狭衣物語


その十一

狭衣と一品宮の婚儀の当夜。
大殿・母の堀川上が心を配り、狭衣の支度を終わらせていた。衣装にたきしめた香の薫りも常よりもさらに気を使い、華やか極まる衣装をさらに引き立たせる。しかし出かける時刻がとうに過ぎても、当の狭衣は魂が抜けてしまったかのように、ぼんやりと部屋の端のほうで横になっている。いつまでたっても姿を見せない狭衣に、大殿はしびれを切らしていた。狭衣は自分のとっている態度はなんと大人げないものよ、と我ながら情けない思いだったが、どうしても入道の宮のことがあきらめられない。しかし出発時刻はとうに過ぎている。ようやく重い腰をあげ身なりを整えて、父母の前に進んだ。笑顔ひとつないわが息子の様子に母上は、
「こんなにいやがっているとはねえ・・・無理に縁談を進めた私たちが悪かったのかしら。でも、いまさらあとには引けないもの」
と胸が痛んだ。狭衣が一品宮のもとに出かけてしまった後、女房たちも一緒に、「気がかりですわ」「一品宮さまの御為にも、お気の毒なことにならなければいいのですけれど」などとささやきあっている。
「なんの物語でしたっけね。よく似たお話がありましてよ」
「こういうお話は、よく物語に出てきましてよ。『葦(あし)火たく屋』なんかが特にそうですわね」
「そのお話の男主人公の少将は、結局は、強引な親御に従っていますものね」
「そうね・・・物語でさえ親が子の意に反する縁談を強いるのは、よくないことなのにねえ。こんなにいやがっている縁談を進めて、世間の人は堀川家をどう思っているのかしらねえ」
最後のつぶやきは、堀川上である。


ようやく到着した狭衣を待ちわびていた一条院では、一品宮の並々でない準備をすっかり整え終わっていた。三十路を過ぎた一品宮は、それはそれは成熟しきった、こちらが恥ずかしくなるような気高さで狭衣を迎えてくれた。しかし彼の心は全く動かされない。
――どうして源氏の宮への恋心ゆえに、女二の宮(現入道の宮)にあんな薄情な態度をとってしまったのだ。そんな仕打ちをした罰を今宵受けているのだ。愛のない結婚という罰を――

一品宮と過ごした夜も明けないうちに、狭衣は早々に一条院を辞して、若宮のいる一條の宮へ逃げ込むように帰ってしまった。まだ夜は深く、誰も起きだして来ない。狭衣は自ら格子を開け、まだ明けない空を渡る雁を眺める。

『・・・聞かせばや常世離れし雁がねの思ひのほかに恋ひてなく音を
(私があなたから離れて、恋い慕って泣く音を聞かせたいものよ) 』

それから違う和歌を手紙にしたため、狭衣は嵯峨院にいる入道の宮へ届けた。

その頃、嵯峨院の入道の宮は、持仏堂(じぶつどう)の妻戸を押し開け、立ち込める朝霧を眺めていた。そのうち嵯峨院もやってきて、陀羅尼を読み合わせ始める。次第に女房たちも起き出し、御前の花の枝の手入れなどしていたところ、中門のほうになにやら来訪者の気配がする。女房が取り次ぎに出ると、某兵衛らしき使者が、「狭衣大将のお手紙を持って参りました。中納言内侍典侍にどうかお取次ぎを」と頼む。嵯峨院はそれを聞いて、
「不思議なこともあるものだ。狭衣は昨夜、一品宮のもとに行ったのではなかったか。今朝はまず何をさしおいても、一品宮へ後朝の手紙を差し上げなければならないはず」
と首をかしげる。何が書いてあるのか興味がわき、院は使者から手紙を受け取り、たいへんまずいことになったと不安でたまらない内侍典侍の目の前で、その手紙を開けた。

『・・・思ひきや葎(むぐら)の宿を行過ぎて草の枕に旅寝せんとは
(入道の宮が住んでいた一條の宮を通りすぎて一品宮のところで仮寝しようと思ったことはありませんよ) 』

