることなど誰も気付きはしない。降る雪だけが我がもの顔に行く道を白く冷たく覆っている。あの子供っぽい姫君も、今頃はこの景色を眺めておられるのだろう、物思いに沈んだまま・・・狭衣はそんな姫君がいとおしくてならない。
故式部卿宮邸に到着後、取次ぎの、
「宰相中将さまは、大納言家におでかけになったまま、まだお帰りになりません。大納言殿の姫君がお具合が悪いとかで、ずっとあちらに詰めたっきりなのです」との返事に、
「なんと。このような寂しい雪の日に、姫君はお一人で過ごされていると?
姫の御乳母の弁の君に対面したい者がいるとすぐに伝えよ」
と命ずる。狭衣は、取次ぎがあわてて出て行った先の西面の妻戸の方へ行ってみると、錠をかけなかったのかうまいぐあいに妻戸が開く。そのまま母屋に入ると、ここにも立派な仏間がつくられており、どうやら宰相中将兄妹の亡くなられた母君が生前ここで勤行に励んだらしかった。その部屋からそのまま燈火のともっている方へどんどん歩いていき、母屋の中を仕切った戸を通り抜けて、立てかけてある屏風からこっそり帳台の辺りを覗くと、燈火に照らされて、姫君が物思いに沈んでいるのが見えた。明るい燈火をつくづくと眺めながら脇息にもたれている姫君を見つけたとき、狭衣は、あたかもそこに恋しくてならない源氏の宮が、ため息をついて寄り臥しているかのような錯覚を覚えた。こんなにも似ているなんて・・・狭衣はこのまますぐにでも姫君のそばに飛び出していきたい気持を抑えるのに必死だった。耐えたのは、姫君の御乳母である弁の君がやってきたからである。
「さきほど西の渡殿のほうで、いわくありげな身分のお方が、私に面会を、と申されたそうですが、どちらのお方でしょうね。とんと見当がつきません。
狭衣大将さまでしょうか・・・でも昨日のお手紙には、今日訪問なさるとは書いてありませんでしたのにねえ。いずれにせよ、お待たせするわけにもいきませんので、私ちょっと見て参ります」
御乳母が立ち上がろうとすると、別の女房が、
「もしお客様が狭衣さまなら、ひょとするともうこの部屋を覗いておられるかも知れませんよ。この部屋の燈火はここの屋敷の部屋の中では一番明るいですから。忍び込むおつもりならまずここでしょう。御格子には、いくつか穴もあいていることですし」
とすました顔で言いながら、燈火を少しよそへ動かして、室内の明るさを落とす。妹姫は女房の言葉を聞くなり、小さめの几帳をそばに引き寄せて、困ったように横になってしまった。御乳母はわざとらしく声を張り上げて、
「さあさああなたたち。もっと姫さまのそばに集まってお守りするのです。長い間どなたさまも住んでいらっしゃらなかったこの部屋に、なんとも覚えのない香りが漂っていて気味が悪いこと。紙燭をもってこさせようかしら」
など言いながら隣の部屋に戻っていった。年若の女房たちが不安でざわざわ騒ぎ出したが、年かさの女房が、
「騒ぎ立てて姫さまを恐がらせるものではありませんよ」
「鬼は臭いと聞きます。このように良い香りがするのは、きっと仏さまの御香りですわ」
などたしなめる。すると別の女房も、
「誰かが部屋に入ってきたとしたら、それは『隠れ蓑』のお話に出てくる中納言ですわ、きっと姿を隠す蓑をまとって、あちこちのお屋敷に忍び込むと言いますものね」
と笑うので、そこから女房たちの雑談が始まりだした。そんな女房たちのおしゃべりをよそ目に、妹姫はひとり、そら恐ろしい心地のまま夜具を顔までかぶって怯えている。やがて御乳母が紙燭を持って部屋に入ってきた。そのスキを狭衣が逃すはずもなく、女房たちの目が御乳母に注がれた一瞬のうちに、暗がりから帳台へとするりとすべり込んでしまった。御乳母も女房たちも、その事に全く気がつかない。
「ヘンね、お客さまはどこにもいなかったわ。妻戸は開いてるし、雪が吹き込んでただけだったわ」
「今宵は月は出ていませんが、外はとても明るうございますわね」
「こんな風流な夜は、色好みめいて出歩きたい気持にさせられるでしょうに、黙って帰られるとは、お客さまは無粋なお方でしたのね」
など口々に笑って実ににぎやかだ。そこに突然、
「西の妻戸で久しくお待ち申しあげていましたが、御乳母である弁のおもとは返事もなさらない。しかたがないので、御乳母の君がお持ちになられている紙燭のお導きのままにこちらに参りましたよ。おお寒い。今宵はもう追い出されても、寒くて動けそうにありません。このまま御帳台で一晩過ごさせていただきとう存じます」
と涼やかな声がする。一同がびっくりして声のする方を見ると、なんと狭衣大将が、帳台のかたびらを引き上げて中からこちらを伺っているのだった。
そのまま、いかにも慣れたしぐさで妹姫を軽々と抱き上げ、帳台の中に引き入れてしまう。あっけにとられた女房たちはものも言えない。ただひとり、御乳母だけが、
「この私が狭衣さまを手引きしたと、宰相中将さまや世間の人に誤解されてしまいます。このようなことをなさらずとも宰相中将様は、もはや狭衣さま以外のお方に姫様を差し上げようとは、つゆほどもお考えになってはおられません」
となんとか押しとどめようとする。
「大丈夫。あなたは何も心配しなくていいから」
あっさりそう言われると、御乳母はそれ以上なにも言えなくて、
「姫さまはくつろいでおられたので、それなりの身支度など何もなさっておられませんのに、このような・・・情のうございます」
そう嘆きながら、うち臥してしまった。もちろんほかの女房たちも暗黙の了解とやらで、さやさやと衣ずれの音もひそやかに部屋から出て行ってしまった。
以前この姫のもとに忍び込んだ時は、場所が仏間だったせいもあり、仏に遠慮して寂しい独り寝を強いられたが、今夜はそうはさせない、心ゆくまで衣を脱ぎ散らかせて、姫の全てを手に入れる・・・狭衣はそのつもりで姫君を抱き寄せる。すっかり怯えて小鹿のようにふるえている姫君が限りなく可憐だ。まだ幼さの抜けきれない、泣きじゃくる姿が気の毒にも思えたが、今宵の狭衣の想いを止めるものは何もない。ただただ時の経つのも忘れて、姫をいとおしむことに没頭し始めた。


