狭衣物語


その十四

おぼろな月の光の中を歩く牛車の中で狭衣は、
「出家の本意は、このままかなえられないままで立ち消えてしまうのだろうか。かの粉河寺にてはっきりと目にした、普賢菩薩のお導きを信じているのだが・・・しかし、こんなつまらない夜歩きをいつまでも続けて、これ以上物思いを増やすことは・・・」
とはずむ心になりきれないまま、興ざめな気持で窓の外を眺めていた。やはり戻ろう、と引き返し始めたとき、築地の崩れた所から、桜の梢がたいそうおもしろく咲きこぼれている家が目に止まった。
「・・・これはなかなかこじんまりとして風情のある屋敷ではないか。道季、どなたの屋敷なのだ」
「は。故式部卿宮邸でございます。宰相中将のご家族がこちらに住んでおられます」
この宰相中将とは、すこし前まで宮の中将と呼ばれていて、妹を狭衣に引き合わせようとしていた人物である。
心得たような道季の返答に、狭衣はわきあがる好奇心を抑えられず、車を屋敷近くに寄せてみると、残念ながら門は固く閉ざされていた。屋敷内では、春の夜風の吹くままに柳の葉がなびき桜の梢も花びらを散らし続け、見逃すのが惜しいくらいの風情に加えて、屋敷の中からほのかに聞こえる琵琶と筝の琴の弾き合わせが、狭衣の心を高鳴らせ、垣間見へと誘った。築地の崩れた場所から、こっそりと屋敷内に入って琴の音のする方へ近づき、透垣(すいがい)のもとに隠れて見ると、見事な琴の音を奏でる女人がいた。狭衣は今まで、入道の宮こそが、当代一の筝の琴の名人と信じていたが、この女人の奏でる音は、それに劣らずたいそう可愛らしく優美である。そのうちに、西の部屋の方から念仏を唱える幼い声が聞こえ始めた。その美しい声に狭衣は、
「ああ、宰相中将の弟君で法師になられた方のお声だな」
と思った。どんなご家族なのであろうか・・・狭衣はますます興味がわき、もっと近づいて、几帳などがすっかり片付けられている部屋をよく見ると、御帳台の、ほのかな燈火のそばに、気品あるたたずまいで脇息にもたれている女人がいた。年は三十前くらいであろうか、掾iろう)たけて優雅なさまは、今まで見てきた多くの女人も色あせるほどである。地味な白い衣装に薄紫のはっきりしない色を重ねただけで、化粧もきちんとしたように見えないのに、顔の色や額髪のかかり具合、手の格好などがほんとうにきれいで、狭衣は、
「この方が、以前宰相中将が話していた妹君であろうか、いや、いくら若々しく見えても、さすがに『姫君』と呼ばれる年齢ではなさそうだ」
など悩ましい心地で覗き続けている。立ち居振舞い体つき、どれをとっても感じがよく、
「宰相中将の母君であろうか・・・しかしそれにしてはあまりにも若々しすぎる。私の母上以上にすばらしい、このようなお方がいらしたとは・・・中将の言っていた妹君が、このお方をもっと若くしたような女人であったなら、なんとかして逢ってみたいものだ」
と、ここを立ち去る気がすっかり失せてしまいそうである。おかしなものだ、あまたの女人を見てきたあげくの果てに、不釣合いなほどの年上の女人に懸想してしまうとは・・・と、狭衣はおのれの物狂おしさにあきれるほどであった。


その後、源氏の宮に面影が似かよっているとのうわさの、致仕の大納言の姫君なども垣間見などしてみたが、それなりに美しいだけで、やはりあの故式部卿宮邸で見た女人が忘れられない狭衣だった。きっと宰相中将の母君に違いない、そんな方におろかにも恋してしまった自分の想いを、中将の妹君への手紙にかこつけて、すこしでも伝えられたら・・・と、


『・・・散りまがふ花に心をそへしより一方(ひとかた)ならず物思ふかな
(散り乱れる桜のようなあなたさまに心をとどめた時から、ひとかたでなくさまざまに物思い沈んでいます) 』