「ほう。見るたびにどんどん立派になってゆく手蹟だな」
と院はしきりに感心するのみ。内侍典侍が手紙を見ると、美しい和歌がひとつふたつ書かれているだけだった。よかった、やはり狭衣さまは思慮あるお方よ、はっきりと言質をとられるような手紙は書かれないもの、と内侍典侍は胸をなでおろした。
「新婚の今朝は、狭衣は一品宮に夢中で他のことには気が回らないはずなのに、なんと思いやりのある心使いよ。彼が急いで書いてよこしたものを、内侍典侍の代筆などでよいものかな。この返事は、宮、あなたご自身でなさるがよい」
嵯峨院の、入道の宮と狭衣の関係など全く知らない善意からの言葉であった。
「・・・このように風情のあるお歌の返事に、髪をおろしたわたくしのような者が書いては見苦しいに決まっています」
入道の宮はかたくなに筆を取ろうとしない。仕方がないので、返事は嵯峨院自らが筆をとった。

『・・・故郷は浅茅が原に荒れ果てて虫の音しげき秋にやあらまし
(あなたが一品宮のもとへいってしまったので、かつて住んでいた一條の宮は荒れてしまって、我が物顔で虫が鳴いていますよ) 』

院自らの
返事を見て、狭衣はますます入道の宮に思いが募るのだった。


狭衣は一品宮には後朝の手紙は贈らなかったが、宮の母君である女院には手紙を贈ったらしい。

『・・・まだ知らぬ暁露におき別れ八重たつ霧にまどひぬるかな
(起きてあなたのもとから別れての帰り道は、あなたへの想いが幾重にも重なって、道に迷うほどでしたよ) 』

「まあ・・・見事なほど、なにげない読みぶりであること。ずいぶんあなたに好意を示したお手紙ですわ。こんな場合のお返事は、女盛りをすぎた御身が熱心に書くのも体裁が悪いので、ざっと形式的にお書きなさい」
一品宮は当惑していた。母君のもとへは流麗な和歌が贈られていても、自分のもとへは後朝の手紙は来ていないのだ。困った宮は、用意された料紙に何も書かず、ただそのまま引き結んで下に置いた。包み紙と料紙、それから女房装束を、堀川邸からの使者は洗練された挨拶で受け取り、帰っていった。
使者の帰りを今か今かと待ちわびていた堀川大殿と母宮は、狭衣も同席させ、急いで返事を見る。もちろん何も書いてない。
「まあ、なまじっか平凡な歌が書いてあるよりは、白紙の方がよいということもありますよ」
「何を言うのです狭衣。白紙の返事は、人の忌み嫌うものです・・・訳の分からないことをなされたものね、あちら方は」
不愉快そうに母宮はつぶやいた。
婚礼三日めの祝宴は、たいそう華やかなものだった。高貴な身分同士の婚礼の宴はこうあるべきというような、格別すばらしい祝宴だった。
婚礼四日めの朝を、狭衣は一品宮のもとで迎えた。なまめかしく光り輝く男君の様子に、一品宮に仕える女房たちは、顔をあわせることすら恥ずかしく思っている。ましてや宮は格別お年を召された年配の方・・・女房たちは、それを心配していた。確かに御床の様子も手触りも若い女人とはまるで違う。狭衣は前もってわかっていたこととはいえ、がっかりしていた。楽しみといえば、飛鳥井の女君の忘れ形見だけか、なんてつまらない新婚生活なのだ、しかもいまだその子のことを言い出せない・・・これからこんな毎日が続くのかと、朝の明るい光の中で、うっとうしい気持でいっぱいだった。


このように、結婚してからも不満をいだき続ける狭衣は、一品宮のもとへあまり立ち寄らなくなり、実家である堀川家に泊まりがちだった。父大殿はたいそう心配し、
「いつまでも我ままを言っているのではない。それに相手はそんな我を通せるお方ではないことぐらいそなたもわかりきっているであろう」
と口うるさく言う。狭衣は適当に聞き流し、大殿が不機嫌な日は、若宮のいる一條の宮で過ごすようになった。
ごくたまに一品宮のいる一条院に狭衣が来た日など、一品宮は狭衣の若々しい振る舞いやきらびやかな容姿に気後れし、自分の年齢を思い知らされるように遠慮しているが、狭衣はそんな宮の悩みに全く気付かないふうに冷淡な態度でいた。宮にお仕えする女房の中にも、「今上の妹宮とも思わないようななさりようだ」と不平を感じる者も出るようになった。一品宮はけだかくやさしい心の持ち主だったため、狭衣さまとの結婚は前世から決められたことと考えることにし、彼を冷淡で薄情だと思わないようにしていた。
そんな狭衣の態度を堀川夫妻は苦々しい思いで見ていたが、厳しく諌めて自分の息子が「出家」を持ち出すのが恐くて、強いことは言えなかった。


