高級牛車にて


行成はこんなに豪華で乗り心地の良い牛車に乗るのは初めてだった。黒く塗られた網代車には極彩色の菊の花に流水を配した模様。ひと目で「どけどけ、道兼さまのお通りじゃ」とわかる模様になっている。さすが右大臣の財力だ。力強く安定した歩みを約束する大きなあめ牛。頑丈そうな木の車輪には防水・防腐のための柿渋が塗られ、車輪の軸にはこまめに潤滑油を注しているのか、走行はほとんどきしみのないなめらかさ。そして何か特別な空気袋でもはめているとしか思えない、うたた寝確実でナイスなサスペンション。ふんわりと座り心地の良い敷物。固綿で丸みをつけた脇息。立ち上がる時や車が揺れたりした時に大変便利だ。細かく緻密な意匠を凝らした天井からは、とても持ちやすそうな綾錦の紐がぶら下がっている。車がかなり揺れたとしても、こんなつかまりやすい紐があれば安心だ。つまり何もかもがベストデザインなのだ。


ゴージャス&ラグジュアリーな大人の空間がここにはある――単なる移動の時間が思いもよらぬ優雅なひとときになった、と行成は成功者の象徴のような超高級車を堪能していた。
今宵は大納言朝光卿宅で私的な会合があり、右大臣道兼の所有する牛車に式部丞信経と備後権介行成が乗り合わせ、大納言のお屋敷に向かっている途中だった。過日、道兼が非公式で春日神社参拝したおり同行したのがきっかけで、それ以来行成はこのいかめしい顔つきの右大臣に声をかけられる機会が少しばかり増えているのだった。
身分の低い信経と行成は馬でお供してもよかったが、最近つくったこの豪華な牛車を、右大臣道兼はとにもかくにも見せびらかしたいらしい。その気持ちは行成にもよくわかった。いつの日か出世街道を歩けるときが来たら、男なら誰もがあこがれるこんな超高級牛車のオーナーになってみたいものだ。そして、落ち着いた大人の空間で高尚な会話を楽しんだり、書論を繰り広げたり、女性と寸止めラブラブ密話を楽しんでみたい
―――


「時に信経。そなたねんごろな関係の女がいると聞いたが」
道兼の声で行成はハッと我に返り、信経の方を見た。信経は信経で、雲の上の公卿が自分のプライベートな日常をご存知だなんてと明らかに動揺している。
「は、はい。月に何度かの時候の挨拶を交わす程度の女でしたら」
「いやいや。そのように控えめに言わずともよい。聞いておるぞ。お目当ての女はこれから行く朝光卿のお屋敷の、小兵衛という中臈女房だと。そなたの方が熱心に追っかけていると言うではないか。なかなか魅力的な女なのだろう。して、守備はどうなんだね」
「守備、と仰られますと」
「進展具合だよ進展具合」


唐突に恋人の話をふられて困惑気味の信経。右大臣にとって、下っ端役人の恋愛事情なぞ何の有益な情報でもないのにと行成は不思議だったが、この自慢の牛車を見せびらかすことが出来てご機嫌なのだろうな、と思った。
「は。以前公用で大納言さまのお屋敷を伺ったおりに、悪天候でずぶ濡れの私の世話をしたのがきっかけでして」
「ほう、なかなか気配りのできる女房だな」
「まことに。やさしくて気配りができて美しい女なんてなかなか出会えるものではありません。お偉い方々は、お姫さまの噂と実際逢った時のギャップに往々にしてがっかりするそうですが」
意中の小兵衛の君を誉めてくれたので、口が滑らかに動き出した信経だ。
「おうおう、まさしくそのとおりよ。噂とは真反対の、気難しくてわがままで自己中な姫のなんと多いこと」
「あんなめったにない美女を逃してたまるかとせっせと通いつめ、やっと最近わりない仲になれた、という次第でございます」
「そうかそうか」
「今ではお屋敷が寝静まった頃にそ〜っと忍んでまいりまして、夜明け前に帰るという、幸せな逢引きが続いております」
「まるで結婚でもしそうな勢いだな。そんな勢いならば、もう小兵衛は本名を教えたかな」
「つい先日やっと彼女が教えてくれまして。二人きりのときは『静子(しずこ)』と呼ぶことを許してもらえました」
「なるほど。
私は、以前から彼女を
『しーちゃん♪』
と呼んでおるぞ」
「あっ……
……。
う…あ、それはその、ど、どういう」
「ふっふっふ。声も出ないほど驚いたか?信経よ。
この件については色々聞きたいことがある。
あとでじっくり話し合おうぞ。
今宵は楽しい宴になりそうだな」


ラグジュアリーな大人の空間で繰り広げられる大人の会話。
道兼の声音は先ほどと変わりない。にやにやと笑みさえ浮かべている。行成にはかえってそれが怖かった。信経はうつむいていてどんな顔をしているのかよく見えない。だが、拳を握り締めて身体を震わせているのはわかった。たったこれだけのたわいもない会話で、信経は仕事も女もしごく順調な男から、右大臣の隠し愛人をうっかり寝取ってしまい官職をいつほされるかわからない立場の男へと転落してしまったのだ。


すまない、すまない信経殿。何の助け舟も機転も利かせられない私を許してください
――
若くて経験も浅く真面目な行成は、ヘタな反応をして道兼を刺激すると後が怖いので何も答えられなかった。




この日を境に行成は、女官に手を出さない面白みのない男、そして他人にスキを見せず、手柄を立てるよりは失点を抑える堅実な男という、官僚のお手本のようなキャラを目指し始めた。


一連の経験がよほどのトラウマとなったと見える。




2008/7/9