このように、姫君以外の人への思いも混じっているような手紙を遣わした。
ちょうどそのとき、文使いと入れ違いになるようなかたちで宰相中将が狭衣邸を訪ねてきた。狭衣は、親しみをこめて中将を歓待する。忍び歩きの夜の一件は中将には黙っていよう、中将には知られずに、あの女人が彼の母君かどうか知ることは出来ないものか・・・狭衣はそんなふうに考えながら中将を見つめるが、あの夜、燈火に照らされたかの女人の美貌にはそれほど似ていないのに気づいた。狭衣はため息をつきながら、
「さて、いつぞや話してくれた妹君の一件は、その後どうなっているのだろう。あのときの君の一言が、わたしを未だにこの世につなぎとめているのだがね。私の出家の心を止めさせたのなら、最後まで責任をもちたまえ」
そう中将をやんわりと責めた。その態度に中将は、「ああ、狭衣さまもようやく本気になってくださったようだ」と内心うれしく思いながらも、
「妹の縁談は、私の一存でどうこうなるものではございません。妹付きの侍女などに、いろいろあなたさまのお気持ちを伝えてはいますが、妹はあきれるほど古風な考えをしておりまして・・・『私のことを人並みに想って下さるお方などいない』などと信じているようです。ましてや極上の女人を見慣れているあなたさまのこと。めでたく妹と結婚したあとすぐにお心変わりでもなされてしまっては、私が家族から恨まれてしまいます。私は、母君を悲しませるのだけは、なんとしても避けたいのです。父である式部卿宮が亡くなった折、母君も出家するおつもりであったのですが、幼い私たちを自分と同じく山奥に閉じ込めるのもかわいそうだと今まで世話してくださっているのです。妹には、宮仕えの話などもいただきますが、後見がない者に宮仕えは難しいと母君がずっと断り続けていますので。しかし、いつまでもそうもしてはいられず・・・なんとか妹の将来を見届けてから出家したいと母君は考えているようですね。官職はそれほど高くなくても、見捨てられない程度の男で、末永く大切に妹を扱ってくれる人物であればよい、といつも申しているようです」
涙を袖で押さえながらそう語った。誠に妹思い、親思いの中将である。
「妹君を東宮のもとにお入れするつもりなのかい。たとえ故式部卿宮のご遺志であったとしても、後見の弱い姫君が後宮でやっていくのはつらいだろうね。どうだろう、わたしのように『馬鹿』がつくほど真面目な男を後見にするというのは。そうすれば、お気の毒な御母君もお心安らかに出家して、勤行に精が出せるというものだよ。私が妹君をお世話できる立場になれば、御母君も将来なんの心配があろうか。そりゃあ、君が心配していること(二人の仲の破綻)に関しては、お互いの心を予想できるものではないので、言い切ることは難しいけれど、相手のことも自分のこともかえりみないほどの浮気沙汰などはしたことがないよ。妹君を嘆かせるような振る舞いをわたしがどうしてできようか。今までの私は、自分のことなどこの世の中でどれほどの存在だろうかと嘆いていたが、妹君のお世話ができる立場になれば、少しは自分の命も惜しいと思えるようになるに違いないよ」
「いえいえ、あなたさまが熱心にお言葉をかけてくださるので、前にもまして宮仕えのことは考えないようにしている様子です。『こんな物の数にも入らない我が身にどうして狭衣さまがお声を』と、妹はそのことを恐れているのです。失礼ながら、あなたさまと一品宮さまのこと(不仲)は我々のような下々の者にも・・・。その二の舞になりはしないかと、妹は・・・」
宰相中将は、おしまいの言葉をにごす。
飛鳥井の女君のことを偲んで涙を流さない日はないというのに、一品宮とのことなぞ持ち出して・・・と狭衣が興ざめな気持でいると、ちょうどそのとき、さきほどの文使いが故式部卿宮邸から戻ってきた。手紙を見て中将は、
(やれやれ。こんなに暇なくどこぞの姫と手紙のやりとりをなさっているようでは妹のこともどれほど真剣に考えていることやら・・・)
としらけた顔をしたが、狭衣はクスクス笑いながら、
「ほらほら、この手蹟に見覚えないかい?

・・・散る花にさのみ心をとどめては春よりのちはいかが頼まん
(散る花にばかりお心をとめてばかりいらしては、春が過ぎ去ったあとは何を頼りになさるのでしょうか)

どなたの代筆かな。美しいお手蹟だが、少々古めかしいのが惜しいことだ」
と言う。
「なんと。他の方からのお手紙に見せかけわたしをからかいなさるとは、いじわるなお方だ。まあ、こんな古風な老女の代筆では、あなたさまはきっと機嫌をそこねられるでしょうが」
中将はそう言いながらも、まんざらでもない顔で微笑んでいる狭衣の様子に満足していた。


それからしばらくたった四月の一日頃、堀川邸を里邸として宿下がりしていた弘徽殿女御(女一の宮)は、陣痛にもそれほど苦しみもせずに、平らかに女御子を産みまいらせた。嵯峨院などは、
「今上にいまだに男皇子がいない今、同じ産むならば男子であればどんなにめでたいことか」
と少々口惜しく思っているようだが、とにかく幼い命の誕生に
宮中が始終明るい空気に包まれている。大儀を果たした女御へのねぎらいはいうまでもない。内裏からも帝の御使いが、
「ご様子はどうか。はやく対面を」
とひっきりなしにやってくる。御五十日(いか)の祝いの折に、ようやく対面したときの帝の様子は、待ちかねた皇女なだけにたいへんな可愛がりようで、膝の上で片時も手放せない勢いである。女御はそれを見るにつけ、
「ああ、この御子が男皇子であれば、今上のお喜びもいっそうであったろうに」
と悔しい思いでいる。帝はこの弘徽殿女御をことのほか寵愛していて、しかも初めての御子を産みまいらせた現在、他の女御更衣のいったい誰が競争できようか。やがてこの弘徽殿女御が、中宮に上がることが決定した。


さて、現東宮である若い一の宮(坊門上と堀川大殿の娘である皇后宮の御子)には、元服の夜の添い伏しからそのまま麗景殿を賜った右大臣の娘ただ一人が女御としてあがっているが、たいそう年上の女御なので、遊び相手としては、少々気ぶっせいだと東宮は思っていた。そんなとき、狭衣の北の方である一品宮のもとにいる姫君(飛鳥井の女君を狭衣の間にできた子)のうわさを聞き、ぜひお会いしてみたい、と心に深くとめているが、この姫君はまだまだ幼すぎるために会うことが出来ず、残念に思っていた。その他にも、故式部卿宮が、「つまらぬ娘ではありますが、ぜひおそばに」と、娘の姫君の事を言い続けていたのを忘れてはいなかったが、東宮自身の一存ではどうにも申し込みできることではないので、「どれほどお美しく成長なさったであろうか」と心をこめた手紙を故式部卿宮家にたびたび差し上げているのみだった。故式部卿宮家では、東宮のお心遣いはたいへんうれしいが、さりとて頼りない後見しかない娘がどのように宮中で暮らしていけるかと悩み、東宮の思し召しを扱いかねていた。兄の宰相中将などは、
「狭衣大将が、妹を貰いたいと長年言い続けてくださっているのですから、かなえてさしあげてはどうでしょうか」
と常々母君に言っているが、母君は、
「それほど熱心だとは思えませんが・・・それに、あのお方は、始終出家出家とおっしゃっているそうではありませんか」
と狭衣と娘の結婚など、とてもとても考えられない様子であった。



