頂 上


斎信は、いま自分がどこにいるのか皆目分からなかった。
あたりはうす暗く、自分の足元には地面の感触が無い。寒くもなく暑くもなく、おまけに着物すら身に付けていないのではないか、と感じていた。
肌にあたる布の感触すらない。
「私はどこにいるのだ…」
独り言が口をつく。
まるで暗いわけではないので、自分のいる場所はどうやらそれほど広い所でもないらしい、ということだけはわかった。延々と続くほら穴の真っ只中にいるような、見たこともない場所。気がついたらここにいた。斎信は必死で記憶を手繰り寄せる。自分の名、官職、内裏の様子、知人、部下、住んでいる屋敷……
思い出そうとすればするほどに、おぼろげな霞(かすみ)の彼方に記憶が散っていく。
私は誰だ。なぜこんなところにいるのだ。
むき出しの頼りない姿を想像すると、羞恥と不安で震えてしまう。これから一体どうすればよいのか、いや、ここから出るにはどうすればよいのか…そう考えた時、ふいに彼の心の奥底で声が聞こえた。
『そう、一刻も早く抜け出して、そして一番に辿り着くのだ!』
どこに?
斎信はどこに辿り着けばいいのかまるでわからない。なのに、己の本能は、その分からない場所を、生まれる前から知っているかのようだった。
斎信は突き上げてくる声に耳を傾けてみる。そうすることで、自分の行くべき場所がわかる気がした。このほら穴のどちらが出口なのかはわからないが、でも行くべき方向はこちら…斎信は、本能に従って進みだす。宙に浮かんでいるようでもあり、また、ぬるい水の中を突き進んでいるようでもあった。
そうしてどんどん速度を早めて進む自分におどろく。進むごとに、覚醒感が増していく。
ああそうだ、きっと私が一番乗りだとも!私は生存競争の究極の頂上を目指しているのだ。さっきまでいたあの場所で、あとから来る奴らはもたもたしているに違いない。この長い長い旅路が終わるとき、明るくひらけた世界には、崑崙の珠のようにまろやかな光をまとった唯一人の運命の人が私を待っているはず。堅い扉をこじ開け、力強い歩みで前に進んだ私の手に、運命の佳人の白い指が差しのべられるだろう。見よ、その瞬間世界は閉じ、遅れたやつらは寄り付けもしないことであろうよ。一番最初に運命の人の手を取った男だけが、たった一人の男だけが、新しい生命を創りだせるのだ。遅れをとったやつらは、この毒の海で苦しみながら息絶えていくだろう。
本能に従って、今や完全に覚醒した斎信は、この旅路の果てはどこなのか、自分が何者であるのか、そして旅の目的は何のかはっきりと自覚していた。
そのとき。
少し先を、男が一人、やはり自分と同じように突き進んでいるのが見えた。
私が一番ではなかったのか!何としても、この男を追い抜かねばならない!
あせった斎信は、その男に近づいた。
「やあ!こんにちは。君が一番なのかい?悪いけど、新しい命を創りだすのはこの私だ。速さでは絶対負けないよ」
そう言い捨てて追い越そうとしたとき、男がぼそりとつぶやいた。
「おめでたいヤツだな、おまえは。ここをどこだと思ってるんだ」
斎信は既視感にめまいがしそうだった。よく知っている男の顔だ。なのに記憶は儚い霞の彼方。
「え。どこって…。ここは、子宮への道だろう」
「ふん、俺たちの役目の果たせるただ一つの場所へ、めでたく行けるとでも思い込んでいるようだが、残念ながら、この道はそんなところには続いていないぞ」
斎信は、この男の言葉の意味がよくわからなかった。何をほざいているのだ。
私たちの放出された意味、そして行くべき場所は今も昔も永久不変だろう。
男はさらにたたみ掛けるように言葉を続けた。
「おまえはここに来るまでに、なにかおかしいとは感じなかったのか?酸の毒で、仲間の大半がこころざし半ばで死んでゆくということを、俺たちは本能で知っている。おまえはそんな苦しい毒の海を泳ぎ抜けてきたか?違うだろう」
「そういえばそうだ。とても楽だった。なぜだ」
「知りたいか」
そう尋ねながら、男は、見慣れているはずの口の端をゆがめてにやりと笑う。
「ああ知りたいね。私はここを抜けて、運命の人と新しい生命を創りだすためだけに存在しているのだから」
「残念だが、俺たちが今いる場所は、食道だ。
そして行き着く先には、胃が待っている」
「……」
「……」
「……」
「聞こえなかったか」
「…言っている意味がよくわからない…」
「俺たちは、胃液に溶かされる運命なのだよ」
「ど、どうしてそんな」
「さあ。俺たちを放出した場所が、口の中だった、ということらしいな」
男の一言に呆然とする斎信。
「まもなくとてつもなく広い場所に辿り着く。そしてそこが、俺たちの墓場だ」




斎信は、自分の絶叫で飛び起きた。
同じように横で寝ていた女がおどろいて声をかけたが、斎信は心ここにあらずといった様子だった。心臓がバクバク波うち、目覚めたばかりなのに、気が遠くなりそうだ。夢…だったのか、よ、よかった〜〜。斎信は我にかえると、がっくりと肩を落としてうつむいた。悪夢にもほどがあるぞ…と、おのれの見た夢に悪態をつきたくなる気分だったが、逆に考えると、この酷すぎる夢は、仏さまが自分に見せた戒めの夢ではないか?と思い直した。そういえば最近、遊びと割り切っている女房との逢瀬は、相手の気持もお構いなしで、ちとしつこくし過ぎていたかもしれない。きっと仏さまが、相手の体をいたわる優しい気持を思い出させるために、警告なさったのでは…うん、きっとそうだよな!最近ちょっと乱交気味だったしな!
斎信は、そう自分に納得させて気持を切り替える。不審げな顔で見つめている女に笑みを返し、寝入る前の無茶なプレイを挽回するかのように、誠実さを全面に押し出して、女の上にのしかかっていった。




2004/2/23
芥川龍之介「蜘蛛の糸」を読んでて思いついた最低下劣ネタ