内裏から久々に一品宮のいる一条院に行った狭衣のもとに一品宮が渡る。しかしうつむき加減でじっと黙っている宮に対して狭衣は、
「おや、珍しい。そこにおられるのは、『我が妻』のようですが、めったにお会いしないのではたして見間違いか、どうなんでしょうね。ハハハ。
・・・顔を背けるなど、相手に対して失礼なことですよ。私などに対面したくないお気持、わかりますがね」
ずいぶん冷酷な言い方もあったものである。ひどいいやみに堪えかねて、衣を引き被って突っ伏してしまった宮を、狭衣は少し気の毒に思った。どうしてあんなひどいことを言ってしまったのか、と。
しばらくすると、向こうの方でなにやら幼い子供の声が聞こえてきた。
「もしかしたら」飛鳥井の女君の忘れ形見ではないか、と狭衣は子供が見たくてたまらなくなった。
「宮。こちらに幼い姫がいると伺っています。どうして見せては下さらないのか。どうかこちらへお連れしていただきたい」
「・・・何かの折に、お目にかからせることもありましょう。あなたのお心をほぐす子とも思えませんので」
「子供はいつ会ってもいいものです。急いで会う必要はないなど・・・あなたの悪いお心癖ですね。そうやっていつも私を疎遠に扱われる。とにかく見たいのです」
「あまり馴れ馴れしくすると、あとで後悔するといいますし・・・」
「新古今のお歌ですか。やれやれ何でもかんでもよくご存知の宮さまだ」
歌を引用してさりげなく断ろうとする宮にうんざりしながらつぶやいた。

一品宮が下がった後の昼下がり、幼い人のいる気配がする部屋の障子のもとに近づいて、狭衣はこっそりと穴をあけてみた。穴をのぞくと、その向こうに、九つか十くらいの遊び相手がたくさんいる中に、若宮と同じくらいの年かっこうの、それはそれはかわいらしい姫が遊んでいた。目元など在りし日の飛鳥井の女君に生き写しだ。狭衣はあまりのなつかしさに涙がこみあげてくる。
「宮さまのお部屋へ知らない人が来ているんですって。でも会わせては下さらないの。見てみたいのに」
など、可愛らしい頬をふくらませている。遊び相手の女童たちが、「帝さまよりもう少し身分が低いってことですよ」「宮さまの男君だそうですよ、それなら姫さまのお父様ってことですね」「とってもお美しい方ですって」など、にぎやかにおしゃべりしている。そのうち、童たちがそうっと障子に近づきながら、開けようとする気配がした。狭衣はたまらず、童たちが開けるより早く、障子を勢いよく開け放した。びっくりして逃げ惑う童たちの中から、愛しい忘れ形見の姫を迷わず見つけ、しっかりと抱きしめ、そのまま自分のいた部屋へと連れて行った。
膝をついて、すぐそばでよく見れば見るほど、顔立ちが飛鳥井の女君にそっくりなその小さい姫を、狭衣は涙で袖が濡れるのもかまわず長いこと抱きしめていた。感無量だった。ようやく我にかえると、姫は何のことやら訳がわからず、見知らぬ人の不審な態度に、ずいぶんきまりが悪そうな顔でこちらを見ていた。

『・・・忍ぶ草見るに心はなぐさまで忘れ形見に漏る涙かな
(忘れ形見の姫君を見るにつけても、ますます思い出される女君よ) 』

「ああ・・・すまないね。どうかこわがらないで。私は、あなたをとても大事に思っている人間ですよ。この部屋には、いつでも遊びにきてもいいのですよ。なんなら、姫のお好きな絵や人形も取り寄せましょう」
何の感情もわかない、冷ややか過ぎる一品宮との結婚生活だが、狭衣は、初めて結婚してよかったと感激していた。なぜなら、ようやく忘れ形見の小さい姫に会うことができたのだから。この姫がいるだけで、望まない結婚生活に耐えられる、そう感じた。
「人形あそびの調度などは持っていますか?もっと欲しいのだったら、私がつくって差し上げましょう。一條の宮の若宮のところにある人形の衣装なども取り寄せましょうね」
そんなふうにやさしく姫に語りながら、狭衣は紙に子供が好きそうな絵を描き始めた。だんだん姫も警戒心がすっかり解け、声をあげて笑ったり、冗談を言ったりするようになった。笑い声やものの言い方が、母である亡き飛鳥井戸の女君そっくりで、かえって狭衣の方が混乱しそうだ。
素性をはっきりさせた方が、姫もきっと重々しく扱われるに違いないが・・・狭衣はそう考えるが、深い溝が出来つつある一品宮との仲を、自分の方から歩み寄るのはいやだった。ならばここに自分がいる限り、できるだけこの姫をお世話しよう、日陰の者にならないように盛り立ててあげよう、そう心に誓ったのだった。


