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−藤原俊成女−

「無名草子」、この作品は1200年〜1201年の間に、藤原俊成女の手によって執筆されたものであろう、と推定されています。 彼女が生まれたのが、だいたい1171年ごろ。「無名草子」 を書いたのは30歳ごろといわれています。 彼女は、俊成女といわれていますが、実際は俊成の孫です。

お父さんの藤原盛頼が、同母兄成親(なりちか)の起こした鹿が谷事件に連座して失脚したため、母方のおじいさんである俊成の娘の扱いをうけていたようです。俊成には、非常に溺愛されていたため、彼女の生きているうちから「俊成女」といわれていたようです。 彼女は1192年(後白川院がなくなり、源頼朝が征夷大将軍になった年)には、源通具(みちとも:源通親(みちちか)の二男。当時従五位上・因幡守)と結婚していました。ふたりともほぼ同年齢の22,3歳。このとき、平安時代の婿入婚と、室町時代以降の嫁取婚の過渡期特有の、経営所婿入婚(けいめいしょむこいりこんと読みます。ややこしいですね。つまり、両方の親から離れて、夫婦だけで家を借りて、生活することです。)をとっています。

それから6年後の1198年。子供二人も生まれ、おだやかに生活していた家族に大きな変化がおこります。土御門天皇の即位とともに、外祖父になった(夫の父)通親を手助けしていた兄の通宗(みちむね)が、蔵人頭(くろうどのとう)になった直後、31歳の若さで急死し、彼女の夫の通具が、兄のかわりとならなければならなくなったのです。

通具は、父の地位を磐石とするために、1199年ごろ、土御門天皇の乳母・信子と親しくなり、ついには正妻とし、俊成女と別居・離婚しました。

おだやかに暮らしていた夫婦の政略的ともいえる離婚…。そんな中での「無名草子」の執筆。おそらく、自分自身を通して文字を書くことによって、女性の生き方を確かめようとしたのではないでしょうか。

離婚後の彼女の活躍は、めざましいものでした。「無名草子」を書き上げたとおもわれる直後、別れた前夫・通具が、父である内大臣通親主催の歌合せに彼女をさそいます。そのとき、後鳥羽院の目に止まり、一気に大ブレイク。宮廷の歌詠み女房として、どんどん実力をつけていきますが、本人の気質は非常にストイックで、精神世界を重視していたようです。「無名草子」の中には、架空・史実混ぜ込んだ多くの女性が登場しますが、「苦しみ嘆きは離れがたいもので、いまさらそれを書きはしない、書くべきことは、それらを乗り越えた、その心用い」を常に意識しているようです。

その後、彼女は子供が成長して1213年、43歳で出家し82
3歳で亡くなっています。偶然にも、彼女が「草子」冒頭で設定した「80過ぎの尼さん」と一致してしまいましたね。


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