斎信君のおいでませ伊勢物語    〜第三夜〜



昔、ある男が、東の五条の皇太后宮のお屋敷に住む、お姫さまのもとに通っていました。西の対の屋に住んでいるそのお姫さまのことを「しょせんは叶わぬ恋だから」程度に思っていたのですが、忍び逢いが重なるにつれ、男も、そして女の方も、次第に愛情が深くなっていきました。
そんなある日の正月十日頃、女は突然姿を隠してしまいました。
行く先は聞き出しましたが、普通の身分の者がとても訪ねて行けるような場所ではありません。
手の届かない遠いところへ行ってしまったお姫さまを想い続けて一年、男は次の年の正月、梅の花ざかりの季節に、お姫さまが住んでいた屋敷を訪ねました。
西の対の屋を見渡しますが、あるじの居ないガランとした部屋に去年の面影はありません。
男は泣きました。夜が更けるまで板敷きの上に寝転がってむせび泣きました。


月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして


そうつぶやいて、夜が明ける頃、しょんぼりと帰っていったのでした。


見習い
「枕が浮くほど泣くとか袖がしぼれるほど泣くとかは、ちょっと引くものがありますけど、この物語の男の泣くさまは本当に心情が伝わってきますよ。めぐる季節にあなたを歌う〜♪」
斎信
「何もかもが一年前と同じなのに、たった一つ違うのはそなた…そなたがいない、ただそれだけで、満ちる月も咲く花も、こんなにもよそよそしく感じるとは…」
見習い
「ううっそんな腰砕けな吐息まじり声で(〃▽〃)」
斎信「頬を染めるな気色の悪い。
わかりきったことを敢えて確認しとくが、見習い君へ恋の挑発かましてるわけではないからな。おかしなカン違いはしないでくれたまえ。
この和歌は違う解釈もできるな。
一年前と同じに見える梅の花だって、本当は散って再び咲いた花なのだ、この恋も散ったはずなのに、いつまでも諦めきれない自分がここにいる…とね。
膝小僧を抱いて、あるいは顔を手で覆って仰向けに寝転がって、毎年繰り返される自然の法則の中にポツンと置き去りにされた男が独り…いいよなあこの歌。自然と人間との対比がさ」
見習い
「そしてとうとうお姫さまは、入内させられてしまうわけですね。苦しい恋を訴えたら、帝への反逆になってしまうし。それからの二人は、どんなにつらくても、もうお互いの真心を交わしあうことなんてできなくなっちゃたんですねえ」
斎信
「ところがどっこい。高子姫はけっこう奔放なお姫さまだったらしくてね、したくもない入内を強引に持ち込んだ親兄弟に対する不満も重なって、この灼熱の恋愛を忘れられなかったとみえる。
入内後は、何かにつけては自分のサロンに呼んで宴を催したり、出世に力を貸したり。高子姫は、活発な文学サロンを持っていたんだ。で、天才歌人兼かつての恋人は、サロンの有力メンバーだったんじゃないかな。男の方も、引き裂かれた恋を忘れられるはずなかっただろうし。公然とはできないけどアイコンタクトはずっととり続けていたようだね。
そんな二人のある日の情景というものが、この物語のあちこちに宝石のように散りばめられているよ。


昔、ある男が、よその屋敷の前庭に、菊を植え込んだ時、祝いの歌を詠みました。


植えし植えば秋なき時や咲かざらむ花こそ散らめ根さへ枯れめや(51段)


昔、ある男が、清涼殿と後涼殿との間の廊下を歩いていたとき、とある高貴な御方の部屋から忘れ草を持った侍女がやってきて、
「この忘れ草を忍ぶ草というのでしょうか(とうに忘れられたこの身なのに、今でも恋い忍んでいるよ、とウソをおっしゃるのですね)?」
との言づてを差し出されたので、男はこう答えました。


忘れ草生ふる野べとは見るらめどこは忍ぶなり後もたのまん(100段)


昔、ある男が、東宮の女御の御殿でお祝いの花の賀が催されたとき、お誘いにあずかり、こんな歌を披露しました。


花にあかぬ嘆きはいつもせしかども今日のこよひに似る時はなし(29段)


昔、二条のお后がまだ東宮の御息所と呼ばれていた頃、大原野神社にお参りなさいました。この神社は藤原一族の氏神である奈良は春日大社の、いわば京都支店です。
お供の中に、近衛府に仕える老人がおり、他のお供の人々が褒美をいただく中、その老人はなんとまあ御息所のお車から直接ご褒美をいただいたそうですよ。そのときのお礼に老人が奉った歌は、


大原や小塩の山もけふこそは神代のことを思い出づらめ


さて、老人の心の中に、何か悲しい思い出でもあったのでしょうかねえ。(76段)


