仮 面



面をつけて顔を隠した瞬間に、新しい人格が生まれる…ということは本当にあるのかもしれない。先ほどまで陽気な笑顔で軽口を叩いていたその人物は、眼光鋭く鼻の高い異国風の面で顔を覆った瞬間から、おのが日常性を消し、別の人格を浮き上がらせた。超自然的な容貌の仮面は、それ自体が、強力な呪力を生み出すための媒介物だ。
公任は、自分の奏でる笛の音に合わせて舞い始めた斎信を見ながら、そんなふうに思っていた。
貴徳候――匈奴の王で、漢の帝に降伏したこの勇将を模した舞は、白い顔、白い髭、白い眉の眼光鋭い異国風の面をつける。太刀と鉾を手に持ち、早いテンポで舞うこの『貴徳』は、上背があり、凛々しく、均整の取れた肢体の舞手を要求する。今度の中秋の宴で、極めて躍動的なこの『貴徳』を舞うこととなった斎信は、「堂々と太刀を振り回せるからね、とても楽しみだ」と意欲満々だ。稽古につきあわされて、高麗笛を吹かされる公任は面倒くさい事この上なかったが、この斎信の一人舞を稽古のたびに見られるのはなかなか悪くない、と思っていた。
実際、斎信の『貴徳』はたいそう魅惑的だ。自分の容姿を最大限に生かし、計算され尽くした動きを熟知しているこのナルシストは、自己陶酔に周囲の者まで巻き込む力があるらしく、大きくひるがえる肢体や流れるポーズの美しさを眺めているうちに、なにやら甘美な呪力に陥ってゆく錯覚に襲われる。異国の仮面をつけて斎信という人格を消し、日常を超えた存在になればなおさらだ。
こいつは本当にワンマンショー一人舞がよく似合う…笛を吹きながらそんなふうに見ている公任だった。すぐ隣で、同じく高麗笛を吹かされている経房少将も、きっと同じような目で斎信を見ているに違いない。今は稽古用の面にただの狩衣だが、当日の夜は、萌黄色のすばらしく華やかな別装束に、鳳凰の鳥甲。風になびく柳のごとく舞う姿は、まさに王の中の王。全骨格を外に向けて手足をひるがえし、美しい動作で流線型を宙に描く。優れた舞手は、おのれの思想を視覚化させて表現するというが、面をつけた時の斎信はその逆だ。顔を隠した途端、斎信の気配は消え、そこには蛮族の勇将が現われる。ある時は仙人が現われ、あるいは鶴や鳳凰が羽ばたく。一見感情のほとばしるままに舞い、足を踏むように見える走舞(はしりまい)だが、斎信のそれは優雅さと勇壮さがとけあって、見たこともない西域の砂漠や密林の幻を呼び起こす。相当な運動量だが、足音一つ立てずに軽やかに、かつ力強く舞う斎信は、息も全くあがっていないようだ。
だいぶ鍛えこんでいるな、と公任は感心していた。当日の宴で、御簾の向こうの後宮女房たちが腰砕けになる姿が容易に想像できた。稽古でさえ、この対の屋の入り口に、邸中の女房たちが詰めかけているのだから。使用人のため息は主人に聞こえてはいないだろう、主人はどっぷりと自分に酔いしれている。私は今、散りゆく覇王だ!と。
「まだ続ける気ですかねぇ…」
そろそろ飽きてきた様子の経房少将が、口から笛を離してつぶやいた。
「確かにいいかげん飽きてきたな。だが見てみろ、我々の笛なぞ関係なさそうだ」
公任があきれたように言う。
笛の音が止んでも一向におかまいなしに舞っている斎信だった。私は三国無双の勇将(匈奴の王だろうアンタ)、私はエラい、たとえ漢の帝に降伏するとも、騎馬民族の王者の魂だけは汚させやしない!
「なりきってますね〜、はやく目をさましてくれないかなぁ」
「なに、疲れてきたらそのうち止めるさ」
もう相当舞っている。冬ならば、面の鼻の部分に開いた二つの穴から、吐く息が白く見えるに違いない。まるで本物の異国の王者がそこで息をしているかのように。けれど今は秋。鼻から吐く白い息は見えないが、
その代わり、白い仮面の鼻からは、赤い血が流れ……赤い血?
赤い血??
―――っ斎信!!」
「頭中将どの!!」
二人は、まだ舞っている斎信のもとにあわてて駆け寄った。公任が大急ぎで面をはずす。
「え。なんだい?いいところなのに…」
突然中断されて目がテンになっている斎信の顔が、面の下から現われた。
「おまえ鼻血が出ているぞ!気がつかなかったのか」
「???うわ本当だ!」
鼻の下に当てた手のひらを見て、斎信はようやく我に返ったらしい。
主人の異変を聞きつけて、対の屋の入り口で先ほどまでため息をついていた使用人たちがわらわらと飛んできた。薬師を呼びに行く者が外に走って行く。
「とりあえず座れ。ホレ斎信、下を向いてアゴを引け。じきに止まるから」
そう言いながら、公任は斎信の鼻を強めにつまんだ。
「…ちがくちどだかにはいってくる(血が口の中に入ってくる)…」
「血を飲み込むんじゃない、吐くんだ。飲むと後で気持悪くなるぞ」
「舞に熱中しすぎてのぼせちゃったんですね、頭中将どの。いやいや血気さかんなお年ごろだからなぁ。本番に向けて、そろそろ精進料理でも食べられて、血ヌキ脂ヌキしたほうがいいのではないですか」
「うれしそうな顔して心配しないでくれよ、他人事だと思って…」
正しい応急処置を施された斎信の鼻血はやがて止まり、安静にするため、薬師の待つ寝殿へと斎信は移された。対の屋には、客人たる公任と経房、それと血で穢れた稽古面が残された。
「この面は早いところ処分しないとな。なにせ血で穢れてしまったものは仕方ない」
見たくもないというふうに、扇で口を覆って公任がつぶやいた。
「処分なら、私にお任せください。これは高く売れますよお〜」
妙にはしゃいだ様子の経房が、ニコニコ顔で言う。
「??少将?何の話だ」
「面の裏に頭中将どのの汗のにおい。それだけでも高値がつくのに、今回は特別にハナ血つきですからねー。内裏の女官たちが運営するアングラオークションに出展しようと思いまして」
経房は、懐紙で手早く面を包み、袖の中に入れてしまった。
「アングラオークション?・・・後宮にそんなものがあるのか」
「我々下っ端の、ささやかな集いですよ、気にしないで下さい。はっはっは。ではわたしは、これにて失礼」
問題ありすぎる発言を残して経房は帰っていった。
後宮の奥深くで、女官たちがわけのわからんものを競売にかけているとは大いに問題だが、このことを公卿たちにチクッたことがばれたら、女官たちからどのようなめにあうことやら…想像しただけでも恐ろしい。女人を敵に回すことだけは何としても避けたい、聞かなかったふりをして、関わらない方が無難だ。触らぬ女人にたたりなし。
やはり斎信の容態を確認する事なく帰り支度を始めた公任だった。


2003/10/4