いどばた無名草子

               (その二)

老尼
「私の見聞きしたことなど、世間並みの事には及びませんけれども、16,7歳のころ、皇嘉門院(崇徳天皇の中宮聖子)さまのおん母君であられる北の政所さまにお仕えしておりました。
こういうと、私の歳がどれほど見苦しいものであるかはおわかりいただけますか。その、お仕えしていた方がお亡くなりになられた時、出家された皇嘉門院さまにお仕えするはずでしたが、後宮の華やかさが捨てきれず、その後も後宮にお仕えしておりました。それからも、二条天皇、六条天皇、高倉天皇の御代と、お仕えしていくうちに、人の数にも入らなかった我が身も、それ相応になってゆきまして…」
少納言
「半人前だったのが、トシとってベテランになったわけね」
右近
「話のコシを折らないでよ、少納言の君」
老尼
「まあ、そうです。ベテランとは聞こえがいいですが、
白髪のオババが小言を言いながら宮中を歩き回るのも、我ながら見苦しく思えるようになりましてね、適当な理由をつけて出家したわけです。
それからは、けっこうまじめに勤行しておるのでございますよ。『法華経』一揃いを毎朝のおつとめとしております。今日も早くから家をでまして、仏様にお供えする花などをさがして歩いておりますうちに、迷ってしまいまして、こちらにたどり着いたわけです。ああ、そんなこんなで、本日はまだ法華経を唱えておりません。ちょっと読ませていただいてもよろしいですか」
中務
「同じ読むのなら、もっと近くで聞いてみたいわ。そんな勾欄のとこじゃなくて、中に入ってくださいな」

そんなこんなで、板敷に畳(うすべり)をひいてもらって、そこで法華経唱えさせてもらったわけ。…まあ、客じゃないから、これでもラッキーよね。一生懸命唱えさせてもらったわ。

小侍従
「まあ…なんてしみじみとしたお声なんでしょう。名のある僧侶でもここまで上手には読めないでしょうよ」

右近
「これも前世からの縁に違いありませんわ。今宵は五月雨にはめずらしく、月も美しいですし、今夜はここで、みなさまご一緒に夜明かししましょうよ。わたくしは右近、隣にいるのが小侍従。そちらが中務、あちらにいるのが少納言ですわ」

んまー!ツイてるわ。雨露しのげる場所さがしてたのに、こんな風流なお屋敷に入れてもらって、夜伽しながら朝までなんて、何十年ぶりかしら。まるで後宮のサロンみたい。ああ若かりし頃の血が騒ぐわ。
…でもこの人たち、何者かしらね。見たところ、上流貴族の別荘ってかんじだけど、こんな簡単によそ者を入れちゃって、無用心といえば無用心よねえ。

一通りお経を読み終えて、畳(うすべり)に横にならせてもらってたんだけど、この人たち、とりとめもないことを次々にしゃべっているのね。経典のことを話してたかと思えば、花や紅葉、そうかと思えばいつの間にか月や雪。

見たところ、みんなアンダー20かしら。いいわねえ、ピッチピチで。あたしも、何十年か前は、宮廷でこんな風だったのよね。見てるとなんだかこっちまで若返っていくようだわ。

中務
「さあさあ、ちょっとマジな話をしましょうよ。そうね、この世で一番心がひかれるものってなあに?」
小侍従
「オーソドックスにいえば、やっぱり雪・月・花でしょうね。ああ、これが前提でのはなし?…そうねえ、わたしはほのかな夕方の月と、身にしみてしみじみ感じる有明の月かしら…。ああでも、雲ひとつない夜空にくっきりとうかんだ月を見てると、前世も現世も来世も、はるかな高麗・唐土も、自分の死後の道しるべも照らしているようで、胸がいっぱいになるわ」
右近
「あなた『暗きより暗き道にぞ…』のファンですものね。たしかに、末法の世の中を天から照らす月を見ていると、仏のお導きを感じることができますものね」

小侍従
「手紙、なんてのもどうかしら。『枕草子』でも、くりかえしくりかえし評されているし。遠くに離れた知人の手紙を見ると、その方が目の前に向かい合ってくださっているような気がするわ。それに、めんと向かってはいえない様な気恥ずかしいことでも、手紙なら素直に伝えられる時だってある。なにやら後世では、『
電波』とやらに文字をのせられるそうだけど、やっぱり相手の文字を見てこそ、よ。昔もらった手紙を読み返すと、当時の自分の気持ちも思い出せるし、亡くなられた方の手紙を見れば、胸にせまるものがあるもの」
右近
「そうね。文字…誰がいったい考えついたのかしら。もし、これがなかったら、記録を残すことも、思いを伝えることもできないのよね」
少納言
「夢、ってのもあるわ。死んじゃって、もう逢うことが出来ない人でも、夢の中でなら逢えるわ。起きたとき、とても胸がいっぱいになるわ。
夢でもいいから逢わせて下さいって歌、いっぱいあるじゃない」

中務
「涙も胸にせまるわよ。『柔よく剛を制す』っていうし。美女の涙ひとつで武士も仙人も、帝だって落とせるんだから」
少納言
「理屈ねえ。話が横にズレそうよ」

老尼
「仏の道、はいかがでしょうか。前世・現世・来世の三世界において、やはり阿弥陀仏が第一とわたしには思われます。どのような激情にかられた時でも、『南無阿弥陀仏』と唱えただけで、おのずと心が平静になれるものです。他の方はどうお感じかわかりませんが、わたしには阿弥陀仏、ひいては法華経が第一です。あんな傑作の『源氏物語』に、この法華経のことがなにも触れられていないことが、残念で、残念で…ううっ」
少納言
「紫式部が法華経を知らなかっただけなんじゃないの?以前は女は漢字を知ってるだけで気味悪がられたっていうし、知らないふりしてたのかしら。今は、経典の句を和歌に詠みこむこと、流行してるのにねえ」
中務
「紫式部ほどの人が、法華経を読まないわけないじゃない。でも、不思議といえば不思議ね」
右近
「では、尼君さまが『源氏物語』を出してくださったところで、源氏物語について、いってみましょうか」