「子供たちが、たまたま私のいる部屋の近くで遊んでいましたので、例の幼い姫君に相手をしていただいてますよ。あんまり退屈なのでね」
相変わらず皮肉なものの言い方で、一品宮方に伝言する狭衣だった。しかもこのことづてを、姫君の遊び相手の童たちに伝えさせたのだ。
「まあ・・・何を考えておられるのか油断のならないお方なのに、時期が早すぎますわ、誰が姫をあの方のいる部屋の近くに連れて行ったのです」
と一品宮は不機嫌そうに言う。
姫の乳母が、狭衣と遊んでいる姫を迎えに行った。
「姫さま、宮さまに黙って知らない人にお会いするなど感心しないことですよ。お迎えに上がりました」
「こんなによそよそしい人ばかりが集まっているこのお屋敷で、初めて心を通わせられる気の合いそうな方を見つけることができましたよ。この姫のおかげで、ようやくこちらのお屋敷にも軽やかに足が向くというものです」
この屋敷の者を見下すような言い方であるが、狭衣の容姿のきらびやかさに乳母はひけ目を感じて押し黙ってしまう。
「姫、あなたはこの者をなんとお呼びしているのですか」
「お母さま、って」
「そう。ならば今からこの私も『おかあさま』と呼ばせてもらおう。さあ、『おかあさま』、あなたを頼りにしているこの私を嫌いにならないで下さいね」
美しく冷たく言い放ち、狭衣は乳母を部屋から下がらせた。


狭衣は、自分と姫君の出会いの場面、ましてや感激のあまり我を忘れて抱きしめたところなど、一緒にいた童たち以外に誰も見られていないと思っていたが、ちょうどそのとき童たちのいた部屋の片隅に、一品宮の乳姉妹である中将の君という女房がいて、姫が狭衣の部屋に連れ込まれた時から、こっそり障子の向こうの二人の話し声を伺っていた。
中将はそのまま一品宮の御前で報告した。
「まあ・・・狭衣さまが、そのような歌をあの子に。ではあの子は某少将のお子ではなく、狭衣さまの・・・そう、それで合点がゆくというもの。狭衣さまがこの邸のまわりを頻繁にうろついていたという噂の理由が。私ではなくあの子に会いたいと思われていたからなのですね」
そう一品宮は言ったまま悩ましそうにうつむいてしまう。素性のわからないあやしい身分の人(飛鳥井の女君のこと)の子ではあるけれど、たいそう美しく愛らしい子であるので、そばにおいて育ててゆこうと思っていたけれど、この子のために、あんなに薄情な、人を人とも感じていないような言動の狭衣を招きよせてしまった、しかもこの子がいる限り狭衣は、愛情の全くない形だけの夫婦関係を続けていくであろうよ、とそれを考えただけでなんとも体裁の悪い思いがする。
この話を聞いてから一品宮は狭衣のことがますますうっとうしくなり、顔を見せることもめったになくなってしまった。ごくたまに対面するときなど、宮は狭衣に対してたいそう冷たいあしらいをするようになり、見かねるようなしうちをするときもあった。すっかり愛情の冷え切った夫婦関係だったが、狭衣は、ただこの幼い姫君に会うためだけに一条院に通っていたのだ。狭衣の愛情に包まれて、小さな姫はすっかり彼になついていた。
ある日、狭衣はこの姫と一緒に、一品宮に対面した。
「私たちにはなかなか子供ができませんね。私の父母などに、はやく孫の顔を見せろと毎日のようにせっつかれてますよ。普通の公達のように、私があちこち夜遊びに励んでいたら、自然と私の子であるとの名乗りもあったんでしょうにね。でも私にはそんな色好みもなく残念なことですよ。・・・どうでしょう、この幼い姫を我々の子として育てては」
何食わぬ顔をして狭衣は一品宮に言った。
素直に打ち明けてくださってよいものを。どうしてこう隠したがるのかこの方は。こんなに隔てのおかれるご性質ならば、ほかにどんな女性との関係をお隠しになっておられるかわかったものではないわ
―――と宮は心底狭衣のことがうとましくなった。こんな方といつまでも夫婦を続けていくことはできない、以前から決心していた出家をいまこそ叶えたい・・・そう考え始めた。