いつもは何ということもない鳥の鳴き声が、今朝にかぎってどうしてこんなにつれなく聞こえるのだろう・・・狭衣が明け方の鳥をうらめしく思っていると、御乳母の弁の君がやってきた。
「夜がすっかり明けてしまいました。お帰りになるのに体裁の悪い時間になってはわたくしどもも困ります」
「明けるにはまだ早いだろう。葛城の神さまのお節介にも負けないよ」
そう言いながら狭衣はせつなそうに起き上がり身支度を始めた。いっときでもこの姫君と離れるのがつらい、こんな見苦しいまでの恋慕を私はいつの間に覚えたのだろう・・・狭衣は自分の一途さが可笑しくてならない。


『・・・解き侘びしわが下紐を結ぶまはやがて絶えぬる心地こそすれ
(なかなか解けなかった下袴の紐をやっとほどくことができたのに、今朝はもう結ばねばならないとは。結んでいる間に縁が切れたらどうしようか)』


己の恋心が空恐ろしいほどなので、狭衣は和歌の終わりを言い消してしまう。姫君の方はと言えば、ほんの数ヶ月前に母君を喪ったうえに、昨夜の狭衣の突然のふるまいで、今までにないほど打ちのめされていた。狭衣は、一晩中泣き明かし明け方になっても夜具をかぶって出てこようとしない姫がかわいそうだったし気がかりでもあった。今日の日暮れまで逢えないなんて、こんなに頼りなさそうな風情でいる人を、どうして一人にさせられようか、それにこの関係はいつかは世間に知られてしまうこと、噂になって好奇の目にさらされるような恥ずかしい思いをするくらいなら、いっそのこと・・・それに何より、亡くなられた母君そっくりのこの姫君、思うがままに教育して、理想の女人に・・・狭衣の想像はどんどんふくらんで行く。
やがて狭衣は御乳母の君に命じた。
「車をこちらに寄せよ。これから女君をよそへお移し申しあげる」
車寄せのために、御格子を一間ばかり開けると、二十日あまりの月がまだ庭の雪を明るく照らしている。狭衣は枕元の几帳を押しやって庭を覗くと、雪が降り積もった木々の梢が月に輝いていた。その景色を眺めながら、狭衣は初めて垣間見した時のことや、琴の音、故母君の燈火の下での美しかった御姿などを、少しづつ女君に語り始めた。
「火影のもとの母君の御姿は、あなたと間違えるくらいたいそう若々しかったですよ。この私が母君のほうに恋してしまうほどにね。一度想いはじめたら止まらない性格なもので、思いとどまるのに苦労しました。ほら、あの雪の降りかかった梅の梢などは、あの夜の桜の小枝によく似ている・・・


・・・行きずりの花の折かと見るからに過ぎにし春ぞいとど恋しき
(過ぎ去った春の思い出がますます恋しく、母君が偲ばれてなりません)

ほら、あなたも一緒にごらんなさい」
母君の思い出や垣間見の話など、なつかしさと恥ずかしさで胸がいっぱいになった女君は、


『・・・よそながら散りけん花にたぐひなでなどゆきとまる枝となりけん
(花のように散ってしまった母君と一緒に死ぬことも出来ず、私は梢に積もっている雪のようにこの世にとどまっている。情けないことです) 』


と返歌した。
やがて供人が車を用意する。狭衣は軽々と女君を抱き上げ車に乗せる。御乳母の弁の君はひどく狼狽した。
「姫さまをどちらへお連れ申すのですか。心外な事でございます。何もご存じない宰相中将さまも、たいへん心配されましょう。今までどおりこちらへお通いくださればよろしいではございませんか。あまりに突然のことで、私どもは宰相中将さまに、なんとお叱りをうけることやら・・・」
「かまわぬ。姫君のために、し慣れない早起きを毎朝続けるのもなかなかつらいことだからね。乳母である弁のみついて参れ」
貴い身分の狭衣に有無を言わさず命ぜられ、弁の君は逆らえるはずもなく、屋敷に残る女房たちに万事指図して身なりだけを整えて、男君と女君の待つ車に大急ぎで乗った。