どうだい?別れ別れになった後でも、心の交流の跡が思いがけないところできらめいているだろう?」
見習い
「そうですね。こうして業平は、国母という重々しい地位の御方に引き立てられて、次第に出世していきました、と」
斎信
「そんながっついた下心で、業平は東宮の女御(高子姫)に取り入っていたわけではないよ。身もフタもない言い方はよしたまえ。なにしろ情熱的なお姫さまだ、灼熱の愛情を交わした公達を、陰から庇護して何が悪い、ってとこなんだろうな。彼女は、皇子が東宮だった頃からずーっと業平をバックアップしてきた。
それが証拠に、高子姫出生の皇子(陽成天皇)が即位して以降、右近衛権中将に抜擢、その年の内に従四位上にあずかり、次の年には相模守の兼任で収入大幅アップ、その次の年にはとうとう頭中将…業平はエリートコースにガッチリ乗せてもらえたわけだ」
見習い
「100段の和歌は、愛情の再確認なんですかね。姫が忘れ草と忍ぶ草を引っかけて、
『まだ覚えてるなんてウソばっかり。くすくす』
なんて戯(たわむ)れて、
”よそ目には一面の忘れ草の野原でも、本当は忍ぶ草なのですよ。私のことを忘れず、世を憚(はばか)ってでも想いをかけて下さる貴女。私も同じ想いです。貴女の庇護を、心の頼りにして行きますとも”
と業平が掛け合いしてるように見えますが。
ところで、世を憚る忍ぶ草ってなんですか」
斎信
「古びた家の屋根や軒に生えるシダの一種だよ。老木にも寄生しているのを見かけるな。水がなくても耐え忍ぶ、という意味らしい。忘れ草は萱草(かんぞう)という草で、身に付けると、あまりの美しさに憂鬱な気持を忘れるらしい。言っておくが、思い出を忘れてしまう草じゃないぞ」
見習い
「国母である自分のサロンにたびたび招き、四十の祝いの花の賀にも呼ぶとは、本当に愛情をもち続けていたんですねえ。おまけに、大原野行幸のお付きの一人にすぎない業平に、手ずから褒美を差し出すなんて、なんかちょっと感動です。しかも、業平もその想いに十分応えていますね」
斎信
「だな。この花の賀は、春に行われた高子姫の四十の祝いで、29段の歌は、表向きは
『見飽きる事などない桜の美しさですが、今宵ほど名残惜しい思いをしたことは…』
と高子姫の美しさを讃えているんだ。けれど心情は、
”貴女のそばに上がるたびに、いつまでもこのままでと願ってきましたが、今宵ほどその想いを痛感したことはありません。それほど私は…”
と、あふれる恋心を抑えかねているカンジだよ。
76段も表向きは、行啓に付き従った業平が、
『ご子孫の参詣で、氏神様も古(いにしえ)を思い出されていることでしょう』
と和歌で祝福しているように見えるが、やはり心中は、
”貴女と共に積み重ねてきた、愛の歴史が思い出されてなりません。喜びの記憶より、悲しい記憶が多い思い出を…”
と訴えたくてたまらないんだろうな」
見習い
「こう眺めてると、悲恋を絵に描いたような二人ですね。こっちまで悲しくなりそうです。あっでも、51段はどことなくほのぼのした感じがしますよ」
斎信
「そうかい?見習い君もそう思っているならとてもうれしいぞ。ほんの2、3行しかない物語だけど、ささやかな幸せ感が伝わってきて、私も好きだな。どこのお屋敷の庭かはここには書かれてないが、自分のところで育てていた菊を、高子姫のお屋敷に株分けしに行ったんだろう。
”秋が来なければ咲きませんが、秋は必ずやって来て、そして必ずこの菊も咲くでしょう。たとえ枯れて散ってしまったとしても、こんなに心を込めてしっかり植えたのだから、根まで枯れることなく、季節がめぐるたびに咲き続けるのですよ。忘れられない絆で結ばれた私たちなのだから、表面上は別れ別れになったとしても何を悲しむことがあるでしょうか。想う心さえ通じ合っていれば、私たちの愛は永遠に咲き続けるのです…”
あいさつに添えて、自然な感情を伝えているよ」
見習い
「やっぱりここでも、めぐる季節にあなたを歌う〜♪ですか」
斎信「そうだな。自分の家で愛でていた花を、請われて愛する人の家の前栽に株分けする。離れていても、その花が咲くたびにお互いの存在を心で感じあう。ああ、今眺めている菊の花を、愛しい方も見つめているんだろうなあ、たとえ枯れても、季節が来る限り思い出さずにはいられない、ってね」
見習い
「結局、男も女も、過ぎ去った日々の逢瀬を諦め切れずに泣いているだけですよ?」
斎信
「もし高子姫が、この国で一番高貴な女人(国母)になることを望む女だったら、彼女は非常に恵まれた境遇と言えただろうけどね。超上流で育つのも、恋に純粋でひたむきな女性にとってはある意味残酷だよ」
見習い
「ところで、高子姫のバックアップで後年は順調に昇進していますね。最初の頃こそ、太政大臣良房の無言の圧力で東国めぐりなぞしていますが、その後を引き継いだ基経は、若かりし頃迷惑を蒙った業平をつぶそうとか思わなかったんですか」
斎信
「基経公は、憎しみに粘着するような小人物じゃないよ。その頃には、将来を確約された東宮を懐(ふところ)に抱えていたからね。自分トコの門閥が安泰なら、我が妹との過去の過ち程度、寛大な目で見なくてどうする」
見習い
「おエライ方はみんな意地悪だと思ってました」
斎信
「お家安泰が確保できれば、みな善良ヅラするさ。さて、それじゃあ次回は、高子姫との私通の発覚で、都にいたたまれなくなった業平の、東国めぐりの話だ」
見習い
「ええと、その前に、疑惑の65段があるんですが。童殿上していた業平と、高子姫との宿命の恋のお話です」
斎信
「うーん、露見したら身の破滅と知りつつも、泥沼にハマッていくという話だな。悲哀に満ちた運命の二人を描いちゃいるが、少なくとも高子姫との恋バナじゃないだろ。詳細は、いずれするから。次回の舞台は東国へ遠征だ」


 



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