その年も夏を迎えた。
五月雨の季節はまだ先だというのに長雨が続いて、気もふさぎがちな昼下がり、狭衣は手習いをしている最中の東宮のもとに参った。
「熱心に書いておられますね。こんなふうに、時々はこのわたしにも拝見させてくださいよ。めんどうな事があったときだけお呼びがかかり、こちらに据え置かれるにもかかわらず、ちっともお手紙などを見せては下さらない」
微笑みながら恨み言を述べる狭衣に、東宮はそこらに散らばっている手紙をすぐにも隠せそうにない様子だった。その中に、ほんの今しがた来たばかりのような、紫色の紙の並々でなく見える結び文を狭衣は見つけ、
「どちらからのお手紙なのですか?」
と繰り返し見たがると、
「故式部卿宮の姫君だよ」
東宮はそう答える。手紙には、


『・・・のどかにも頼まざらなん庭たづみ影見ゆべくもあらぬながめを
(庭にたまった雨水に影もうつらないほどに降り続く長雨は、いつ止むともしれません。ですから、なかなかあなたさまにお逢いできない私を頼みに思わないで下さい) 』


とあった。かすれぎみの墨つきだが、母君の筋に似て、いや、一段と若々しく美しい。このような可愛らしい手紙を今までよくも見なかったものよ、と狭衣は残念で、だが子供っぽい筆跡であるところから、結婚はまだまだ先の事であるらしいと安心した。
「この姫君は、すばらしい手蹟ですね。もしよければ、うちの姫(飛鳥井腹の一品宮養女)にお手本として与えたいくらいですよ。ただ、恋文なので、手習いには少々軽薄かもしれませんね。東宮は、こんなふうに何ごとにも優れた女人を見初められて、うちの姫などはもうすっかりお忘れになられたとしても仕方のないことです」
「あなたは、ご自分のところの姫の入内の話はその気がないのか、いつもはぐらかしているではないか。そのように心苦しくなるような事を言わないで下さい」
東宮の多少心細そうなお返事に、狭衣はほほえましくなる。控えている女房に紙と硯を持ってこさせると、すらすらと手紙を書き始めた。


『・・・いつまでと知らぬながめの庭たづみうたかたあはで我ぞ消ぬべき
(長雨に降りたまった庭の雨水の、できては消える泡のように、私もはかなく消えてしまいそうですよ)

・・・口惜しや緒絶(おだえ)の橋はふみ見ねど雲井に通うあとぞひまなき
(口惜しいことですよ、あなたからのお手紙はちっとも私のもとへは来ないのに、宮中の東宮のもとへは御使いの跡がひっきりなしとは) 』


「どなたにお文を書いたのですか?見せてくださいよ」
そう言いながら東宮は、狭衣の書いた手紙を奪おうとする。元服してまだ間もない幼さだが、大層端麗で身のこなしも性格も上品な東宮は、狭衣のことを、こちらが気後れするほど立派な方と思い込んで親しみにくく感じている。そんな東宮に狭衣はそっけなく、
「ああ、これですか。・・・世の中が住みにくくどうしようもないので、つまらなくとも何とか愛情の持てそうな女に宛てたものですよ。素性もろくに知らない女ですがね」
と言って使いの者に手紙を渡す。東宮はその返事に笑いながら、書棚から自分の書いたいろいろな手紙を持ち出してきて、狭衣に筆跡の指導を仰ぐ。狭衣はそれをこまかく教え直しながら、文に書かれた歌をおもしろく詠んでいると、やがて蔵人が東宮のもとに参上し、何やら狭衣に用がある素振りを見せた。どうやら、先ほど故式部卿の姫君にひそかに送った手紙の返事らしい。それならば、と人目につかないところへ行き、こっそり広げて見ようとすると、例によって、あの口の悪い権中納言がたまたま近くに居て、うっかり覗かれてしまった。さっとひき隠したが、もう遅かった。
「何とまあ、大将殿。皆があこがれてやまない高貴な一品宮という女人を北の方に持ちながら、まだご不満がおありと見える。ほほう、いわくありげにこんな人目につかない場所で、手紙を見なければならない女人とはね」
大げさな声で権大納言がわめくのを、狭衣はそ知らぬ顔で、
「あなたがいちいち気をとめなければならないような、あやしい文ではありませんよ。わたしの娘の、下手な手習いです。世間の人に見せるようなしろものではありませんが、これでも一応わたしは親代わりのつもりでね、大事に身に付けているのですよ」
と、すましたように言った。権大納言は、
「・・・水浅み隠れも果てぬ鳰鳥(におどり)の下に通ひし跡も見しかば
(水の浅さに隠れ切れない鳰鳥のようなあなたが、かつて一品宮のもとを往来したところを見たものですから)
ははは、お隠しになさっても無駄ですよ。見せては下さらないのですか?その、大事な愛娘のお文とやらを」
といかにも馴れ馴れしい。
「そうやって、またありもしない事を言いふらすおつもりらしい。
・・・とりあつめ又もなき名を立てんとやうしろの岡に狩りせしや君
(ありもしない噂を立てようとして、あなたはわたしの後ろから覗いたのですか)
一品宮との噂も、ただすの神に訴え申したかったですよ」
そう言いながら、狭衣は権大納言の目の前で手紙をこまごまと破り、「さあどうぞご覧下さい」と言わんばかりに差し出した。どうせいつもの代筆だ、そう思ったからこそ破ったのだが、権大納言の、本気にも見えないくやしがりようは、なかなかにあだめいた風情で、見どころがあった。