一條の宮に住んでいる若宮の御袴着の儀式が十一月に行われることが決まった。現関白である堀川大殿も袴着の準備に追われていたが、その様子を眺めながら狭衣は、「一品宮のところにいる姫も、それほど若宮と年は違わないはず。できれば同じように袴着を祝ってあげたいもの」と思い立ち、一品宮に、
「この姫はいつごろ生まれたとお聞きになられましたか。もし袴着のお式をまだしていないのでしたら、私が個人的にして差し上げたいのですが・・・
おせっかいでしょうかねえ。私の他には誰もこの姫のお世話をしてくださる人も見当たらないようなので」
と人を介して伝える。またこのようなものの言い方を・・・と一品宮はうんざりしたが、
「あなた以上にあの子のことを心配する人がいますかどうか、ご自分のお心に問いただしてはいかが」
と返事した。宮が何かカンづかれたのではないか・・・と狭衣は思ったが、
「そのような心当たりなどありませんね。そんなふうに問われても、まったくうろたえる必要はないほどにね」
そう返事しておいた。しかしこの返答で、姫の袴着の儀式ができなくなったのが残念なことだと、狭衣はがっかりしてしまった。
一品宮はそんな狭衣の様子を聞いて、
「あの子の袴着を個人的に、とは考えたものですわね。もう、いいから袴着でも何でもして、そのまま堀川邸に連れて行ってもらいたい。いっしょに住めばいいではありませんか。この子との関わり合いのために、しなくてもよかったはずの、狭衣さまのような方との結婚を続けさせられるのはもういや。女房たちの手前恥ずかしくてたまらない。あの方に関わりのあるものがこの邸からいなくなれば足も向けなくなるはず。いっそそのほうがすっきりするわ。もう堪えられない」
そう決心し、母である女院にもその旨を伝える。
「一條の宮におられる若宮と一緒にあの子の袴着もさせてやりたいと、狭衣さまは申しています。わたくし、今まで気がつきませんでしたわ。あの子の袴着に」
「ついでなど・・・あの子の袴着くらい、こちらでもできますよ。でも、狭衣さまのところにあの子を遊びに行かせるなんて、いつのまにそんな馴れ馴れしい間柄になったものやら」
「あの子のお式は、仰々しく思い立つほどのものでもないと思いますので、ついでに堀川邸でしていただいても何の差し支えもございませんでしょう。あの子も狭衣さまの父君である大殿を一度見てみたい、となぜか言っておりますし」
「どうしてなのかしらねえ。それに、狭衣さまが堀川邸であの子の袴着をさせようとしているのは何か理由でもあるのかしら」
そうつぶやきながら女院は、こちらでも袴着の準備をし始めた。


どうやら一品宮に、あの姫と自分の関係を気付かれたようだと知った狭衣は、よけいなしっぽをつかまれたくないために、姫の袴着について何も言えなくなってしまった。どうしようどうしようと途方にくれているうちに、明日はもう若宮の袴着という日になった。一品宮方から、「今夜は袴着の式を執り行いますので、あの子をこちらにお返しください」と連絡が来た。
「いきなりそう言われても。このところご無沙汰で何も袴着のことについてご相談すらありませんでしたのに、急に返せと仰られても、お返しする準備が私の方に整っておりませんが」
「それでしたら、こちらでわざわざあの子の袴着のお式を行うのはわずらわしいので、堀川邸でして下さっても何の差支えもございませんわ。女院にもそのように申しておきます」
そんな一品宮方の返事も、狭衣にはたいそうきまりが悪かった。姫と自分の本当の間柄に、宮がカンづいていると思っていたから。
「まあ、無理に若宮と一緒に儀式を執り行わなくとも、来年一条院で執り行えばよろしいでしょう。急に姫を堀川邸に移す必要性も見当たりませんし」
「一条院は、あなたさまもご存知の通りわびしいところですから、こちらであの子の袴着をするのは、あなたさまもご不満であろうと思われますのにね。そこまで袴着にこだわられるならば、女院の方で内々に式を挙げてしまいましょう」
「いや不満だなどと申しているのではありません。女の子であれば誰でも女院の御手で腰に結んで頂きたいと願っているくらいですから。堀川の方では、適当な人が思いつきません」
ついそのように狭衣は一品宮に伝えてしまった。宮は狭衣のそんな言葉を聞いて、
「あえて若宮と一緒に儀式を行わずとも、いつでも袴着のお式はできるし、難しいことでも何でもないけれど、ずいぶん必死な様子のあの方が少しお気の毒だわ。あの方はきっとあの子の袴着を立派にしてやりたいと思っているに違いないのだもの。こちらで式を行ってもいいと、初めて折れてくださったし、腰結いの役は女院にはお頼みせずに、(多分、親戚の尊者であられる)堀川大殿にお頼み申しましょう」
と決断し、腰結い役には女院ではなく堀川大殿が決定したのであった。