故式部卿宮の姫君が東宮にあてた手紙を見て以来、狭衣は複雑な心境でいた。東宮の母宮は、父上と坊門の上の御娘であり、坊門の上は故式部卿宮とはご兄妹、たいそう親しい間柄で、母宮である皇后宮が宰相中将の妹君に正式に結婚の申し込みをされたら、きっと承諾されるであろう、秘め事の多い私など避けられるに決まっている・・・それが現実だということが、狭衣にはいかにも口惜しかった。皇后宮と狭衣は異母姉弟だ。皇后宮は東宮と宰相の妹君のことをどのように思われているのか、狭衣は気になった。
そこで宮のもとに参上し、世間話などのついでのように、
「東宮も、最近は大人びた分別が見られるようになりましたが」
と切り出してみた。
「まあ。いつの間にお兄さまのお耳にまでその話が届きましたか?そうですの。わたくしの母上と故式部卿宮はご兄妹・・・その御娘である姫君のことは、存命中に何度もお願いされておりましたのに、何も出来ず・・・。なんとかお世話したいと思っていても、今のように離れていては気持だけが先走って何のお役にもたちませんわ。それならば入内していただいて、積極的にお世話できたら、と思っていますの。ただ、妹姫の母君が頼りない後見を恥じて・・・そのような煩わしいことを気にする必要などありませんのに。古参女房たちが、幼くとも類まれな可愛らしさだった姫君がさぞかし美しくご成長されていますよ、と東宮をそそのかしたのですわ。わたくしも、たいそう愛らしかった姫のこと、よく覚えておりますのよ」
皇后宮は微笑みながらそう語った。
皇后宮もすっかりその気になっておられる、もし私が横取りしたらどれほどがっかりなさることか・・・笑いながら話す宮に、そんなうしろめたい気持も起こらないではなかったが、それよりも、こんな重々しい身分の人たちからもてはやされている妹君に逢ってみたいという思いには勝てない。たとえ、皇后宮がわが東宮のもとにと、強く望んでおられるとしても。しかし、わざわざお使いをたてて手紙を送るのは、東宮と競争しているような気まずさもあり、狭衣は今までどおり宰相中将をせっついて、手紙を妹君に渡し続けた。『比べ見よ浅間の山のけぶりにも誰か思ひの焦がれまさると(あなたをより強く想っているのは誰か、私と東宮とを比べて見てください)・・・東宮がどれほどたくさんのお手紙を贈られても、私の想いには叶わないでしょうよ』など、これ以上ないほど美麗な手蹟は妹君にはまぶしいほどの手紙だ。宰相中将の母君などは、
「まず東宮にお手紙をお返事するように。こちらは軽んずることはできませんから。狭衣さまは、代筆でけっこうでしょう」
といい、


『・・・あさましや浅間の山の煙には立ち並ぶべき思ひとも見ず
(あきれたこと。あの煙に並ぶとも思えないあなたさまのお気持ですのに、あれ以上に恋いこがれていらっしゃるとは) 』


そう返事した。
「母上、狭衣大将はたいそう真剣なご様子なんですよ。なんとか結婚を許して差し上げてはいただけませんか。東宮さまには、この狭衣さまのご養女として、一品宮さまのもとで養育されている姫君がいらっしゃるではありませんか。もうあと2、3年すれば、あの姫君がきっと入内なさるでしょう。揺るぎないほどのご立派な後見もあることでしょうし、そうなればたちうちできっこないですよ。わたしなどは殿上人のはしくれで、入内した妹に行き届いた世話などとてもとてもできません。皇后になれてこその入内ですよ。狭衣さまの養女の姫が入内すれば、皇后の望みなど霧のようにはかなく消えてしまいます。それに比べて狭衣さまご自身は、たしかに一品宮さまを妻としておられますが、内々に見せてくださるご誠意から察すると、どうして妹を今後もおろそかにもてなす事がありましょうか。世間の人はあのお方を薄情と思っているようですが、なかなかどうして、決して情をかけた女人をお忘れにならない御心をお持ちです。時々だけでも妹の所にお通いになる・・・それでけっこうではありませんか」
宰相は母君を必死で説得する。なるほど、たしかに息子の言う通りかもしれない、東宮のもとに差し上げたとしても、いくら皇后宮が目にかけてくれたとしても、十分な後見のない姫君が後宮で対面を保って暮らしていくなど、みじめなだけだろう、それならばいっそ、あの子を捨てたつもりで狭衣大将に差し上げるのもひとつの方法かもしれない・・・宰相中将の母君は、説得に心が傾きだしつつあった。



その年の夏ごろより、宰相中将の母君は体調を崩し、床につきがちになった。
「暑さに体がやられたのでしょう」
と母君自身も軽く考えていたが、立秋の風がゆるく吹きはじめる頃になっても体調はよくならず、次第にやせ細り弱っていく。苦しい最中、今後のことを考えるにつけても、気がかりなのは娘のことだけ。
「あの子の今後の身のふりをきちんと見届けてからでないと死にきれません。
息子の宰相も、妹の事は任せろ、と言いますが、おのれの世話ひとつできない息子になんの期待ができよう・・・やはり、私が息をしてこの世にとどまっていられる間に、狭衣さまに娘をお預けしようか。侍女たちも私が死んでしまったら、どこぞの殿方を手引きしないとも限らないし・・・」
弱々しい息の下、母君は悩み続けている。容態がそれほど悪くなっているのをまったく知らない狭衣は相変わらず、


『・・・ひとかたになりなばさても止むべきをなどふたかたに思ひなやます
(東宮か私か、はやくどちらかひとつにお決めください。いつまで私を苦しませるのですか) 』


という手紙を送ってくる。母君はたいそう苦しくつらく、代りの返事など出来そうにない。日に日に弱っていくが、せめて娘の結婚だけは見届けたい・・・その気力だけで生きていた。おおげさではなく、ささやかな結婚の準備だけでもしておかねば・・・と母君は思いめぐらすが、その日までとてももちそうにないくらい、すっかり衰弱しきっていた。もうこれ以上は・・・と、ついにある日、母君はこの世と決別して髪を削ぎ尼になった。様がわりしてしまっても変わらぬ若々しい容貌に、お仕えする女房たちは深い悲しみに沈むばかりであった。娘の姫は、近いうちに母君との永遠の別れがやってくることも理解できていないのであろうか、母君が出家しただけで胸がつぶれる思いで涙を流し続けている。髪削ぎをしただけでこんなに嘆いているのに、ましてや自分が死んだときには娘はどれほど・・・と母君は死ぬに死にきれない思いでいる。
ここにきて、狭衣もようやく宰相中将の母君が出家したとの噂を耳にした。
今一度、様がわりなさる前のお姿を見たかったものよ・・・と後悔してもし足りない狭衣ではあるが、とりあえず故式部卿宮邸へ心を込めたいたわりの手紙と妹君への手紙を同封して贈った。宰相は、これらの手紙を携えて母君のもとへ参上した。出家した効験でもあったのか、母君はいつもよりは気分が楽そうに見える。母君のそばには泣き顔の妹姫が控えている。
「そうですか・・・狭衣さまはあなたが話していた通り、きっと情あるお方に違いないようにお見受けしますね。そう信じてよいのでしょう」
手紙を眺めながら母君は弱々しくそう言った。もう一つの、娘あての手紙には、


『・・・我のみぞ憂きをも知らず過ごしける思ふ人には背きける世に
(愛する母君があなたを捨てて出家したように、愛するあなたに嫌われている私は、ただこうしてつらい世の中を過ごしているのです) 』


とあった。
「いつもお手紙を下さるのに、いつまでもご返事申し上げないのもお気の毒ですね・・・この手紙の返しは姫にさせて下さい。ごめんなさいね、姫・・・あなたの将来の安泰を見届けてから出家したかったのですが、行く先の末をも見ずにお別れすることになりそうですよ・・・思いもかけないような目にあって、世間の人から後ろ指をさされるようなつらい思いをするよりは、狭衣さまのお情にすがってこれからは生きてゆくようになさい。私がこうして生きているうちに、狭衣さまにお手紙を出す事に慣れて下さい」
母君は、娘の姫の髪をいとおしそうに撫でながら、やさしく姫をさとす。姫は突っ伏したまま、涙で返事もできそうにない。母君は少し体を起こし、硯をとらせ、「さ、お返事を・・・」と筆をすすめる。姫はようやく頭を持ち上げ筆をとる。まだまだ幼さの残る容貌だが、母君によく似た美しさ上品さはいちど見たら忘れられないような様子なのに、ましてや、この姫を置いて死出の旅に赴こうとしている母君の心中はいかばかりであろうか。


『・・・うきものと今ぞ知りぬる限りあれば思ひながらも背きける世を
(私の心配をしながら母は出家しましたが、その母の捨てた世の中を、今さらながらにつらいものだと感じています) 』


ごくふつうに形式どおりの返事だったが、姫君本人の手蹟を見て、狭衣は我慢ができないほど愛情がつのり、怪しいまでに動揺してしまった。再び手紙を故式部卿宮邸にやると、宰相中将の返事で、
「母は少し持ち直したように見えますが、病状は一進一退の様子なので、ねんごろにしている山寺に移しました」
とあった。


宰相中将の母君が移された山寺というのは、小倉山の東南の方角にある山で亀山のふもとにある寺だった。ここは故式部卿宮が生前建立した寺で、宰相の母君は、九月のわずかな期間だけでもいいからここで専心念仏して、そのまま死に果ててしまおう、と覚悟していた。寺の周囲はすっかり秋の景色だ。松の簡素な垣根を見るにつけても、
「私が死んだあと、姫はたった一人でどのように過ごしていくのだろう」
と自分の死後の娘の事ばかりが気がかりで、仏道に専心できない。
「いくら悩んでも仕方のないことだわ・・・そんな弱々しい心ばえの子には育てていないはず。くよくよしてたら成仏への道の束縛になってしまう。もう思い煩うのはやめにしよう」
そんなふうに、一方では心配し、また一方では自分を慰めながら、母君はお堂にこもって四十九日の念仏修行を始める。苦しさをこらえて必死で念仏を唱え続ける母君ではあったが、はかない露よりも先に命の炎が消えてしまうのではないか、といったような容態が悪い日も、すこしづつ増えていくのであった。