姫の袴着の式の夜、堀川大殿が一条院に参上し、忙しい身ではありながらも、姫の腰結い役を心を込めて果たされた。隠しとおしてはいるが、実の子の成長を父親に祝福してもらえた狭衣は心のうちでどれほど喜んだことだろう。その次の日は、若宮の袴着の儀式。朝早く若宮は一條の宮から堀川邸に渡られる。この日のためにしつらえを美しく整えた邸内を、美しい衣装をまとった女房たちがさらに華やかに盛りたてる。若宮を初めて見る堀川上は、常日頃聞いているよりも美しく可愛らしい若宮を人目で気に入った様子で、
「まあ・・・恐れ多いことではありますが、狭衣の幼い頃になんとそっくりでいらっしゃいますこと」
と感動している。初めての邸の中で少し不安そうにしている若宮に、いとおしそうに相手をしている狭衣を見て、
「まるで親子のような仲睦まじさ・・・一体どうしたことでしょう」
と上はかえって不審な気持を抱くほどである。
夕方になりいよいよ儀式が始まる。左右の大臣以下、あまたの公卿公達が堀川邸に集まった。昼より明るい松明の輝きに室内の装飾がきらめく中、袴着の式はたいそう立派に行われた。美しく仕立てられた指貫(さしぬき)を着用した若宮が大人びて美しく見える。めでたい日に涙は禁物とはいえ、感激のあまり涙を止めることのできない狭衣であった。

無事に執り行われた儀式の後の宴会は、豪華極まるものであった。


袴着が済んだ後の堀川邸では、狭衣の母である堀川上が「若宮を拝見しないでは一日たりとも過ごせませんわ」とたいそうご執心で、見苦しいほどの熱愛ぶりである。若宮を一條の宮に帰そうとしないので、狭衣などは、一條の宮で心配している女一の宮が気の毒で、何度か母上に申し上げてみたが、
「若宮が大きくおなりになられるまでお世話したいわ。このまま離れてしまっては、きっと私のことなど忘れてしまわれるでしょう。恐れ多いかもしれませんが、孫のようなつもりで心を込めてお育てしたい」
と聞き入れない。そんな負い目もあって、狭衣はまめに一條の宮にご機嫌伺いに行っては、あれこれとこまやかに生活全般の面倒を見るのだった。
そんな狭衣をみるたびに、女一の宮のそば仕えの女房たちは、「どうしてここまで誠実にお世話してくださるのかしらねえ」「こんなに熱心なら、こちらの宮さまと結婚してくださってもよかったのにね」「それならば、どんなにありがたい事かしらね」などと、言い合っている。狭衣にしてみても、「どうせ結婚するのなら、まったく愛情を感じない一品宮よりも、一の宮さまのほうがましだったかもしれないな」など、失礼なことを考えないでもなかった。ある日の夕暮れ、一條の宮を訪問した折、
「御妹君の三の宮さまが斎宮寮に移られ、このたびは若宮までが堀川邸に移られて、おさびしさはいかばかりでしょうか。この私でよければ、つれづれのなぐさめにでもなればと思いまして」
そのように言うと、そばに控えている女房たちが、
「以前より、狭衣さまの対面に遠慮は無用と院より承っておりますので、もっと親しくなさってくださいな」
「こちらの宮さまは、狭衣さまのご好意を何もお感じになられないご様子でいらして、私たちとしましては少々もの足りないのでございますのよ」
「もう少し狭衣さまのご親切心に甘えて打ち解けて下さってもよろしいのでは」
などにぎやかだが、だからといって図々しい態度を取れる宮ではなく、宮のいる御簾のすぐそばに狭衣が近づいてきた時だけ、感謝の意を表す言葉を小さな声で二言三言、挨拶するのだった。その気配が、今は入道の宮になってしまったあの女二の宮によく似ていて、ああやはり御姉妹よ、と狭衣は思う。ずっと若宮会いたさにこの一條の宮に通いつめていたのに、世間は噂のひとつもたてず、なのに一品宮の時にはありもしない事を既成事実のように騒ぎ立てて・・・と、くよくよと考え込んでしまうのだった。