狭衣大将はそんな宰相の母君が心配でならず、こもっている寺に消息をたずねるお使いをひっきりなしに送っていたが、あるとき、たまたま宰相中将が用事で寺を空けたと聞いて、たまらない思いでこっそりと寺を訪れた。初めて訪れる土地で、しかも月の遅く出る頃であったから道もよくわからない。あたりを見回しても道を尋ねられそうな家などなく、仏臭くいかめしい御堂はたくさん見えるが、どれが宰相の母君が身を寄せているお堂なのかさっぱりわからない。あちこちの僧坊から読経の声が響いて、つねづね出家を考えていた狭衣をしみじみ感慨深くさせる。あれこれ迷いながら、ようやく宰相の母君の居る建物を探し当てた。そこは大きな僧坊が立ち並ぶ場所から少し離れていて、家を取りまくように流れる小川のせせらぎが聞こえ、秋の花も紅葉も色を添える、なかなか風情ある住居だった。しかし家の周りは素晴らしくとも、この草深い家には訪ねてくる人もいないようで、さみしそうに咲いている前栽の秋花にはただ露の白玉が置かれ、美しい虫の音を邪魔する訪問者は誰もいないようだった。軒と高さを争うように高く生い茂った八重葎(やえむぐら)を通る風の音が騒がしい。狭衣は、慣れない風音に耳をすませてみたが、家の中には人の気配はしない。どうやら離れにあるお堂に皆いるようだ。近づいてみると、お堂の飾りつけなども故式部卿宮の嗜好であろうか、非常に美々しく清らかである。お堂からほのかに洩れる読経の声は、中に重病人がいるとも思えないほどの静かなものだった。
側近の道季が声のする方へ近づき、「狭衣さまがお越しです」と言うと、宰相の母君はおどろいた様子だったが、まもなく母屋の御簾の前に茵(しとね)が用意される。月こそ見えないが、星明りも美しい夕闇の中、宰相の母君は狭衣の気配や容貌をようやく知ることができた。普通の人とは比べものにならないほどのご立派さ、それになんというかぐわしい香り、こんなお方が娘の面倒を見たいだなどと言って下さるとは、ああ、出家する前にきちんとした結婚をとり行えばよかった・・・宰相の母君はそんな思いで胸がいっぱいになり、苦しさで頭をわずかにもたげるのがせいいっぱいだった。
「ご病状を心配しながらも、ご無沙汰してしまっていたことをお許しください。手紙ではあれほどせっついておきながらいっこうに訪ねもしない、噂どおりの冷淡さよ、と、あなたさまに愛想を尽かされても仕方のないことでございます」
宰相の母君は、人づてに返事するのも狭衣の身分がら恐れ多い気がして、
「たびたびのあたたかなお見舞い、もったいのう存じます」
と弱々しい声ではあるが、直接答えた。狭衣は宰相の母君のお声が聞けたのがとてもうれしかった。声こそか細くなってしまったが、以前ほのかな燈火のもとで見た女人の気品ある風情は全く失われていない。狭衣は、これほど重病になるまでどうして気がつかなかったのだろう、ああ、もうすぐこのお方はお亡くなりになってしまうのだ・・・と目の前の女人が狂おしいほど愛しくなった。
「長い間、あなたさまを介して姫君へのお文をやりとりしておりましたので、今初めてお目にかかる気がしません。そんな間柄ですのにとうとう今までお逢いできないままになってしまいました。このように重態なご様子を目の当たりにするにつけ、もはや既に時遅し、もうとりかえしのつかない悔しさ恨めしさで胸がしめつけられそうです」
狭衣は、宰相の母君の命の尽きるのでさえ自分の過失であるかのようなくやしさに肩を震わせながら、だが必死で泣き乱れるのに耐えている様子だった。宰相の母君は、これほどまでに自分たち家族の事を案じて下さっていたのか、と、苦しい息の下で感激していた。
「・・・この命がいつまでもあるとは思いませんでしたが、よもや今日明日に尽きてしまうとは・・・ぼんやりと過ごしてきた己の人生を思い巡らすにつけてもやはり気がかりなのは、後見のない娘の今後です。あなたさまを信頼しておすがりしてもよいのでしょうか・・・娘は、この私と共に煙となって空へ消えたいと申して、心が狂ったかと思うほどの嘆きようなのです」
今にも消え入りそうなかぼそい声の宰相の母君。日に日に弱っていくその様子を毎日見守ることしかできない姫君・・・二人の心中を察すると、狭衣は親娘が不憫でならない。
「あなたさまのおっしゃる事はもっともなことでございます。しかしそのように思いつめなさっておられると、かえって姫君の御心も落ち着かず、苦しさもいっそう増すことになろうと思われますよ。

・・・我もまた益田の池の浮きぬなはひとすじにやは苦しかりける
(あなた方ばかりでなく、この私も大和の国の益田の池に浮いている「ぬなは(ジュンサイ)」のような身。ますますつのる苦しさは一通りではないのですよ。姫君のことだけでなく、あなたのことでも私は心が痛むのです)

少しゆったりした気持で過ごしてみてはいかがですか?そうすれば、周囲の者や姫君も、安心するのではないでしょうか」
誠実にさとす狭衣の態度は宰相の母君の心にじんわりとしみ込んでいったが、母とその娘の両方を同時に愛している狭衣の心の奥をどうして見抜けようか。

「・・・絶えぬべき心のみする浮きぬなは益田の池もかひなかりけり
(益田の池も、ぬなはが無くなっては甲斐もないことですよ。益田の池のような狭衣さまのご好意も、命の絶える今となっては甲斐もありません)」

息も絶え絶えに、そう返歌を詠むのがやっとの宰相の母君を、狭衣はとても見捨てて帰れそうにない。しかしこれ以上長居すると、かえってこの女人は疲労で苦しんで命を縮めてしまうだろう・・・そう思った狭衣は、
「これからはいつでもお訪ねします。次にこちらに参りました時にも、きっとお元気なご様子を拝見しとう存じます」
と言って、後ろ髪をひかれる思いをしながら部屋を出た。


部屋を出てすぐの渡殿に、なにやら人の気配がする。女房たちの声がした。
「どこかしら」「御殿油を持ってきてちょうだい」など話している。そのとき、以前故式部卿宮で覗き見した際に見た子がこっちにやって来るのが見えた。
その子が
「お客様は帰ってしまわれましたわ。姫様、母君さまのところに戻ってもよろしいようですよ」
と言いながら、狭衣が隠れて立っているすぐそばの妻戸を開けて、渡殿に入ってゆく。
「ではこの中に姫君が」
と狭衣はうれしくて、もっと近づいて中を覗くと、中は特別な飾り付けもなくあっさりとしたもので、几帳の向こうに二、三人の人が居た。几帳の陰で横になっているのが姫君であろうか、そのすぐ近くに控えているのが侍女たちか・・・と狭衣が覗いていると、風が急にさっと吹き込んで部屋の灯りが消えてしまった。
「誰か紙燭(しそく)を持ってきて。風で灯りが消えてしまったわ」
と女房たちが騒ぐ。どうやらここは、女房たちの部屋であるらしい、なのに姫君がいるということは、急な客人の来訪で母君のいる部屋から出なければならなかったからなのだろう。横になっていた姫君は、
「お客様はお帰りになったのね?では母上のいらっしゃる部屋に戻りましょう」
そう言って起き上がり、先ほどの女の子と共に、障子口から狭衣のいるほうへいざり出てきた。狭衣はすかさず姫君を引き止める。おどろいた姫君がくるりとふり返ると、星明かりの淡い光にとけ込んだような烏帽子姿の影が目の前にあった。姫君はあんまりびっくりしてものも言えずにいると、姫君の返事のない様子に気付いた女の子も、やはり男の気配に驚き、おおあわてで母君のいる母屋に逃げ帰ってしまった。
狭衣は開いていた障子を閉め、姫君をいま少し近くに引き寄せた。
ここ数ヶ月の間、母君を心配して、悲しみのあまり生きているのか死んでいるのか、本人もよくわからないといったほどの弱々しい風情になっている・・・狭衣は姫君がかわいそうになって、
「こわがるようなことは決して致しません。仏の罰を恐れ申す点では誰よりも勝っているつもりです。ただ、この程度の失礼は母君もお許し下さったことですので、どうかこわがらずに私をごらん下さい。あなたに逢える日をずっとずっとお待ちしていたのですよ」
穏やかな声で語りかけながら、狭衣は姫君をそうっと畳の上に横たわらせ、そのまま寄り伏してしまった。
同じ渡殿にいた女房たちは、この突然の闖入者が狭衣大将であると気付いて、多少は安心したが、今の姫君は母上の病状のことで頭がいっぱいで、とても応対できる状態ではないだろうと思い、
「ただ今の姫さまは、御母君のご看病を熱心になさるあまり、同じような容態になっておられます」
と訴えた。が、
「そなたは御乳母か。安心しなさい、ただこうしているだけだから。それに、帰ろうにもこんな夜更けで道もよくわからない私を放り出そうと言うのかい?」
と軽くいなされる。女房はもはやどうしようもないと覚悟し、
「ではこちらへお入りください。そのような部屋の隅では、あまりに姫さまがおかわいそうでございます」
と言って、狭衣と姫君を渡殿の中へ案内した。
動転して頬が紅潮している姫君の肌がたぐいまれなほど美しい、源氏の宮もかなわないほど・・・狭衣は傍(かたわ)らで震えている若い姫君を抱きながら感激していた。もっとこの姫を知りたい、もっとこの姫を好きになりたい・・・狭衣はけしからぬ思いにとらわれてしまいそうだったが、この姫君は自分の母のことが心配で心配で、心身ともに疲れ切っている様子、このまま契ってしまうのはあまりに気の毒に思えた。それで狭衣ははやる心を抑えて、今までどれほど姫君のことを想ってきたか、これからの生活など話して、言葉を尽くして姫君をやさしく慰める。思いのほか心安くなつかしげなふぜいの狭衣の様子に、姫君の動転していた心地はようやく落ち着き、狭衣がすぐそばで勧める薬湯なども我慢して飲む。そのしおらしい姿に、狭衣はますます愛情が傾いていく。姫君は、こんなふうに殿方と一緒にいるところを母上に見られたら、どんなにお嘆きになるか・・・と自分が恥ずかしく情けなく、狭衣の睦言などほとんど耳にも入らないようだった。
格子のすきまから部屋に月の光がやわらかく差し込むが、光がまばらでかんじんの姫君の姿がどういう美しさなのかはっきりと見えない。狭衣は、かけがねをはずして格子を上の方に押し上げると、つり上げられた所から月の光がいっぱいに部屋に差し込んでくる。急に部屋がほの明るくなったので、姫君はたいそう恥ずかしがって衣をひきかぶろうとするが、狭衣はそれをやんわりと押しとどめて、顔を自分の方に振り向かせた。衣からのぞくその顔は、源氏の宮になんと似ている事か。こんな人目につかない人里はなれた所に、自分を癒しなぐさめてくれるような女人がいたことよ・・・狭衣は、源氏の宮に一途な自分を、神が見放さずに救ってくれたのだろうかと感動していた。

「・・・嘆きわび寝ぬ夜の空に似たるかな心づくしの有明の月
(さまざまな物思いをさせる今夜の月は、源氏の宮を恋しんで嘆いていたかの夜の月に似ていることだ)
月の光に照らされた今夜のあなたは、誰かを思い出させるようですよ」

姫君は返歌をしない。
「これほどまでに近づいた、あなたと私の宿縁ですのに、あなたにご執心なだれかさん(東宮)と結婚するようなことになったら、ああ、私はどうしたらいいのでしょうか。そうなったら私は、ひと時たりともこの世には生き長らえることはできないでしょうね」
狭衣はわざとおおげさにため息をつきながら、おどけたようにつぶやく。自分に対しての警戒心が次第に薄れてきた姫君の態度にホッとした狭衣だが、明日になれば、いや、今この場を立ち去った後すぐにでも、状況はどう変わるかわからない、あわてた女房たちが宰相の母君に事の次第を訴えて、東宮のもとにすぐにでも差し出されてしまうかも・・・姫が少しでも自分の方に心を傾けてくれるようにと、どこまでも優しくなつかしげに語り続けた。
夜がまたたくまに更けてゆき、お供の従者たちが帰りの催促をし始める。
「もうすぐ夜が明ける・・・やれやれなんて早いことだ。一度こんな風にお逢いすると、次に逢うまでの時間が果てしなく長く感じられますよ。いや、次の機会なんてあるのかな・・・今このひと時が終わってしまったら、あなたはもう私を遠ざけておしまいになるんじゃないかな。もう逢う機会をつくってくださらないのなら・・・そうですね、いっそのこと、あたりいっぱいに立ち込めているこの霧にまぎれて、誰にも知られないところに消えてしまおうかな・・・わかりますか?私の言ってる意味が」
まじめなのか、戯れにまぎらわせているのかよくわからない狭衣の顔つきに、姫君困惑したまま黙っていた。
「ああ、そんなどっちつかずのお顔をして、私の気持をはぐらかす。もう私から逃げることなどできませんよ」
あでやかに微笑みながらささやく狭衣の優美さに、おそばにいる御乳母たちは警戒心をすっかり緩ませている。狭衣は扇をぱちんと鳴らし、御乳母を呼び、
「その後の姫の母君のご様子はいかがか。この私が仏間で一晩中心を込めて念仏を唱えたからには、いかな重病人でも少しは効験があったと思うが」
とたずねた。
「ご気分はあまり変わらないとお見受けいたしております。あなたさまがおられますこの部屋の見苦しいのを、たいそう気になさっておられまして」
「ははは。女房たちが、私が姫君にお逢いした事を悪い風に告げ口したな。お見舞いに来ておきながら、なんと不埒なことをする殿方よ、とがっかりなされたに違いない。不在の宰相中将に代わって母君を見守ったつもりだったのだが・・・では、ご挨拶に参上できませんがこれで急いで退出致します、と母君にお伝えしてくれないか。これから私はすぐに出家して、熱心に仏道に励みますとね。たとえ長い時間かかっても、姫君を手に入れるという願いは成就させるとね。あなたがたも、もう一人の尊い御方(東宮)ではなしに、この私味方をしてくださいよ、きっとね」
侍女ふぜいにはもったいのないほどの艶めいた微笑みでささやく狭衣に、女房や御乳母たちはたちまち心をうばわれてしまう、「このような美しい御方を他所からお見申しあげることなど、どうしてできようか」と。