話は一品宮に戻る。常磐の尼君の娘が、あの飛鳥井の女君の子に付き添って一条院に上がり女房となったが、その娘は一条院では小宰相の君と呼ばれている。狭衣も、今ではあの一条院の女房で親しく出来るのは小宰相だけと、飛鳥井の女君の事を懐かしがりたい時や姫の事が話したくてたまらない折に、小宰相に会ってはくつろいで話して行くのであった。そんな二人に、顔をしかめてささやきあう女房も何人かいた。一品宮も、
「女人であれば誰でも良いようですわね、あの方は」
と不快な気持を隠そうともせず、しかもこんな嫉妬をする自分がみじめで、一日も早く出家してこんな物思いと縁を切ってしまいたいものよ、と明け暮れの勤行に身を入れ始めるのだった。狭衣が来ても、宮は部屋に訪れることもなくなり、彼はこの院ではすっかり独り寝の身となってしまった。一条院にも堀川邸にも居たくない時の隠れ場所にしていた一條の宮も、若宮が堀川に移ってしまった今となってはそれほど行きたいとは思わない。若宮がいるから堀川邸に居たくても、それでは一品宮の降嫁を許した帝に顔が立たない。
「そなた、ぐずぐずと自分の部屋に引きこもってばかりで、一条院へはどうしたのだ。今上に申しわけないとは思わぬのか」
と父大殿にもせっつかれる。
「わたしの居場所など、この世にないというのに・・・父君は私に、まるでこの世に居るなと言わんばかりのようだなあ」
狭衣はとうとう源氏の宮のいる斎院へと逃げ込んでしまった。
例年より雪やあられの多い晴れ間の少ない冬の景色も、斎院という場所がら、さらに心細く感じる。参上した狭衣は斎院(源氏の宮)に対面した。小さな几帳の向こうに菊の模様を浮き織りにした蘇芳がさねの衣装を着た斎院がほのかに浮かぶ。豊かな髪が肩を流れて衣装の裾にたまりこんでいる具合もことさらすばらしい。斎院が衣装にたきしめた薫りがあたりに満ちる中、ああこのような方をさしおいて一品宮などという何もかも劣った人と結婚してしまったことよ、と狭衣はすっかり卑屈になってしまっていた。
斎院の懐で寝入っていた猫が、目を覚まして隔ての几帳をめくって出ていく。その一瞬に狭衣と斎院の目と目が合う。狭衣は少し赤くなりながら、首をかしげた。斎院はその様子を見ながら、相変わらず光るようなお美しさであること、とうっとりする。一方の狭衣はといえば、源氏の宮が斎院になった日からの自分の情けない日々を思いしらされていた。自業自得であるには違いないが、どうしようもない有様である。斎院の元から出てきた猫をとらえて引き寄せると、斎院の移り香がして思わず猫を抱きしめた。そのまま狭衣の懐に入ろうとする猫のしぐさがたいそう可愛らしい。一品宮との冷たすぎる結婚生活より、猫と暮らす方がどれほどましだろうか・・・そう思った狭衣は、
「この猫を、しばらくの間私がお預かりしてもよろしいですか」
と聞いてみた。斎院のそばに控えていた宣旨の君が、
「ま。ご冗談を。ご結婚なされていらっしゃるのに、女人より猫をお求めになるなんて。まじめに一品宮さまを待遇なさっておられるとお聞きしておりますよ。猫など引き取られると宮さまが気詰まりに思われるのではございませんか」
と笑う。
「とんでもない。私と宮の仲は、岩間をすり抜ける水さえも洩れることが出来ないほどの親密な間柄ですとも」
これほど白々しいウソもあったものではないが、狭衣はそう返答する。女房たちに自分の本当の懸想人を知られてはならないのだ。

『・・・かつ見るはあるはあるともあらぬ身を人の人とや思ひなすらん
(本当に恋しい人とは夫婦になっていないのは、生きていないのと同じだ。なのにあなたはそんなことをちっともご存知ないのですね) 』

そんな歌を書き散らした紙を、猫の首に結びつけ、「さ、寝てばかりいないで、飼い主のもとにお帰り」と言うと、猫は人間の言葉がわかるかのようにしなやかに斎院の御簾のうちに入ってしまう。好きなだけ斎院と睦まじく出来る猫でさえ、今の狭衣には羨ましくてしかたがなかった。