一方、母屋の宰相の母君は、夜の間の出来事を女房から聞いていたが、狭衣さまは娘をいいかげんに扱うような御方ではない、娘の気高さつつましさをきっとお気に召すはず・・・と、信じていた。
「ここ数ヶ月の間、姫は夜も昼も泣き通しでしたからね・・・すっかりやせ細ってしまいましたが、軒から差し込む月の光の中で、あの子の姿は狭衣さまの目に、どのように映ったでしょうね。女房を通じて狭衣さまからご伝言があったのも、実際に姫を間近で見ても見劣りがしなかった、ということであろうか・・・それならばありがたい事ですが」
女房たちとそう話していたが、やがて渡殿にいる狭衣に、
「・・・昨夜から一晩中風が吹き荒れていますが、慣れない山道、お気をつけて京にお戻りになってください。あなたさまがこちらにお泊りになられたこと、まったく存じあげず、大変失礼を致しました。あなたさまの念仏の効験でしょうか、おかげさまで昨夜はよく眠れまして。これからは、あなたさまの草枕(お泊りの準備)もきちんと用意いたすつもりです」
と伝えた。やがて狭衣からの返事はきた。

「もったいないお言葉です。しかし、
・・・とけて寝ぬまろがまろ寝の草枕ひと夜ばかりも露けきものを
(姫君が心を許して下さらないので、ただごろ寝をしていただけですよ)
以外にも、経験した事のないような一人寝でした。わずかでも姫君とうちとけて寝たいものです」

返事は御乳母が取次いだ。母君も、

『・・・草枕ひと夜ばかりのまろねにて露のかごとをかけんとや思ふ
(たった一晩のごろ寝くらいで、言いがかりなさろうというのですか?) 』

と、笑顔で返歌する。
垣根にまとわりつく霧がさらに濃く立ちこめ空の月をも隠しがちになる暁、従者の道季が狭衣の沓を持ってきて帰京の催促をし始めた。立ち去りがたい思いでいっぱいであるが、道季の、
「はやくご帰京の準備を。でないと見苦しい時間に京に着くことになってしまいます。いっそのこと京から御車を遣わしましょうか」
と言う。
「やれやれ、そんなに嫌味ったらしく言わないでおくれ。せっかく久しぶりに心癒される女人のもとでゆっくりしているのに。
・・・葛のはふ籬(まがき)の霧もたちこめて心もゆかぬ道の空かな
(つる草のまとわりつく垣根に霧が立ち込めて離れないように、私もなかなかこの家から出る気になれないよ) 」
といかにも帰りづらそうなそぶりだ。
狭衣一行の帰京の準備ができた。白露がいっぱいに置かれた草むらの中を、指貫の裾をほんの少し引き上げて帰ってゆくさまは、どんな女人でも心を動かさずにはいられないほどの趣の深さだ。別れを惜しむ女房たちが、狭衣一行をいつまでも見送っていた。


京に戻っても、目になつかしく思い浮かぶのは宰相の妹君のことばかり。もっと好きになりたい、もっと親しくなりたい、両親は常日頃から、出家遁世の心を静めてくれるのは親の束縛などではなく、心の底から愛しいと思える女人なのだと言っておられた、そんなバカな、と一笑に付していたものだったが、成る程、父母の仰るとおりであったことよ、と狭衣は実感していた。姫君の、衣装の裾にまでこぼれるような愛敬や、月の光の中で思わず息を飲むほどだった肌の美しさが頭から離れず、なかなか寝付けられない。うとうとまどろんだ早朝、狭衣はいてもたってもいられずに、宰相の妹君のもとへ手紙を遣わした。


『母君の具合はいかがですか。
・・・面影は身をも離れずうちとけて寝ぬ夜の夢は見るとなけれど
(紐を解いて共に寝ることさえなかった。あの夜の夢を見るというわけではないんですけれどね、頭から離れなくって)
今朝は何やらいつもとは違った気持でいますよ』


しばらくすると、お使いがあわてて戻ってきた。
「たった今、宰相中将の御母君がお亡くなりになられました。宮家は大騒ぎでございます。事情が事情ですのでお返事はいただかないで戻ってまいりました」
狭衣は返事も出来ず身動きさえとれずに、お使いからの報告を、呆けたような顔で、いつまでもその場に突っ立っているだけであった。