その年の終わりには、常磐の里にて故・飛鳥井の女君のための供養を行った。
かの女君への真心を、どれほど尽くしても尽くし足りないくらいの想いで盛大に執り行う。経巻や仏像の装飾はもちろんのこと、講師には比叡山延暦寺の首座の僧を招き、当日の法会に招かれた僧は六十数人におよぶ。おごそか極まる供養に、見る人々は、
「このような立派な供養をされる女君とは、さぞかしすばらしいお方だったに違いない」
「若くしてお亡くなりになられたそうな。あれほどご立派な公達が人目もはばからずお泣きになるなんて」
「惜しいお命でございましたのね」
などささやきあっていた。
法会も無事に終わり、居合わせた人々が退出してしまった後も狭衣はこの常磐にとどまり、尼君と女君のこと、遺された姫のことなど尽きることなく話す。次第に夕暮れが近づき、入相(いりあい)の鐘の音がほのかに響く。
簾を巻き上げ風情のある西の空を見ると、尊い浄土へと続いているかのような美しい雲がたなびいていた。
今宵はこのまま、この里でかの君を偲びつつ・・・そう決めた狭衣は、端近でうとうととまどろんでいると、夢か現か、眼前に飛鳥井の女君そっくりの女人が現われ、狭衣に寄り添うようにして歌をくちずさんだ。

『・・・暗きより暗きにまどふ死出の山とふにぞかかる光をも見る
(悟りが得られないまま冥府をさまよっていましたが、あなたさまのお弔いのおかげで仏の光を見出すことができました) 』

そう詠む女君の生前と変わらぬかわいらしさ。絶えて久しく会っていなかっただけに狭衣はうれしくて、何か言おうとした瞬間ふっと目が覚めてしまう。あたりを見渡すと澄み切った月が自分を照らしているだけだった。夢だったのか。ああでも、今この時でもかの君がそばに寄り添っているような気がする・・・狭衣はそう感じた。女君の、越えてゆかねばならない死出の旅路を思いやって、和歌をつぶやく。

『・・・おくれじと契りしものを死出の山三瀬川にや待ち渡るらん
(お互い死ぬ時は一緒に、と誓ったのに、先に死んでしまったあなたは三途の川で私を待ち続けているのだろうか) 』

なんとなく気味が悪くなり、狭衣は気を取り直して法華経を詠み始めた。その声に、遠くで寝ていた人たちが驚いて起き出す。夜明けになって、狭衣は引き続き誦経などを申しつけて、帰り支度を始めた。法会のために、家具など片付けられてがらんとした家の中を見渡す。ふと、かつて女君がいつももたれかかっていたという柱に、歌が書き付けてあるのを見つけた。

『・・・頼めこしいづら常磐の森やこれ人たのめなる名にこそありけれ
(頼みにならない常磐の森よ、変わらないだなんて) 』
『・・・言の葉をなほや頼まむはし鷹のとかえる山も紅葉しぬとも
(決して忘れないと誓った言葉を信じていいですか) 』

柱の下の方にもまだあった。どうやら女君が気分の悪いときに寝ながら書いたらしく、弱々しく判りにくいものだ。

『・・・なお頼む常盤の森の真木柱忘れな果てそ朽ちはしぬとも
(変わらないとおっしゃった言葉を頼みにならないと思いつつも、やっぱり信じてしまう) 』

狭衣は、胸がはりさけそうだった。かの君が、これほどまで自分のことを信じていてくれたとは。そしてつぶやく。

『・・・寄り居けん跡も悲しき真木柱涙浮き木になりぞしぬべき
(女君がいつもよりかかっていた真木柱よ、悲しみの涙でその木も浮いてしまいそうだ) 』

たまらなく悲しく、そのままひざまづいて泣き崩れた。どれだけ悲しい想いで歌を書き付けたことだろう。
「同じ世にありながら何も知らなかったよ・・・どれほど私のことを恨めしいと思ったろうね。愛しい人」
女君の絶望を思いやると、いくら申しわけないと言っても足りなかった。
しばらくすると、悲しみに浸っている狭衣のもとへ、都からお使いの人々がやってきた。「おしのびでこのような所にお出でとは」「大殿がお探しです。早くご帰京を」「だまって行方知れずになられて、殿も上もたいそう心配しておられます」と騒いでいる。
毎度毎度変わらずうるさいことだ、せっかくゆっくり懐かしい思い出に浸っていたのに・・・と狭衣は重い腰を上げた。真木柱を何度も振り返りながら、女君のいた部屋をあとにして、狭衣は京に向けて出発した。

年が改まると、いよいよ源氏の宮は宮中・初斎院での潔斎を終えて、賀茂の野宮(ののみや=本院のこと)に入ることになる。